第二章 虚無は深く。宇宙は神苑。神は裁きを知らず。 1
カイリは自分の部屋の中で本を読んでいた。
クラスタ内には、時計というものが殆ど無い。だから時間の概念も余り無い、みんな、のんびりとした生活を過ごしている。遅刻という概念も余り存在しない。
だから、カイリは時間を気にする事なく自分の好きな読書に専念し続ける。時折、空腹感か、排泄感を催した時以外はとにかく本を読み続けている。食べ物の色や匂いの変化などを見て、時間の経過に驚く事がしばしばある。
カイリは古典や、資料的なルポ集などを読み耽るのが好きだ。こうやって、読書をしていると、色々と世界の事を知る事が出来る。
今まで行った事の無い街や建物、自然の情景。
会った事の無い人々との交流。
アーティなどは、読書はダメだと言う。人間と人間の触れ合い同士でしか意味が無いとも。大体において、あの男は、彼の好きなものを否定する。しかも、それに関して、何の悪気も無いのが、更に質が悪い。
ドアがノックされる。
扉を開けた。
見知った女性だ。
綺麗に整えられたショート・ボブ。綺麗に染めた金髪。
ドアノブ越しに、外の人間の姿を見る。
コートとミニ・スカート。
彼女の名前はアニマという。
「カイリ、おはよう」
とても楽しそうに言う。
「ちょっと待ってな。今、部屋の中が汚いんだ」
「いいよ、僕が片付けてあげるよお」
彼女は自分の事を僕と言う。何でも、私と言うよりも短いし、言いやすいからだとの事。
彼女はカイリの部屋の中へと入ってきた。
可愛い顔立ちをしている。
少し童顔だが、やはり美女と言ってもいい。
可愛い。本当にそう思う。
彼女は、部屋の中を片付け始めていた。
古雑誌を纏めていき、掃き掃除も始める。
何かと、彼女は彼の世話を焼いてくれる。
此処の住民は、まともに生活を出来ない者も多い。
†
クラスタの住民の多くは、ロータスの視ている世界を視たいと思っている者が多い。
その為に、彼らは教祖の為に尽くそうと考えている。
みな、この世界に蔓延る不条理を受けて、疎外されてきた者達だ。
だからこそ、この世界ではないもう一つの世界を欲している。
アニマもその一人だった。
夢見るように彼女は、ロータスの話を口にする。
カイリはそんな彼女が好きだった。
「ねえ、ロータスさま、今日、こんな話していたよ」
「どんな?」
「神は来る。って、神様は近付いてくる。けれども、人間はみんなこのままでは死んでいくって。人間の作り出した呪詛によって死んでいくって。神様はこの世界では生きていけなくて、人間達のいる、腐った世界を怖がっているって」
微妙に話の前後がおかしい。
けれども、ロータスの話はいつもそうだ。
だから、二人とも気にしない。
繋がりが無いように思えても、繋がりはある。
それが、ロータスの伝えている言葉なのだ。
ロータスは言う。人間として成長するべきではない、と。それはもう、はっきりと言う。彼女はいつもいつも抽象的で比喩的で、難解な話ばかりをしているわけではない。はっきりと語る時もあり、その時はカイリもすぐに理解する。
人間は成長するべきではない。
これは、ロータスが言った印象的な言葉の一つ。
人間が成長しようとするという事、大人になろうとする事、社会性を見に付けようとする事。それらは全て、世界の本質を視る事を濁らせるものだと。
人間は強くなろうとして、社会的な権力を手にしようとして、搾取の側へと回っていくのだと。そうやって、人間は他人から奪う事に快楽を見出すようになる。
成長とされているものは、まさにそれであるのだと。
強さは、どこまでもどこまでも、真理から遠ざかっていく。
彼女はそんな事を言う。
「ねえ、カイリ。僕、また新しい絵を描いたんだよ?」
アニマは無邪気に言う。
彼女は汚れが少ないと、教祖は言っていた。
この世界は腐乱に満ちている、それは不可視の汚れだ。
その中においてもなお、彼女は余り汚されていないのだと。
彼女の描いた水彩画は、クラスタ内にある食堂には一通り飾られている。
主に魚の絵が好きみたいだった。
彼女は水の流れが好きなのだと言う。
まるで何処へでも行けるようで。
水のせせらぎを見ていると、たゆたうような気分になれる。あの済んだ透明さも好きなのだと言う。
そんな彼女の両腕には、深いリスト・カットの後が並んでいる。
クラスタに来る前は酷かったという。
此処に来て、自らの手首を刻む行為が止まったのだ。
何故、僕達は生まれてきたのだろうね? カイリは彼女の髪を優しく撫でる。
アニマは嬉しそうに笑う。
此処が、世界なんだと思った。
ロータスはカイリに絶対の安心感を与えてくれる。
みんなに絶対的な安心感と、幸福の夢を与えてくれる。
此処が世界の中心なんだと、思った。感じた。
あらゆるものよりも、一段上にいるかのような万能感と解放感。
全てはクラスタを中心に世界が回っている。無根拠だが、確かな、そう、確信。
あるいは、希望。出口の無い……希望。
†
ヴリトラは四名を狭い路地へと連れて行く。
かなり、曲がりくねった場所だ。
彼に対しての拘束は何も無い。
ケルベロスはこの猫に似た顔立ちの男よりも、むしろ味方の一人を警戒していた。
「あ、此処は近付いたら。駄目です」
広い場所に着くと、彼はまた狭い路地を指指した。
ヴリトラは懇切丁寧に、彼らを導いていく。
「大体、分かったわね」
キマイラは言う。
フェンリルも頷く。
「ビル中に能力者がトラップを張り巡らせているんだろうな。余所者が入り込んだ時の為の。しかし、こいつは中々、強敵かもしれない」
ニアスはそんな彼らのやり取りを不思議そうに見ていた。
大体、空漠とした空間の辺りを避けるように、ヴリトラは歩みを進めていく。その辺りでは、子供達が楽しげに遊んでいたりした。ビルの中に公園なども存在する。
地雷とかではない。とにかく、余所者が踏み込むと発動する“何か”なのだろう。
「ヴリトラ」
ふいに、フェンリルは言った。
男はぼさぼさと髪を掻きながら、振り向く。
「なんですか?」
「お前はそんな“役割”に生きて幸福なのか? オレには理解出来ない」
彼は困ったような顔をした。
「いやですねぇ。なんというか、俺、みんなを守る為なら死んでもいいかなって」
ぽりぽりと頭を掻く。
「どうせ、元々、死んだような人生ですから」
金銀の長い髪をした青年は黙る。
そして、キマイラに視線を移した。
「どう思う?」
「さあ? 私に聞かれてもねえ」
彼女は相変わらず、感情が読み取れない。
「貴方の“片割れ”にでも訊ねたらどうかしら?」
「それもそうだな」
零れ出す、笑い声。
「そういえば、今日は見かけないわね。どうしたの?」
「ああ、“何処でも無い空間”に引き篭もっている。ロータスとやらにあんまり興味が無いそうだ。奴はいつだってそうだよ。気まぐれで不遜」
「そして、自分勝手なんでしょう」
「ああ」
二人は苦笑していた。
ニアスも思わず、笑みがこぼれる。
三人の共通の知り合いなのだ。
†
蓮の香りはこんなに優しかったのか。
カイリは初めて蓮に近付いて、その匂いに触れた時、感じた事だ。
緩やかな深い眠りに落ちていくような香り。
蓮からは、そんな香りが漂っている。
安らげる香り。心が落ち着いてく。とても瞑想的な。
可憐な薔薇には棘があるように。
綺麗な蓮は汚い泥の中に咲いている。
硬い大地の土壌では、決して咲かない花。
此処は、地獄を見てきた者ばかりが集まっている。
此処は、死の恐怖を視てきた者ばかりが集まっている。
余りにも、酷い。……。
肉体が変形した人々。
彼らは身体中にコブなどが出来ている。
どうやら、戦場での薬物の投擲によって、このように肉体が変形してしまったらしい。
焼夷弾による、焼け跡なども存在する。
この傷を見る度に、彼らは戦場から戻れなくなる。
心が引き戻されていくのだと。
肉の変形。
彼らの眼が空ろになるのは。
彼らの中には、肉体の損傷の為に。物理的にマトモに身体を動かせない者達だっている。
徐々に、心が腐っていくのだと。聞く。
「ガルドラ、元気かい?」
彼は戦争によって、両足を失った男に会釈した。
髭面のこの男は、うっうっと唸った。
この男は、何故か、カイリと親しくなった。
何となく、波長が合うのだろう。
彼もまた、戦場で沢山の人を殺した。
なので、殺した者達の亡霊を夢に見るのだと言う。
両足だけではなくて、両手も差し出せとそいつらは言ってくるのだと。
それから、眼球も、腎臓も肝臓も。脳も心臓も、差し出せと。
亡霊達は、彼の事を強く、強く恨んでいる。
いつか、彼らに殺されるのだろうか。
彼はナイフを手にとって。自分の腕に押し当てる。
そして、何度も何度も、十字の傷を刻んでいく。
血液が流れ続ける。
彼は自らを傷付ける事によって、何とか贖罪を果たしたいと思っている。
何に届かなくても。何処に届かなくても。
彼は言語器官が壊されてはいない。
しかし、体験によるショックで、まともに発音するのがキツい状態らしい。
それでも、カイリは熱心に、彼の話を聞き続ける。
カイリは、ガルドラと一通り、会話をした後。
ロータスの下へと向かった。
そこは何名もの者達が座れるような、多少、広い空間だった。
ロータスはアンサーを優しく抱き締める。
可愛い女の子、だと言った。
彼女の痛みは、力にならなければならないと。
アンサーには知性が無い。
生きる目的が無い。何も無い。
いわば、何にも汚されていない、とも言える。
一度、死に。生き返り、更に灰になって土に還った少女。
「そう。あなたは、自分が醜いと思っているんだ」
ロータスは少女の事を、漠然とだが理解しているみたいだった。
「その自らを醜いと思う感性が、美なの」
この二人が出会った事は宿命なのだろう。
ロータスは彼女に宇宙を観る。
それは、もうどうしようもない程、悲しい孤独のような。
彼女はアンサーに、子守唄を聴かせるように言う。
「人々は永遠の悲しみと贖罪の中で生きている。みんな、只、灰のように死んでいく。何故、人々は重荷を背負いたがるのだろう? それによって、人は人を傷付けるというのに。重荷の為に、戦争が起こり、権力争いが起こり、沢山の血が流された」
それは無限に広がる、とてつもない闇。
何処までも、何処までも、広がっていく。
神の世界を視なくても。
彼女は神の存在を感じている。
神から流れてくる情報を何とかして伝えようとして、生きているのだと言う。
どうにか、言葉にしようと。
この力の名を何としよう。
それは死体だらけの道であり、救世主が歩んだ血塗りの道。
まるで、自らが拷問され、処刑へと向かっていくかのような歩み。
彼女は自らの力の名を『ヴィア・ドロローサ』と呼んでいる。
それは荊の道。
あらゆる、苦痛と苦悩と受難を引き受ける為の道。
「俺達は何を為すべきでしょうか。ロータスさま」
彼女はアンサーの髪を梳きながら答えた。
「あなたが為すべき事は、あなたはあなたの欲望に忠実であれって事。自分を曲げないでね。それが生きる事だから」
自分自身の意思。生き方の全て。言葉。
美しいと感じる感性。
それらの全ては世界から与えられたものに過ぎないという事実。
自分なんて何も無いのではないかという徒労感。
自分はいないのではないんじゃないか、と。
そんな事を、ロータスに告げた。
「万物を信じる事。それはとても大切。国家、社会を信じる事じゃない。万物、自然。あなたはそれらの一つとして、決して国家に従属されない存在として生きている。あなたは世界の、本来の意味のある世界の一部として生きている。それは何処までも誇らしい事なの。だから、あなたはあなたの感性を信じるべきだし。認めるべき。でも、あなたが自らを醜く感じる、というのは、この世界の秩序に絶望しているから。わたしはそう思っている」
ロータスは価値を創造していく。生きる意味を。
人間の闇を可能な限り、見つめ続け。弱さを認めたいという意志を持ち付けてもなお、彼女は希望を信じ続けている。カイリ達の生きる力になる。
香りが辺りに満ちていくかのようだった。
虚空の中に一片の花弁が咲くかのよう。
カイリは狂喜する。
彼女を護る為ならば、命すら投げよう。
自分が生きた証とする為に。
祈りだ。
空へと向かう祈り。
カイリの故郷は今や水の中へと沈んでいる。
都市開拓の為に破壊された場所。
ダムの底へと沈んでいった都市。
死者の都だ。
立つべき大地が、もう無かった。
全てから否定された。
今や、外の世界の全てが、彼の敵だった。
何者もが悪意を持っている。
光が無い。
外の世界は、全て、敵だ。
ロータスは教える。此処から外は、邪悪さしか満ちていない、と。
みなが、互いを貪り、貪られ合う世界が広がっていると。
あるいは命が無い。
慄然とした恐怖に支配される。
全てが転げ落ちたような世界。
全てが壊れた世界。
戦争が広がり。平和な国家においても、互いが互いを貪り合う世界が広がっている。
ああ、世界は死んでしまったのだな、と。
悲しみに埋もれた。
何処までも深い、悲しみに。沈んでゆく。
クラスタは外部の人間からどう映るのだろうか。
宗教団体? カルト? 分からない。
カイリの認識としては違う。
此処に来た者は、誰もが心に何処か欠損を抱えている。
それは苦手なアーティだって同じだ。
弱さ。
みんな、余りにも弱かった。もう、どうしようもないくらいに。
クラスタ以外では生きていけないだろう。
ひょっとしたら、クラスタにおいてもなお、彼らは生きていないのかもしれない。
きっと、もう生きながらにして、死人なのかもしれない。
けれども、彼らは生きているのだ。それでもなお。
空を眺める。
太陽が身を焼く。
日の光は黒く見える。底知れない深淵のように。
優しい香りがまだ消えない。
蓮は何処までも、美しい。
†