第二章 虚無は深く。宇宙は神苑。神は裁きを知らず。 2
セルキーという男がいる。
彼もロータスの側近のような位置にいる。
いつも、彼の身体からは絵の具の匂いがする。
彼は絵画を描いていた。
彼の描く絵は、デッサン、構図が狂っている。
しかし、その絵を見るものはそれを恐ろしく思う。
恐ろしければ、恐ろしい程に、それは幾筋もの救済を放っていた。
…………。
白い翼があった。
男のような。女のような。あるいはどちらでもないような白い服に包まれた肉体。
そいつの顔はぐちゃぐちゃに潰れていた。
顔を黒く、黒く黒く、幾何学模様を描くように潰された天使。
翼は所々の骨が剥き出しだ。へし折れている。
顔の無い天使の中には、腹を切り開かれて内臓が零れ落ちている者もいた。
まるで、そいつらは生きているかのようだった。
配色として、全体的に、緑、深緑や黄色を強調させている。
……アニマの描く絵とは対照的だ。
しかし、ロータスは彼の描く絵をえらく気に入っているみたいだった。
彼の描く絵画に、えらく魅せられているみたいだった。
彼女は言う。
「永遠の夜のようね。この世界は。何処に行ったら、綺麗な空間ばかりが広がっているのかしら? 宇宙の果てにはあるのかしら?」
…………。
セルキーの描く絵は、この世界の人間達を現していると彼女は言う。
顔が潰れた天使。
ぐちゃぐちゃに折れた両翼。
腐乱した肉体。
そこには。内臓が。大脳が。骨片が。筋組織が。曼荼羅のように、記されている。
全ての調和が破壊され尽くしている。
そして、もうどうしようもない、空虚感を感じる。
悲しみ。痛み。苦しみ。
手を繋ごうとして、手と手が重なり合わない者達。
それらが、混合されて。
光の粒子のように、溶けている。
一筋の安息を覚える。
反転こそしているが、確かな希望を。
美なんてきっと、無い。
人間が作り出した、まやかしに過ぎないのだと思っている。
それでもだ。
それでも、カイリは、この絵画を観て美しいと感じる。
気付けば、涙が零れ落ちる。
何も無い暗闇の中に、亀裂が走るかのように。
彼の絵画を見ていると、涙が零れ落ちるのだ。
闇を描いていながら、心に光が灯っていく。
人間が美を感じる瞬間。
おそらく、それは自分自身が置かれている環境や立場によるのかもしれない。
何かを美しいと思う感情。
それは、自分自身が心の奥で求めているものが、この世界に顕現されていた時なのだろう。
セルキーの絵画。
それは、カイリの胸を深く打つのだ。
†
カイリの故郷は、今や水の中だ。
小さな集落だった為、国家にとってはいらないと判断された。
積み上げられた大きなダム。都市。
故郷無き世界に生きて、生まれ落ちた場所を喪失し、彼は世界を呪詛している。
自分が何処にもいないような感覚に、日々、襲われている。
そう、覚えている。
彼の故郷には、生命の誕生があった。老いがあった。
歓喜があり、悲哀があった。
故郷であったお祭り。
頻繁に訪れる疫病の対策。
故郷でしか取れない農作物、育たない草花。
今や、全ては失われてしまっている。
しかし、彼の故郷はいらないものだと大国から言われて、水の底へと沈んだ。
ずっと、地面が無い感覚に襲われている。
何処にも、自分の着地場所が無い。
光が無い。そんな感覚。
きっと、彼の希望の光は。水の底に沈んでしまったのだろう。
故郷を潰した、大国を今でも憎んでいる。
彼はクラスタにいて、頻繁にその事ばかりを考えている。
三日か四日に一度くらいの割合で、悪夢に魘される。
故郷の事。
家族。友達。
彼らは散り散りに散っていってしまった、今、どうしているのだろうか。
自分が立っている場所が何も無い。
その為、カイリは酷い鬱に苦しめられていた。
何度も、何度も、反復して、昔の事が頭を過ぎる。
昔というものを、いつまでも引きずっている。未来が見えていないのかもしれない。
けれども、今は愛する者の為だけに生きたい。
アニマ。ロータスさま。
そして、親友のクライ・フェイス。
自分は今、満たされている。
守らなければならないと思う。この日がずっと続く事を。
クラスタに住んでいる人間。
決して、外の世界では生きていけないのだと思う。
境遇は違うけれども。
寄り添いながら、みな、生きている。
クラスタには様々な国の様々な地域で、虐待された子供達も、沢山、集まってくる。彼らの持つトラウマは深刻だ。爆撃や地雷の恐怖。散乱していく死体、眼の前で殺された両親。それらのトラウマといつも戦っている。時折、悲鳴を上げる者達も多い。
中には、十歳に満たない頃に、銃器を持たされ、沢山の人を殺した者だっている。
十歳にならずに、売春に走らされた者達も。
言うならば、此処には世界の闇が集まってくる。
救われない言葉達が、沢山、集まってくる。
一体、どうすればいいのか。カイリにはまるで分からない。
ロータスはありのままの彼らを肯定する。
アーティは社会に溶け込めるように、説教する。
どちらが、正しいのか、彼には分からない。何もかも、分からない。
†
アニマはみなに、絵を描かせる。
すると、ぐちゃぐちゃに叩き付けるように、彼らは戦禍の悲劇を書き続ける。そこには、救いも希望も感じ取れない。アーティがどれ程、愛や希望の言葉を与え続けても、彼らには闇しか見えないし、暗い漆黒の中から抜け出す事が出来ない。
きっと、彼らはまだ戦場の中にいる。安心なんて無い。生涯無いのかもしれない。
散乱した人体。
脳漿の飛び散った両親の顔。
黒く顔を塗り潰した軍服の男達。
ガリガリに痩せた空ろな眼の労働者達。
戦車、爆弾を積んだ飛行機。火花。
…………。
そういった絵を描く者達の眼は空ろ。
たまに、空を見上げている。ご飯の味もよく分からないとも言う、戦禍の中にいた頃は、あれほど食糧を強請っていたというのに。
食べる事が、何の救済にもなっていない。
その皮肉に、彼は心を痛めていた。
彼らは、まだ戦禍の中にいるのだろうか。ご飯の味が、泥を食っているように思えるのだと言う。
奇妙な事に、此処に来る者達の中で、他人の顔を覚えられない者も多い。
顔が怖い。
顔を覚えてしまった瞬間に、それは自分を殴り付けるかのような恐怖になるのだと彼らは言う。
もう、生きる事に何の希望も抱いていない。
ただただ、日々は流れ続ける。
そのような者達が多い。
けれども、何処か彼らは期待している。世界に。
きっと、彼らの欲する世界を繋ぐのが、ロータスなのだと。……信じて。
命の大切さ。
命とは、何なのだろうか。カイリには分からない。
分からないからこそ、此処にいる意味があるのだと思っている。
クラスタ内には、戦争で手足の一本、二本を失った者も住んでいた。手足が丸々無くなっていなくとも、手足の指を欠損したり。片目や片耳を失っている者達もいた。
そういった者達の受け皿がクラスタだ。
そして、犯罪者や売春婦も大量に流れてきている。
それでも、ロータスとアーティの二人の存在感によって、此処は平穏が保たれていた。彼らはクラスタの外では、略奪を尽くし続けるが、決してクラスタの中では行わなかった。せいぜい、小さな喧嘩や揉め事程度しか問題を起こさなかった。
……仲間意識なのだろうか。
何処かで、痛みを共有しているのかもしれない。これまで、分かり合えなかった痛みをだ。
カイリはクラスタが何なのかに付いて、考えている。
考えれば考える程、分からない。ひょっとすると、ロータスもアーティも分からないのかもしれない。
ある意味で言えば、偶発的に出来てしまったもの。
いつの間にか、ロータスが此処の教団を纏めていて。
いつの間にか、アーティがもう一つの分派のようなものを作っていた。
それは、本当に、気付けば自然とそうなっていた。
多分、みんな信じられるものを欲したから。
この二人は、信じられるものを言葉によって、作り出す事が出来た。
信じられるもの、きっと、人間はそれなしでは生きていけない。
虚無でさえも、人間は信仰する。空虚さでさえ、生きる意味に変える。
そういうものなのだろう。
アニマの絵を見ている時は幸せだった。
彼女は花の絵が好きだった。
特に、小さな雑草などを集めて、野花の絵を描いている。
彼女は花売りだった。
自分自身の花を売った。
沢山の男達に。……。
……本音を言うと、カイリはアニマの売春を止めさせたかった。
それでも、彼女はクラスタの外に出て行って、自分自身の肉体を男達に提供する。
何故、そんな事をしてお金を稼ぐのかを、訊ねた事がある。
答えは、心が楽になるから。…………。
カイリには、理解が出来ない。
†