第一章 虚無と紅蓮の祭壇にて 3
「着いた」
聳え立つビルが密集している。
ビルが昆虫の巣のように繋ぎ合わさっていた。
その周囲には何万名もの人間が住まう街が広がっており、いわば、クラスタと呼ばれる教団がある区域は、街そのものの一角として存在していた。
ケルベロスはニアスを宿に案内してくれた。
ドーン界隈のバーにて、ケルベロスに出会ってから、二日ほどが経過していた。
ヘリで一度、別の場所に着陸して、そこで一日宿を取った後、更に半日掛けて、この街へと飛んできた。
「他に二人ほどの応援を頼んでいる。いずれも手練だ。ニアス、これが君の最初の仕事となる。君は今から来る者達と俺の、サポート役に徹して欲しい」
「四名? いつもそんな少人数で戦っているの?」
「ああ。マフィア組織、テロリスト団体、カルト教団などを潰す場合。大体、多くても五名くらいのチームで動いている。敵側には大量殺戮が得意な相手、洗脳が得意な相手だって存在する。それもあって、いざという時の為の少数精鋭なんだ。昨日も述べたように、俺達はつねに全滅の覚悟と共に戦っている」
彼は煙草を吹かしている。
穏やかだが、確かに鋭い覚悟の目付きで集落を睨んでいた。
「二人の応援はまだ来ていない。それまでに俺達は、可能な限り教団の情報を集めようと思っている。本来なら俺は最前線で敵に向かっていく立場だったんだが、今は肩書きもあって、なるべくそれは控えないといけない。ニアス、君もどちらかといえば正面切って戦える能力者じゃない。俺達がまずやるべき事は可能な限りの敵の情報収集だ」
「敵の情報は集まっていないの? これから?」
ニアスは当然のように疑問を呈した。
ケルベロスは吸い終わった煙草を携帯灰皿の中へと入れる。
「……全滅だ。クラスタに事前に送り込んだハンターは、みな戻ってきていない。みんな殺されてしまったか。あるいは“洗脳”されて引き込まれてしまったか……」
ニアスは少しだけ、顔が引き攣る。
今回はヤバイ仕事なのだ。
下手を打てば、生き残れないかもしれないと彼は暗に言っている。
ニアスは奥歯を噛み締めた。
彼女は今は、自分の戦闘装束として黒いローブを羽織っている。魔術師のようなローブ。ローブには幾何学模様のルーン文字が刻み込まれており、裏地は濃い紫に塗られている。
自分自身を魔女のように見立てた装束。
自らが怪物であるかのような姿。イメージ。
彼女なりの覚悟表明。
ケルベロスは携帯が鳴っている事に気付き、それを手に取る。
「そうか、着いたか」
彼は携帯を取った。
一瞬。
何が起こったのか分からなかった。
ケルベロスの周りに、いきなり鳥の羽毛が現れる。
彼は空中に突如現れた羽毛の一枚を手に取る。
瞬間、彼の首の辺りにボールが命中する。
ボールはてんてん、と地面を跳ねていく。
そして。
二人から少し距離が離れた場所、鉄骨の組み立て作業をしている場所に、そいつは姿を現した。
金色と銀色の混ざった長い髪。
レースの白を黒い布地で覆ったドレスのような服。いわゆる、ゴシック・ロリィタの装束。薔薇の形を象った飾りを幾つも付けたヘッド・ドレス。黒いネック・コルセット。編み上げたヒールの高いブーツ。
そして、雪原のように白い、整った美しい顔。
そいつは鉄骨に足を組んで、二人を見ていた。
「なあ、フェンリル。悪戯が過ぎるぞ……」
「今の攻撃が敵の襲撃なら、お前、拙かったんじゃないのか? 隙だらけだったから、試してしまったじゃないか」
そう言って、フェンリルと呼ばれた者は、鉄骨から飛び降りる。
十数メートル下の地面に着地しても、衝撃音は無く、悠然とそいつは地面に立っていた。
ニアスはそいつを知っている。
「あ、あなたは……」
「ああ、珍しい処で会うな」
と、“彼”はそっけなく言った。
ケルベロスとフェンリルの二人の能力者は対峙する。
「久しぶり」
フェンリルは淡々と言った。
「会えて嬉しい」
ふん、とフェンリルは鼻を鳴らして、長身で体格の良い男を眺める。
「以前よりも鋭さが無くなったじゃないか。今ならどうだろう? オレとまた勝負してみないか? 倒せる自信があるんだが」
「仕事中だぞ? トレーニングは今度にしてくれ。鋭さが無くなったのは、前線での戦いから引かざるを得なくなったからだ。以前のように、いつでも死んでもいい、という覚悟は無くなった。無くすしかなかった」
「そうか」
彼はあっさりと引き下がり、クラスタの方を眺めた。
「あれか」
「ああ」
フェンリルは顎を摩る。
「特に見張りはいないようだけれど? もう突入しないのか?」
「作戦を練っている。先遣隊は皆、全滅している」
とケルベロスは携帯電話を取り出した。
「もう一人が来る筈なんだけどな」
「……もう来ている。ずっとオレ達の様子を伺っていたらしい」
そう言われて。
いつの間にか、そいつはそこに立っていた。
一体、いつからいたのだろうか。
両肩に、毛皮の上に鳥の羽が添えてある、黄土色のローブで纏っている。背中からは、何枚もの刃物を重ねた鎌のようなものが、まるで鳥の羽のように生えている。
首からはペンタグラムやエジプト十字架、鳥の爪などを模したペンダントが吊られている。モスグリーンの少し混ざった金髪。
そして何よりも異様なのは、とても作り物とは思えない頭から生えた二つの羊の角。
そいつは、不気味な空気を放ちながら、そこに佇んでいた。
「キマイラ、来ていたのか」
「ええ」
その女は、感情の灯らない声音で頷いた。
「ごめんなさいね。貴方達を少し、観察したかったから」
「……まあいい。四人揃ったんだ、戦略を練るぞ」
ケルベロスは言う。
「カフェで」
フェンリルが付け加えた。
†
クラスタがよく見える場所だった。
四人の姿は異様に目立つ。
ケルベロスとニアスの二人はともかく、フェンリルとキマイラ。
彼らはまるで自分達の存在を隠避するという発想が無いみたいだった。
実際、店員や他の店の客も、二人の姿にちらほらと目線を送っている。
更に、キマイラに至っては、ミートボールと麺の浮かんだ中華料理のような味付けをしてあるものに、出されたパフェのような菓子を突っ込んで、それをカフェオレのようなドリンクで租借して食べている。
下品だな、とニアスは思う。
しかし、キマイラはまるでそんな彼女の感慨を意に介していない。
フェンリルは出されたダージリンの紅茶を口にして、拙い、と一言言うと、それっきり不機嫌そうに黙り込んでいた。
ケルベロスは相変わらず、煙草に火を付けている。
「クラスタの詳細なんだが。大体、あのビル群に住んでいる人間の数は三千人弱。正確な数は分からない。あの中では教団が存在しており、その中枢として数名の幹部がいる。そいつらは教祖であるロータスを中心に動いている。俺達の目的はロータスの捕獲、もしくは殺害。教団を維持している幹部全員の捕獲だ」
「ロータスだけは殺害してもいいのか?」
フェンリルが口を開いた。
「ああ。駄目だろうな彼女は。アサイラムの信条としては捕獲し、収容が理想なんだが。彼女は無理だろう。捕獲のみで終わる事が出来ればそれに越した事は無いが。……やはり、始末した方が無難だと考えている……。アサイラムとしてはあまり良い決断ではないが」
食べ物を租借する音が止まる。
「他の警察組織もそうなんだけど。たとえば、幹部の誰かが抵抗して、私達や、他の罪も無き市民の命に危険が及んだ場合。不可抗力として殺害、という手段を取っても。それは仕方の無い事よね? 勿論、標的である幹部以外の教団のメンバーにしても」
キマイラは口を挟む。
抵抗するならば、別に殺してしまっても一向に構わないだろう、と言っている。
「キマイラ……。君はアサイラムの精鋭メンバーの行動、その構造をよく理解している。……そうだ。可能ならば捕獲し収容。無理と判断したら、我々一人一人の判断で始末してしまっても構わない。俺は可能ならば捕獲したいんだが。もし、君達が標的と相対した時に、これは殺すしかない、と判断したのなら。そうするべきだ」
「そう。殺すか殺されるかになると思うわ。捕獲に成功しても完全に無力化してしまったわけじゃない。そう、仕方無い事よねえ」
キマイラは麺を口に入れる。
そう。結局の処、どちらにせよ同じ事なのだ。
収容可能そうだったら生かす。
無理そうだったら殺す。
言葉に多少のニュアンスの違いはあったとしても、それはまるで変わらない。
ニアスは少し気分が悪そうに、そのやり取りを見ていた。
「さて、情報収集はどうしようか」
「建造物の内部だったら、オレが調べる」
フェンリルが言った。
ケルベロスは彼の“能力”を知っているのですぐに頷く。
「クラスタの住民の一人を捕まえて、質問してもいいかしら?」
キマイラは言う。
「質問か。なあ、キマイラ。君の言う質問って何だ?」
すると、羊の角を生やした女は、服に手を入れる。
そして、奇妙なものを取り出した。
それは数本の針だった。それからライター。何故かヘアブラシと水鉄砲。
「これだけあれば。大抵の人はお友達になってくれるわ。何だって話してくれる。初めて会った相手とだって、すぐに親しくなれる。聞きたい事ならちゃんと教えてくれるわ。みんな親切にしてくれる、優しくしてくれる。色々と打ち明けてくれる。私と彼らの間で、隠し事なんて無くなるわ。秘密だって共有出来る。彼らに質問してもいいかしら?」
ケルベロスは灰皿に吸い掛けの煙草を押し付ける。
「キマイラ…………。君の言っている質問の件だが。……なるべく俺達は穏便に事を運びたい。だからなんだ。……拷問して情報を聞き出そうとするのは、今回は止めてくれないかな?」
「あら。私はお友達になるだけよ?」
と、彼女はにやにやと笑う。
†
カイリはクラスタにある自分の部屋へと戻る。
部屋といってもマンションの一室のように、それなりに広い。
部屋の中はゴミのように古雑誌が散乱しており、台所は多少汚れ、数日前に作ったカレーが鍋に入ったままだ。
どうにも部屋を片付けるのは不得意だ。
赤茶けた戸棚の中から菓子類を取り出しては口に放り込む。
もう少し贅沢をしたい処だが、布施がまだまだ集まっていない。カイリが統治する『滅界』に与えられる布施の何割かが、そのまま彼の生活費になる。
もう少し、団員達を労働に駆り立てるべきなのだが、どうにもそれも面倒臭い。
結局の処、このクラスタは何割かの人間が労働によって賃金を得ており、何割かの人間が自給自足を行っており、何割かの人間がほぼ働かずに毎日を過ごしている。
その他にも、アーティストを自称して、絵画や漫画を描き、楽器を奏でて賃金を稼いでいる者達も存在する。彼らもまた、教団に布施として得た賃金を差し出している。
大体、大部分が社会不適合者ばかりで集まっているので、教団全体の資金はカツカツだったりする。それでも何とかやっていけるのは、街に行って市民社会に紛れ込めている人間が何割か存在出来ているからだ。
教団には固有財産というものの概念が少ない。せいぜいそれぞれに割り当てられた部屋の中にある幾つかの本や服、その他の娯楽道具などで、金銭的なものを多く所有する事は許されていなかった。
アーティなどは労働する事は重要だと言う。
労働によって人間は成長するのだと。
しかしまあ、過酷な労働環境にいたせいで心を病んで此処に移民してきた人間も沢山いる。ある種の精神病棟施設としても教団は機能している。
アーティは精神病患者を嫌っているのが分かる。彼らは愛される事に自覚が無い人間達なのだと言う。挙句の果てには精神病など存在しないと、彼は口にしている。
カイリはそんな彼が疎ましい。
しかし、自分の生活も自堕落なものだ。
自分なんかが、外の世界で、教団の外部の世界でやっていけるとはとても思えない。カイリは社会や家族から疎外されていって、此処に行き着いてしまった典型的なパターンの一人だ。
教団の幹部という役職にこそ付いているが、実態はこれといった仕事をしていない。たまに外の世界に出てきて、その情報を拾い集めて、教祖や住民全員に配る役割を担っているくらいだ。
彼は戸棚を開いて、そういえば、先日、“聖なる海溝”にて採取したものをロータスに渡していない事に気付いた。本当はすぐに渡して見せるつもりだったのだが、彼女の雰囲気に飲まれてそれを忘れてしまった。
彼は瓶を持ってロータスの下へと向かった。
彼女は相変わらず、何も無い虚空を眺めては、酷く悲しそうな表情を浮かべていた。
彼女は部屋に入ってきたカイリを一瞥すると、すぐに瞑想へと戻る。
カイリは声を掛けるべきかどうか迷った。
しかし、話し掛ける決心が付いて、先日の件の事を口にする。
「先日は、“聖なる海溝”という場所の調査に向かいました。僕と泣き顔の判断で。僕達は、ロータスさまのおっしゃる通り、世界のあらゆる場所を見て回っています。聖なる地と呼ばれている場所や、紛争が行われている地域。戦争のある場所。思うに、僕はやはりこの世界は病んでいるのだと思います。あなたのおっしゃられる通り。先日、行った聖なる海溝という名の街ですが。そこは住民全員に、ドラッグが蔓延っており、どうやらテロリストの襲撃によってその流通ルートが途絶えて、街はパニック状態でした。自殺者が増加し続けている。それからあそこは、売春の斡旋場も多かった」
一気に喋る。
ロータスは眼を開く。
その双眸は、深い、深い憎悪を称えていた。
それなのに、何処までも優しそうに見える。
「そうなんだ。カイリ、偉いわ。危険な場所だったのでしょう? いつもご苦労様。ねえ、私達は世界を変革しなければならない。そうは思わない?」
彼は少し逡巡する。
世界の変革。
それを事も無げに彼女は言う。
とても、悲しそうな顔をしていた。
「ですよね。……そうですよ」
彼は頷く。
ロータスは大欠伸をする。
「あーあ。三時間もずっと瞑想して、沢山の思念を視ていたら、ちょっと疲れちゃったわ。うん、お腹が空いた。ねえ、カイリ。一緒にご飯を食べない?」
「いいですよ。そうだ、僕の部屋にカレーの残り物があります。味のしないヨーグルトを沢山漬けて食べるんですけれども」
「うーん、私は焼肉が食べたいかなあ」
と、彼女は無邪気に言う。
†
クラスタの中には幾つもの食堂が存在する。
そこに二人は入った。
此処では、外の世界にある金銭の代わりとして、チケットのようなものが配られている。
二人はチケットを食堂にいる調理師に渡す。
しばらくして、専用のタレがふんだんに塗りたくられた豚ロースの乗った皿が運ばれてくる。肉の上にはレタスに似た野菜が盛られている。皿の隣には、ドンブリに入ったトウモロコシの粉末が大量に入ったご飯と、お茶が置かれる。
二人はそれをフォークとスプーンで口に入れる。
ばく、ばく、とロータスは熱心に肉やご飯を口に放り込んでいく。
カイリは野菜を肉に巻いて、少しずつそれを飲み込むように食べていく。
少し、嘔吐感が込み上げる。
「あら? カイリ、食べるの遅かったっけ?」
「いや。……僕ってほら、摂食障害で。……味も分からない時も多くて。カレーをよく食べるようにしているんですけど。栄養価のバランスが良いから。それにほら、カレーなら何とか口に入れる事が出来る」
「そう。でも此処の料理はとても美味しいから。勿体無いわね」
「ですよね。……良かったら、僕の半分食べます?」
「いやよ。人が口にしたものを食べるって、何かはしたないじゃない」
「そうですか」
そう言いながら、どうにかご飯をスプーンに乗せて、口に含む。
がりがり、と触感は分かるのだが、やはり味を感じない。
「カイリ、気分が優れないようだけど?」
「最近、少し鬱気味で。周期的に起こってるんです」
「そう。あなたは世界からの苦悩をダイレクトに受け取っていて、それを病気という形で身体に現れているのでしょうね」
と彼女は薄い野菜スープも追加で注文する。
ロータスは食事をするのは好きだ。
特に飽食という概念に対する否定的な考えはない。
赤貧や断食を信者達に強要したりする事も無い。
それどころか、彼女には快楽主義を推奨する部分も感じていた。
「でも、ちゃんとご飯は食べた方がいいわねえ。生きる苦悩の為に身体がボロボロになるのは頂けないと思うわ」
あらかたロータスは食事を終える。
カイリは懐から瓶を取り出して、彼女の前に差し出す。
「ロータスさま、これ何だと思います?」
彼女はその瓶に触れる。
……彼女はその思念を読み取り始めていた。
「あら、可愛い子じゃない。でも、可哀相。何にも報われず、ただただ利用される為だけに生まれてきた可哀相な女の子。痛々しいわ」
まるで慈しむように、瓶を撫でる。
カイリとロータス。
二人とも、それぞれの能力の一端として、思念を読み取る事が出来る。
「ねえ、カイリ。この子、元通りにする事って出来るかしら?」
「……いや。……僕の『ファイヤー・ブリンガー』では。多分、無理です。神様は、人に、死んだ人間を甦らせる力を与えてくれはしなかった。僕の場合もそうだ。決して、死んだ人間は甦らない。僕が知っている世界の確かな秘密はそれだけです…………」
「うん、そっか。とてもとても悲しい事実よね。そうやって、みんな名前も知られずに死んでいく。でも、私達は少しでも、それを何とかしたい、そうでしょう?」
「ですけど、……」
「でも、この子は元通りに出来ると思うわ」
確信を帯びたように言う。
「そうですか?」
「そう、人間じゃないみたい。人間になるべきだった人間。可愛い子だから、出来れば、また形にしてあげたいなあ。うん、そうしよう?」
そう言って、ロータスは紫紺の灰が詰まった瓶を抱き締めた。
「ねえ、カイリ。やってみない?」
「そうですね。……明日でいいですか? 今は少し、精神が安定していない。特に、それを元の形にするのには、不安定な今じゃ少し難しいです。昨日から、抑鬱が酷くて。……そうですね、明日の昼くらいまでなら、調子が戻っているとは思うのですが……」
「わかったわ。お願いね」
食堂の中には、彼女の姿に見惚れている信者達が、沢山、集まっていた。
カイリなどは、親しげに彼女と会話をする。
他の信者から見れば、不可思議な光景らしい。
赤いドレスの女は立ち上がった。
「じゃあ、カイリ。私はまた自分の部屋に戻るから。また、明日、お話しましょう」
そう言って、柔和な微笑みを浮かべる。
まるで、無垢そのものだ。
カイリは思った。
彼女に、いつまでも付き従おう、と……。
†
「貴方が、“暴君”かあ」
その時は、赤いドレスを纏っていた。
そいつは、彼女を始末しに来た、という。
「そうだ。俺が暴君だな。その呼び名を知っている、という事は、俺が何者か分かるのだろうな。さて、問題だ。お前らの組織は所謂、社会にとって害だ。だから、俺が派遣されてきた。貴様を始末しにな。だが、その前に、俺には聞きたい事がある」
黒いTシャツに、所々を包帯で覆った男は、彼女を吟味しているようだった。
蛇のような眼をしている男だった。あるいは、捕食昆虫のような。
赤いドレスの女は、まるで夢見るように、男を見ていた。
「聞きたい事って?」
「……俺を怖がらないのか?」
彼女は、きょとん、とした顔をする。
「だって、あなたって。殺意が無いから」
「ふむ?」
暴君と名乗った男は、興味が湧いたようだった。
「俺は無感動に人を殺すぞ? 何の理由も無く。何の価値も無く。何の目的も無く。ただたんに、純粋に人を殺す男だ。そこに快楽も何も無く、一個の死そのものとして、人を殺す人間だ。だから、俺に殺意なんてものが無いなどと言われるのは滑稽だな」
「だって、殺意ないじゃない」
確信を持っているような言い方だった。
「話しているのは、俺の方だが。……まあいい。聞きたい事というのは、お前の思想についてだ。あるいは、教義、教条なのかな? 何故、お前に付き従う人間が現れるのだろうな? 俺には分からない。お前に何故、色々な人間が群がってくる? このまま、お前を俺の『エリクサー』で殺すのは簡単だ。しかし、聞いておきたい。何故、お前は皆から、崇拝されるんだ?」
そう言われて、女は首を傾げる。
「私は、“正しい事”を言っているだけだもの。みんな、正しい事が何か分からず、生きている。だから、この世界はおぞましい事ばかりに覆われているのよね。みんな、本当は幸福に為れる筈なのに、幸福から眼を背けている。悲しい事だわ」
それを聞いて、男は哄笑した。
「くくっ、ふはは、ふはははははっ。正しい事か。何が正しい事なんだ? 俺にはまるで分からない。俺は正しい事なんて無い、と考えている。世界が正しかったら、俺のような、“純粋悪”は生まれてこない。いいか、全ては赦される。俺は人間の死の断末魔が聞きたい。そのメロディーを感じたい。俺は今は、犯罪者を狩る狩人という立場に甘んじているが、いずれ、この世界は壊す。その時に、人間は悪の部分が現出するさ。正しい事なんて無くなる。楽しみだな」
女は柔和な笑みを浮かべる。
「そう、そうなんだ。あなたは、とっても良い人なのね。この世界の狂気に気付いているんだわ。この世界は、良い人間ばかりが殺されていく。とてもとても悲しい世界。それを何とかしなければならない。人間にとって、必要なものが消されて、殺されていく。あなたはきっと、そういった人間の闇の部分が赦せないのよね?」
話がまるで噛み合わない。
こいつ、狂人か? と男は少し思った。
もう少し、話を聞いてみたいが。飽きてしまったら、容赦無く殺してしまおう、そう思った。
女は言葉を続ける。
「凄い。“光”が何なのかを知っているのね? 正義を為す事が何なのかを。あなたからは、それを感じるわ。いいオーラを放っている。歪みが無くて、真っ直ぐ。あなたは、本来の人間のあるべき規範を知っているのよ。貴方という存在そのものが、正義を体現しているのかもしれないわ」
暴君は首を捻った。
そして、少し考えてから、一気に吐き出す。
「いいか。この世界にルールなんて無い。特に人間はだ。ルールが無いにも関わらず、人間共は、自分達基準のルールを作りたがる。自分達の見ているもの、聞いているもの、嗅いでいるもの、感じているものを基準にルールを作る。反吐が出る。だからな、俺を良い人なんて言うな。もし、何らかの形でそんなものを感じたとしても、それは錯覚だ。正義感など無い。俺はルールとか規範とか基盤とか言われているものを壊したい、という自身の衝動の赴くまま生きている。今はまだ、時期ではないが、いずれ壊すつもりだ。この世界を構成しているものをな。それは、正義の行為からじゃあない。俺が俺で在る為だ。だから、お前の言っている。何だ、よく分からないが、そういったものは無いんだよ」
そう言う暴君に対して、女はますます嬉しそうな顔をする。
「そう、そうなのよ。人間は素直のまま、真っ直ぐなままで生きるべきなんだわ。なんてあなたは素晴らしいのでしょう」
男は呆れていた。同時に、彼女を殺す事を躊躇った。
それは確かな事実だ。
†
それは瞑想の部屋。
彼女が世界中に流れる苦痛、苦悩と対話する為の部屋。
空間に亀裂が生じているかのようだった。
世界がバラバラになってしまったかのような感覚。
世界中に偏在している負の感情を、彼女は自らの感覚の中に降ろしている。
ありとあらゆる痛みが、叫喚が、断末魔が精神の中に入ってくる。
彼女はふと、瞑想を止める。
昨日、カイリから瓶に詰められた灰を渡された。
それは、今は部屋の隅に置かれている。
彼女は立ち上がって、その瓶を手にしてみた。
「あら。あなたはまた、生まれたいの? ……」
とても愛しそうに、瓶の表面をなぞる。
景色が頭の中に入り込んでくる。
それは真っ赤な情景だった。
とてつもなく真っ赤。
とんとん、と扉を叩く音が聞こえた。
カイリだった。
約束の時間、彼は部屋に入ってきた。
昨日よりも、少し顔色が悪い。
ロータスは彼に瓶を渡す。
「やってみます……」
彼は瓶を開いて、中の灰に触れた。
数十分が経過する。
中の灰が、ざわざわ、と呻き声を上げているかのようだった。
実際、灰が動き始めている。
更に時間が経過していく。
少しずつ、少しずつ、灰に形が与えられていく。
最初、それは眼だった。眼球。
やがて、口が生まれ、歯が生まれ、髪の毛が這い出てくる。
瓶いっぱいに、そいつの姿は形成されていく。
それは、女の顔だった。
そいつは、確かに発声していた。
「あ、あうぁああぁ、うぅうぅぅ、うぅぅううう、あああ、あああ」
人ならざる声。
灰の中から肉体を取り戻した女。
女というよりも、少女といったような顔立ち。
「僕の能力で、こんな現象が起こるのは初めてです。……生き返るなんて……」
この儀式を行ったカイリ本人が、驚愕の表情を浮かべていた。
「あらあら。あなたのお名前、なんていうの?」
ロータスは誰何する。
少女は答えた。
「ああ、あああ、あううぅぅぅあああ、あ、あん、あああ、さぁぁぁーー、ああああ」
しばらくして、やがて、それが一つの単語になっている事に気付く
アンサー。
…………彼女の名は、アンサー。
「そう、よろしく。アンサーちゃん、そして会えて、とても嬉しい」
にっこりと、ロータスは笑った。
†
「ああ、駄目だな」
フェンリルは早速、告げた。
キマイラも頷く。
ビルとビルが融けるように組み合わさって、並んでいる場所。
ニアスは何が何だか分からない。
「どういう事なんだ?」
ケルベロスが訊ねた。
彼も感付いていたのだろう。だが、それが何なのか分からない。
「そうだな、まずオレの能力で中の“内部構造が視れない”。つまり、その場合、大体、それがどういう状況が起こっているかと言うと、他の能力者がそいつの異空間みたいなのを作っているんだ。おそらくはビル全体を覆い包むように。だから、あの魔窟に入るのは危険だ。怪物の胃袋の中に直接、入り込むようなものだ」
「それから、ビルの質感が奇妙だわ。どう言えばいいのか分からないけれども、ビルの所々の色彩が何か変。ビルの外壁って灰色と茶色によって覆われているけれども、何だか違和感を感じるのよ。何かの罠を仕掛けているとしか思えないわ、ほら、草木に偽装したトラップってあるじゃない。ちょうど、それに気付いた感じ」
二人はそれぞれの持っている能力で、すぐに、そんな事を見抜いてしまったみたいだった。
ニアスは呆けたように、二人の会話を聞いていた。
本当に彼らは実力者なのだと、改めて感じる。
「助かる。やはり君らを連れてきて正解だった」
ケルベロスが嘆息する。
「さて、どうしたものかな」
「勿論、相手側にオレ達の存在はとっくに気付かれている」
フェンリルは断言した。
お前らの目立つ服装のせいもあるだろ、とニアスは思わず、心の中で横槍を入れた。
フェンリルとキマイラはにやにやと笑う。
二人とも、何だか、楽しそうだった。
「あちら側にも、好戦的な人間がいるみたいだな」
「どうしたものかしらねえ? ねえ、一人で私達四人と遊びたいみたいね」
ビルの窓の無い部分。
ニアスは、そこから、何か人影のようなものが動いている事に気付く。
まるで大砲によって打ち込まれたかのように。
そいつは、四人のいる場所の付近へと飛んできた。
おどけたような顔をして、柔らかい癖っ毛をしている。
しかし、その双眸は肉食獣のそれだった。
小柄だが、肉体は鍛錬を重ねている。猫背の為、身長はかなり低めに見える。
そいつは、薄青色のシャツに、黒いズボンを穿いていた。
「名前は何だ?」
フェンリルは腕を組みながら訊ねた。
「ヴリトラ」
猫科の肉食獣のような男はそう告げた。
ケルベロスは、彼の名を聞いて、何かを思い出したみたいだった。
「お前、アサイラムの前に作られた監獄で、有名な『地獄の世界』に送り込まれる途中、脱走した、あの有名な男か」
こきり、こきり、と肉食獣は両手の骨を鳴らす。
「へえ。昔の俺を知っているんですかあ。いやいやあ、あの頃の俺はやんちゃでして。沢山、暴れ回っておりましたからねえ。でも今はですねえ、おとなしいもんですよ」
そう言いながら、彼は今にも飛び掛かってきそうな雰囲気をかもし出している。
ケルベロスはジャケットを脱いだ。
「確か、お前の『エウリノーム』。大層、人が死んだそうじゃないか。お前も近接格闘タイプなんだろう? 俺はケルベロス。地獄の番犬の名称を持つ男だ」
ぼきり、ぼきり、と筋骨隆々とした男は言った。
さり気なく、ニアスを守るように立つ。
「ああ。ケルベロスさん。貴方の『アケローン』の話も聞いてますよ。でもですね、まずは俺達、拳で語りませんか? 男同士の礼儀って奴、やりましょうよ。能力無しで。後ろのお嬢さん達、危ないですから。下がっていてくださいね」
言われて、ニアス、フェンリル、キマイラの三名は、十数メートル程、彼らから距離を置く。
ケルベロスも、ああいう馬鹿は相手にしなければいいんだ、とフェンリルの呟き声が聞こえた。
二人は既に、勝負に入っていた。
まず、ヴリトラが全体重を掛けたストレートを撃ち込んでくる。
ケルベロスは身を引いて、それを避ける。そしてそのまま身体を回転させて、顎にアッパー・カットを決める。ヴリトラは仰け反りながら数メートル吹っ飛んでいく。
ヴリトラはそのまま空中で身を捻って、肉体を回転させる。そのまま地面に着地する。
そして、左足で地面を蹴って、再びケルベロスの方へと向かってきた。
そして再びカウンターを決められる。
三人は肩を竦めていた。
「もう少し、やるかと思っていたんだけどな?」
「あら? 可愛いじゃない。忠実な番犬みたいで。でも、彼の牙ってちっちゃいのよねえ。甘噛みしか出来ないのよ」
ヴリトラはケルベロスになす術もなく、ボコボコにされていく。
観戦していた三名は飽きてきたので、暇潰しを考え始めた。
「ヴリトラが逆転勝ちする方に三千。何かを狙っているんじゃないのか?」
フェンリルが冗談でそれを口にする。
「あら、じゃあ、私は小細工されてもケルベロスが勝つ方に五千。貴方、わざわざ、負けるギャンブルって好きなの?」
ニアスはそんな二人のやり取りを見て、苦笑する。
「まあ。取り敢えず、あのお馬鹿さん。おそらく、別の人間がオレ達の様子見の為に送ったんだろうな。こちらの能力は余り見せない方がいい。おそらくは、あのビルの何処かから観察されている」
キマイラはビルの窓や隙間などを一つ一つ指差していく。
「あそこと、あそこと。多いわね。ひょっとすると、狙撃系の攻撃で私達を暗殺したいのかもしれないわよ。もう少し、物陰に隠れた方がいいかも。相手の方も、私達の情報収集をしたがっていると思うわ」
打撃音が盛大に響く。
また再び、ヴリトラの全身が空中へと舞った音だった。
顔面血塗れになりながらも、それでも、目の前の敵にしぶとく向かっていっているみたいだった。
†
「さて、どうしたものかな?」
ケルベロスは露店から買ってきた濡れタオルで顔の汗を拭っている。
「久々に運動した。やはり鈍っている」
「サンドバックを殴っていただけじゃない」
キマイラは楽しそうに言った。
ポケットから、色々な物を取り出している。
ヴリトラと名乗った男は、両手を背中の辺りで縛られて、木にくくり付けられていた。顔面はかなり殴られたみたいで、膨れ上がって変形している。
「いや。本当は一、二撃で沈めるつもりだったんだ。もし彼の能力が触れた時点で発動する何かだった場合、俺は終わっていたからな」
ケルベロスは、キマイラの軽口に応じる事無く、真面目に答えた。
触れた時点で終わる。ケルベロスの持つ能力がまさにそれである為、殴り合いの勝負にわざわざ答えたのは、彼の優しさであると言える。
ヴリトラは小さく唸っていた。
ケルベロスが彼に向って語る。
「聞こえているか? ヴリトラ。俺達の目的は可能ならば、君達の拘束だ。殺害じゃない。今ではアサイラムという監獄が作られている。幸せな場所だ。昔のような、囚人の人権を否定するような場所には連れていかない。どうだろう? このまま投降してくれないか? そして出来れば、クラスタ内部の情報をほんのちょっぴりでいい、教えて欲しいのだが」
ケルベロスは濡れタオルを、彼にも差し出す。
キマイラが脇に入った。
「生かせば問題ないんでしょう? やっぱり、ちゃんと聞き出しておくべきよ? そう思わない? ちゃんと合理的に動かないと。私達だって死の危険と隣り合わせなのよ? 貴方の信条は分かったわ。でも、私達の命の心配もしてくれなくちゃ、ねえ?」
ケルベロスは少し、むっとする。
キマイラは何かを彼の手の中に放り投げた。
人体の皮を直接引き剥がしたもののように思えたが、その裏側には半透明のプラスチックの箱がくっ付いていた。銅線が幾つも付いている。どうやら、真鍮の幾つかは引き抜かれたみたいで、装置としての機能は完全に破壊されていた。
「この男の皮膚の一部に付着していた。三個も。特殊メイクのように表面を皮膚の形に擬態させている爆弾。いざとなったら、彼、スーサイド・ボマーの役割も果たすつもりだったみたいね」
ヴリトラは声に為らない声で唸っていた。
キマイラは彼の眼の辺りに、一本の針を突き付けていた。
「さて、喋れるかしら? 私は貴方と仲良くなりたいのよ。ちょっと、今、お話するのが苦しいでしょうけれども。どもっても、噛んでもいいから、話してくれない? ちゃんと翻訳してあげるから。とにかく、話して、ね?」
彼女はくるくると、目蓋から鼻、耳、そして喉、腹、太腿を、針でなぞっていく。
男は、微妙な表情で彼女を見ていた。
「そうねえ。まずは、能力者は何名いる? 貴方の知っている限りでいいの。貴方に自分の能力を教えていない者もいるかもしれないから。それから、出来れば、知っている範囲で、貴方のお友達の能力を教えて欲しいのよ。それから、私達、とっても困っていて。せっかく、貴方達のお宅にご挨拶に行きたいのだけれども。あんまり、歓迎されてないのよねえ。それはとっても怖い。だから、安全に入る方法も教えて欲しいのよねえ?」
ヴリトラは頑なに彼女を睨み付けていた。
キマイラは、くるりくるりと、彼の太腿の辺りで太い針を弄くっている。
「じゃあ、一つ一つ。貴方のお友達の能力を教えてくれないかしら?」
彼は首を横に振る。
そして、初めて、まともに答えた。
「し、知らない。俺には聞かされていない。みんな、自分の力を隠したがる……」
「あらそう」
キマイラは針を、太腿から腹の辺りへと移動させる。
「じゃあ。クラスタ。安全に入る方法、教えてくれないかしら? そっちは本当に困っているのよねえ。さすがに、それは知っている筈よねえ?」
ヴリトラの顔が引き攣っていた。
勢いよく何かを貫く音が聞こえた。
男の顔面のすぐ隣の、太い樹木に、針が深々と突き刺さる。
くりくり、くりくり、と指先は針を回転させていた。
そして、針を引き抜く。
「上腕骨と大腿骨。どっちがお好きかしら?」
ぎゅるぎゅる、とドリルを回すように、キマイラは木の幹を針で削っていく。
「ねえ、人体って。壊れやすいものなのよ。一部が損傷してしまうだけで、大部分が動かなくなる。サッカーの無い生活と犬食いでの食事、どっちが素敵だと思う?」
「キマイラ……」
それまで黙って見ていたが、いい加減にしろ、と言わんばかりに、ケルベロスは彼女を制した。
「拷問は止めろと言っただろう」
「あら? 私は彼とお話しているだけよ?」
キマイラはへらへらとした調子で言う。
「い、言う。言う、言う、言いますよ。だから、お願いします!」
男は可哀相にも、顔を蒼褪めながら首を縦に振っていた。
お願いします、とは、彼女を遠ざけて欲しいとの事だろう。
「ほら。お話だけだったでしょう?」
キマイラは満面の笑顔を、今回の仕事のリーダーへと向ける。
彼は少し頭を抱えた。
やはり、彼女は。
かなり、危ないものを抱えている。……。