第五章 神の火は、淡く。 2
ヴリトラは死んでいた。
開いた瞳孔に、蝿が止まる。
胴体に大きな孔が開いている。
彼の周囲には、倒壊したビルが並んでいた。
瓦礫の山。
大きな破壊の痕ばかりが残っている。
なるべく、敵を住民達に被害が及ばないように。無人の建物に向かって移動していったが。それでも、数十名を超える犠牲者は出てしまった。巻き添えを食らった者達が、泣き叫んでいる。
彼の意識はもう無い。
彼は完全なまでに、死んでいるからだ。
何名かの住民達は、彼の死体を遠くから眺めている。
彼は敵と戦って、クラスタを守ろうとしたのだ。
住民達は、敵に対する憎しみを募らせていた。
彼は優しい男だった。どことなく、危なっかしい男でもあったが、それでも住民達にとっては良い男だった。
それが、今、物言わぬ骸となって横たわっている。
彼はエタン・ローズの能力の本質を、最後まで理解する事は無かった。
それでも、彼は挑んでいったし。実際、彼女を本気にさせた。
余り、誰にも知られないであろう、業績。
†
クライ・フェイスはカードを切っていた。
トランプを何度も切っては。何度も、抜いていく。
ハートだけが出ない。そういう風に、細工してある。
彼は無機質な顔で、トランプに見入っていた。
ボロボロに朽ちた沢山の人間達の絵。それが並んでいる。
キャンバスに向かう、一人の男。
セルキーは病んだ顔の男だ。
彼の背後で、泣き顔はカードを切り続ける。
「クラスタに侵入者が来てますね」
彼は呟く。
セルキーは、それでも。何も気に留めない。
彼の生涯の仕事を続けるだけだ。
ロータスの側近達。彼らは、只、彼らの人生を生きるだけだ。
アニマは、また。仕事に向かった。此処には、彼女の水彩画も置かれている。
綺麗で透明な魚の絵だ。それから、植物の絵。淡く透明な色彩。
「セルキー。私も私の仕事を致します。あの方を侵入者からお守りしないと」
そう言って。彼は、カードを切り続ける。ただただ。
†
いつか、光が刺し込むのだろうか。
この集落にも。また。
絶望の底の底にいて。
この深海のような意識の中にいるからこそ。
何かを掴み取れるのだと、彼は信じている。
炎。それは原初の大地を生まれていた、煮え滾った命。
光よりも、聖性よりも。
彼は、炎の力を信じている。
アニマは彼の寝台の上で眠っている。安らかの吐息。
二人の間に、愛はある。
クラスタの中にあるカフェテラスで。
ロータスと一緒に、クッキーを食べて。紅茶を飲んだ時の事を思い出した。
「苦痛は無限に反復していくわ。苦痛と苦痛。心の傷は。ずっとずっと、受け継がれていく。何世代も、何世代も。人間同士が分かり合えないという事。何故、この世界はこんなに終末の中にいるのかしら。まさに、地獄の世界だと思わない?」
「人は人の心を読めないからだと思います。自分の心でさえも」
カイリもまた、苦悩していた。
「分かり合えないという事が、とても寂しい事よねえ」
「それでも、俺は貴方の言葉を理解したいですよ」
「ええ。嬉しいわ」
ロータスは言う。
「情感の中に幸福はある。どんな時にでも。もし、この世界を救済出来るとするならば、たとえば、幸福であるという情感が永遠に続く事。安らかである事。それは大切にしなければならない。それも、心の底から。けれども、みんな、偽りの情感に身を置く。それは大きな支配を享受して、偽りの情感の中に身を置く。偽りの官能の中に。でも、それって生きている事なのかしら。それはとてつもなく不幸だと私は思っている。それは生きているという事ではない。支配から抜け出さなければならない。食べる事、眠る事、愛する事、夜の褥。全てに美の世界がある。けれども、それが暴力によって殺される。この世界から官能性は剥奪されて、全て死の世界になっていく。それが傷付けられる、という事。何処にも、生きる事の出口が無い。清らかな感情の身の置き場が無い。何故、人々は人を愛せないのかと。偽りの支配的なものによって齎された愛によって、わたし達は生かされ続けているのだろうかと。延々と、人類の歴史が始まって以来。それは繰り返されている」
幸福と。
不幸の差異。
官能と虐待の差異。
その境界。
「わたし達は神のいない世界で、神を創らなければならない。それは美とか聖なるものと呼ばれる。清らかなものだとか。人間がこの世界に生まれ落ちた事。それに価値を置く為には、聖なるものの創造なのだと思っているわ」
彼女はとても悲しそう。
「此処に来て。自ら死を選ぶ人達。わたしは彼らを否定しない。むしろ、讃える。彼らは、自分の心の中にある、大切なものを守る為に死んだのだと」
カイリは敢えて、疑問に思った事を訊ねた。
「物質はどうするんです? 食糧とか衣類とか。人はパンだけでは生きられないとは言うけれども、やっぱりパンは必要ですよ」
「そうね。ただ、そのパンを作り出す者達。物質を作り出す者達。彼らが苦痛を持たずに生成する事が出来れば。わたしはそれを望んでいる。まだ、人間が到達出来ない感性の領域に。人間が行く事が出来るのならば」
「うーん」
カイリは少し考える。
ロータスは視ている世界を言語化する時に、感性ばかり先立っている。中々、それが論理体系だった言葉にする事が出来ない事がある。
詩的であり、感覚的であり。もう少し言えば、結論を急ぎ過ぎて、感覚的に視てしまったイメージを、何とかして言語化させようとしているのだが。やはり、普遍的な言葉に直すのは難しい部分がある。
カイリは何とか、彼女の言葉をもう少し、みなに伝わるような言葉に変えたい。
「うーん。苦痛の無い社会の構築なのかなって。確かに、みな言いますよね。労働が悪夢のようだって感じる人達。此処には多い。まあ、関係性の問題なんでしょうが」
「支配の問題だと思うわ」
ロータスはにっこりと笑った。
「人間が人間を支配したい、っていう観念が大きくなって。一つの物語になっている。人間が作り出した化け物ね。それは形が無くて概念の中にしかないけれど、確かに存在しているわ」
「化け物、ですか」
「そう。化け物が人に乗り移って。人が人を殺す。戦争。虐待。強姦。全て、化け物が降りてくる事によって行われる。人間が他人を傷付けたい、という意志を持って。けれども、もし、人間が暴力を止める意志があるのならば」
「そうですね。……でも、暴力ってのは何なのかなって。どんな言葉もどんな意志も、関係性によって時として暴力に変わる。難しいですよ。偶然性によって他人を傷付ける羽目になる事だってある。ちょっとしかすれ違いだって。言語だって違ったりする。俺達、人間は暴力を無くせるんでしょうか。人が人を傷付ける、という事を」
「わたしは無くせる、と思うわ。もし、正しい、というものがあるとするならば。正しい世界というものがあるとするならば。無くせる。必要なのは、無くそうとする意志。その中に、人間が調和する意志があるんじゃないかって」
「ふむ……」
カイリは少し、考えた。
「感情の流れがちゃんと、廻る事が出来るならば。人間の持っている感情と感情の流れ。それは一体、何処からやってくるのか、っていえば。やっぱり、人間は心のどこかで大いなる存在と対話しているんじゃないかって思っていて。どんな形をしているのか分からないけれども。わたしはまだ視えないけれども。それはとても美しく、聖なるものだと思っているわ」
聖なるもの。
カイリもきっと、それを望んでいる。
「大いなる存在。なんでしょうね。……。俺もあなたと同じ感覚を視る事が出来れば、あるいは。けれども、あなたの言葉を伝える為のツールになる事だって俺は出来ると思うし、したいと思っている。正しい事、行わなければならないと俺も思います。でも、その正しさをどう正しいって、伝えるか。難しい。正しさか。創らなければならないですよね」
そこがまた、歯がゆく思う。
「思うに、ロータスさまは、正しさ、ってのを直情的に感じ取ってしまっていて。論理よりも感情が先に来ちゃう。俺が補完出来ればいいのですが」
「うーん、そうなのかしら?」
「うーん、何でしょうね。言ってしまえば、何だろう。ロータスさまって女で。特に女性的な感受性と感情ばかりが先行しているなって。で、俺は論理的に補完出来ればいいなっては思いますね。言葉の伝え方によって、印象は様々に変わっていく」
神のいない世界においてもなお。
神を信じ続けなければならないし、あるいは神を創造しなければならない。創造ではなく、捏造なのかもしれない。
神とは、永遠に届かないものだ。
永遠に、永遠に触れられなくなっていく。
カイリは、虚無の只中にいる。
虚無とは何なのだろうか。
何にも縋れない、という事。
何処にも拠り所が無い。出口が無い。
立って歩けるだけの大地が無い。
何処にも、落ちていく事が出来ない。
道が見えない。
そこには、過去の素晴らしさもなく。
未来に対する、希望も無い。
クラスタの住民達には。
様々な形の虚無がある。
虚無の種類は、一つではない、という事が分かるのだ。
希望はあるのだろう。けれども。
その希望に、魅力を感じない。美しいとも思わないし。希望を持って生きる事が、果たして本当に生きているといえるのか、とも思う。
「美しさを信じ続けたいわね」
ロータスは満面の笑顔で。無垢さを伴って、言った。
その意志の中に、迷いは無い。
カイリは彼女のようになりたい。なれないかもしれないが、それでも、目指したい。
自然との対話。世界は生きるに値するものがあるのだと。
何故、人は暴力の連鎖を止められない。支配の連鎖を。
他人を傷付ける事を。
報われない死。報われない涙。
沢山の死体達。顔の無い者達。声を上げられなかった人々。
終わらない戦争とテロリズム。
終わらない虐待と強姦と、拷問。
一体、人は何に救済されればいいのだろう。分からない。
痛みの連鎖。悲しみの連鎖。
人が人を傷付ける世界。
終わらない戦争。
終わらない搾取の世界。
それは、国家単位の戦争から。先進国においてもなお、繰り返される虐待と差別。
傷付く人間がいるという事。
何故、この世界はこんなに醜いのだろう。分からない。
カイリは心が弱い人間だと思う。
ロータスも、きっと。
蓮の香りが、とても優しい。
彼女は世界と対話している。無限の善なるものを探し、無限の悪なるものと対峙して。
愛と官能の美しさ。優しさ。
自然の中の息吹。
食べ物の美味しさ。睡眠の安息。恋愛の中の一体感。生きるという事。
決して奪われてはいけない。人間が生きる、という事。
一体、人間は世界の中における邪悪さにどれだけ抗えるのだろうか。
国家。宗教。支配の歴史。
どんなコミュニケーションでさえ、時として暴力でしかなく。
どんな性愛でさえ、一つ間違えれば凌辱にさえ変わってしまうという事実。
子供達の未来。
弱き者の未来。
強き者が邪悪ではなく、支配こそが邪悪なのだろう。
人間が人間を支配し、拘束したいという欲望。
そうやって培われてきた人類の歴史。
その構造を破壊したい。クラスタの中枢にいる者達は、みな、そう願っている。
そう。暴力は永遠に、永遠に再生産されていく。
明日の正しき者達の為に、何かを創りたい。
しかし、カイリはテロリストにはなれない。世界に剣を、拳銃を、突き立てたいとは思わない。終わりのない暴力ばかりが、また連鎖していく。
ヴリトラの事を思う。
彼は正しいのだろうか。少なくとも、カイリには分からない。
ロータスも、答えない。
「ロータスさま」
カイリは言う。
「なあに?」
「もし、俺達の死を持って。未来の子供達、未来に生きる者達が救われるのだとすれば、命を差し出しますか? 俺には分からない」
「何言っているの。今、此処で。わたし達が幸福を目指すという事。安らかさを目指すという事。美しさ、清らかさを目指すという事。その全てが未来を築くという事だと思うの」
未来。
カイリには分からないもの。……。
「人間はね、カイリ。どんな事でも傷付くし。どんな事でも苦痛と絶望の只中に落とされていく。それは彼らが弱いからといって、切り捨てていいものなんかじゃない」
無限の苦痛の可能性。
人が人を傷付けるという事。突き詰めれば。
どのようなものも、暴力であり。その結果として、その先に殺人や自殺、精神病、強姦、拷問。戦争、テロリズム、それらが巻き起こっていく。人が人を傷付けるとは、何なのだろうかと。
ロータスは、ふと話題を変えた。
「ああ、いい男の人いないかなあ。ねえ、カイリ。アニマとの関係はどう?」
「うーん、どうでしょう、結構、上手くいっていると思いますよ」
「そう。あーあ、わたしも、もっと若かったらなあ。恋したいなあ。愛する人の中で抱かれたい」
無為の中では、何も育たないのだと聞く。
ロータスの持つ人間臭さ。
それが、彼女の聖性と矛盾する事なく、備わっている。
彼女の言葉は、神降ろしの言葉。
彼女が在ると信じている神は、人間の官能を。意志を、食べる事、飲む事に対する素晴らしさを。芸術を見て感動する事の美しさ。感情の持つ美しさを教えてくれるのだと言う。
その中において。
支配とは何なのだろうか。
それは、人間の中に備わっている、征服欲だ。
他人を所有したいという事。
たとえば。
動物の世界でさえ、生存競争の為の搾取の世界ではないか。
あらゆる生物の世界でさえ。
人間も動物の一種である以上。
他の動物の模範でしかなく。
どうしようもなく。
そして、それを築き上げているのは。
物質の不足。自然災害。飢餓や病気はどうしようもない。
ある意味で言えば、人間の権力が肥大化していくのは、そういったどうしようもない、自然からの暴力のせいではないのかと。
けれども、人間はもっと可能性を持てる筈なのだ。物質も自然も、全て分かち合える事が出来るのではないか。それが、生きるという事をする事。
歴史の中で、苦しみながら死んだ者達。彼らの殆どは忘れ去られている。
記号化され、埋没され、大きな一つの悲劇として名前も無いまま忘れ去られている。
愛されなかった者達は存在する。
けれども。
死んだ者達を、死んだままにしていてはならない。
彼らは呼び覚まされ、受けてきた苦痛を、悲鳴を、再び、この世界で訴えなければならない。
彼らは復活しなければならないのだ。
彼らが生きた証として。彼らが存在した証として。
言うならば。
届かなかった言葉達の声になる。
救われなかった者達の、声になる。
彼女は、苦しみと対話し続けている。
彼らの意志を呼び覚ます為の力。荊の道。
磔刑への道だ。
それは、酷く固い荒野に、樹木を植えるようで。あるいは、何処までも辿り着けない場所として。辿り着けない真理を持って。それでもなお。
それでもなお。
彼女は世界を救済したいと願っている。
世界中の孤独に閉ざされた、悲しみ達を。
しかし、たとえば。
自分以外、誰もいない無人の島で暮らし続けた者。
そいつが、餓えや怪我の為に苦痛で苦しみ続けるのならば。
それは違うというのか。
そんな、疑問も、口にしてみた。
ロータスは、少し考える。
「そうね、彼らもまた。どうにかして、手を差し伸べないといけないのよね」
「俺は分かってます……」
カイリは悲しそうに言う。
「貴方の考えにもまた、思想にもまた。限界があるんじゃないかって。俺、考えるんです。貴方の思想が実現した世界がどうなっているかって」
支配の世界にいなくても、苦しむ者がいるのではないか?
搾取する者とされる者。そんな構造など関係なく、苦しみ呻く者がいるのではないか?
あるいは、この世界の人間の支配欲に関係なく、この世界にいてもなお、苦しむ者が存在し、権力などの、何かからの支配によって彼らは苦しめられている、と勝手に規定してしまうという事は。その行為でさえ、支配的なのではないのか。
そんな事を問うてみた。
人間の可能性が有限なのではないか、という根拠の一つに。
人間には個体差があって、寿命があって、脳もまた臓器の一つでしかないという事。
だから、有限の中に閉じ込められて、分かり合えないまま。死んでいく。
虚無にも、空虚感にも色々な種類がある。
カイリは虚無の中にいるのは、思考し続ける故に。
絶望の可能性を思索し続けるが故に、虚無に潰されそうになる。
神を信じない。死後の世界を信じない。輪廻を信じない。
美しい世界。
たとえ、そんな世界が存在したとしても、それが決して美しいものだとも、清らかなものだとも思えない。
それは、きっと自分が間違っているからだろう。言い聞かせたい。
「カイリ。わたしは神託しか出来ない。何故なら、わたしは他に何も出来ないから」
ロータスは何処か遠い眼をしているように語った。
「それでもいいですよ。みんな、貴方に貢献したがる。貴方は神託を伝えるだけでいい。貴方はみなにとって必要な、言葉、なんだ。それに関して、貴方は決して気負う必要なんてない」
「そっか。嬉しいわ」
彼女は屈託なく笑う。
その笑顔が、何処までもなく、眩しい。
二人の間に、風が吹き抜けた。
「青空にも、木々にも。風のせせらぎにも。汚染された大地にも。くすんだビルにも。赤茶けた海にも。戦争によって破壊された瓦礫の街にも。沢山の言葉が眠っている」
「……そうですね。それを、復活させなければ、ならない…………」
陽光。
刹那の中に、今が永遠なのだと感じた。
ロータスといる瞬間。アニマといる瞬間。
美しさ。清らかさ。
綺麗な金髪に染められた女の髪に触れる。
カイリはアニマを愛している。
彼女の声。肉質。瞳の黒さ。髪の質感。
愛している。
アニマもまた、カイリの胸は温かいと言う。
けれども、アニマは色々な男に抱かれていく。
その事によって、実はカイリは傷付く。
傷付いて……そして、彼女を赦し。どうでもいいと思うようにしている。
嫉妬心なんて、捨てたいと願っている。
「今日はどんなお客さんだった?」
カイリはアニマに優しく訊ねる。
「うーんと。今日は結構、優しかったよ?」
「そう、良かった」
子供の事を考えていた。
アニマには、その事までは考えていないだろう。
きっと、アニマにとってカイリなど、人生の間の。束の間の伴侶に過ぎない。
子供を持つ、か。
もしそうすれば、あらゆる絶望も。虚無も、振り払えるのかもしれない。
ロータスはこの世界で、今のまま、生を誕生させる事に悲しみを覚えるが。
カイリの見解は少し違う。
自分自身の生命の一部。それを産み落とすという事。
廻っていく世界。廻っていく世界を認めたい。
†