第四章 レイアは夢を見る。 3
暴君、という存在と対話する過去と、現在のエピソードが入り混じっているので読みにくいかもしれません。
「正しい事ってのは何なのかな?」
暴君と呼ばれる男は、カイリに聞いてきた。
ロータスを前にして、去っていったわけではなく。
どうも、彼女の取り巻きにも興味を持ったようだった。
茶色がかった髪を撫でながら、彼はカイリに詰め寄る。
「ロータスさまとお話したんですか……」
「まあな」
男はくくっ、と笑う。
カイリは身動きが取れなくなってしまった。
この男、正直、本当に……怖い。
彼の双眸はまるで、硝子玉のようだ。人間のそれとは思えない。
何か、人間を人間と思っていない者の眼をしている。
これまでに出会った事の無い、得体の知れない怖さだった。
「正しい事ってのは、何なのかなあ? 彼女の。興味があるんだ。俺には、なあ、お前は何だ、何と言う名前なんだ?」
「カイリ……」
「ほう、何だ。お前はこのカルトのメンバーか何かなのか?」
「そうです」
「何だか、弱弱しいな。クラスタってのには入りたてなのか? 古参なのか?」
「……どっちかっていうと、古参ですかね」
彼はカイリを分析しているかのようだった。
「しかし、お前なんかに聞いたって。仕方無いのかもな。お前、クラスタの下の方にいるメンバーだろ? 何だか、頼りなさそうだし、ぱっとしないしな」
「…………いえ、幹部です。ロータスさまの側近で、大幹部です」
それを聞いて、暴君は初めて、その顔に人間らしい笑みが満ちる。
「ははっ、ふはははははっ、なんだそれは? お前がか? それはいい。それは最高だ。このクラスタってのは、本当に何なんだ? 俺には分からんぞ。お前、クラスタ内での仕事って何やってんだ? 実務とかあんのか?」
「………なんですかね。……ロータスさまとお話する事以外、何もしてないような……」
聞かれてみると、確かに何で、自分は彼女の側近で、クラスタの幹部的地位にいるのか分からない。気付けば、そうなっていたというべきか。
そもそも、このクラスタが一体、何なのか、カイリはまったく分からないのだ。
その事を、正直に、この男に話す。
男は、真面目にそれを聞いていた。
「それで、カイリ。お前は正しい事ってのは何だと思うんだ?」
最初の質問に戻った。
「そうですね。……自分の欲する事を、望むままに行うべきだ、なんじゃないかなあって。ロータスさまのおっしゃっている正しい事ってのは」
「それは、何だ。正義とか道徳とかとは違うんだな?」
「うーん、……ですね。違うでしょうね。ロータスさまいわく、正義とか道徳とかって、邪悪なるものとか、って言いますよ。それこそが、人間を不幸にしているって」
「なんだそれは。ひょっとして、俺の“人間は人間らしさの中に拘束されている”に通じるものがあるのかな?」
「です。そうです。あなたはそんな考えをもっていらっしゃるんですか。面白い人ですね。ロータスさまが評価するわけだ」
だんだん、カイリはこの得体の知れない男に対して、くだけた口調になっていった。
意外と話しやすいのかもしれない。
「僕達は何も真実を知らないそうです。だから、真実を降ろさなければならないって」
「真実ってのは、何だ?」
「世界の根源なのかも。世界は偽りなんじゃないかって」
「根源? 偽り? 抽象的だな。ヤケに」
「ええと、ほら。何だろう、此処のクラスタに住んでいる人達って、みんな、色々、背負ってきたり、傷付いてきたりして、此処に来たんです。家庭環境が酷かったり、貧困国で育ったり、戦争体験を得たりして。散々、人間の闇を見てきたっていうか。……でも、そういうものを体験せずに生きている人間って、やっぱり多くいて」
「ふむ?」
「強い人間が奪い続ける世界が、何か嫌だなって。僕も思います」
男は何だか、今にも笑い出しそうな、逆に、何だか悲しみに共鳴するような、あるいはどちらでもない不可思議な表情になる。
ひょっとして、もしかすると。彼はかなり理知的なのかもしれない。
「人間の持つ、闇か。成る程、あれか。単語だけ並べれば幾らでもあるもんな? 虐めだとか、拷問だとか、色々な?」
「ええ」
「救いたいのか? そういう体験を受けてきた奴らを」
「救いたい、ってのは、多分、人間全てだと思うんです。みんな本当は、分かり合える筈なのに。眼を背けているって。正しくない、って」
「ほう、分かり合えるのか。凄いな、それは」
男は顎に手を置いた。
そして、何かをふと、思い付いたように言った。
「処で俺は純粋悪で、今、何となくお前を殺してみようかと思うんだが。それでもいいのか? そうだな、酒瓶で頭を割って殺したい」
カイリはぞくっ、と寒気がした。
この男の眼は本気だ。
じっと、カイリの頭部を眺めている。
鈍器で自分の頭を割られるイメージが浮かぶ。
「…………冗談、ですよね?」
「勿論、本気だ」
数秒の間、二人とも沈黙する。
男は両手を広げた。
「問題は、だ。酒瓶が無い。俺はお前を酒瓶で殴り殺したいんだが、酒瓶が無いってのは、本当に困っている。だから、まあ、殺すのを止めにしたわけなんだが。……俺みたいな人間は、みんなと分かり合えるのか? 根源ってのは何なんだ?」
男はまったく眼の色を変えないまま、話を続ける。
カイリは考える。
「そうですね。………」
確かに、だ。迷いが生まれてくる。
「俺は思うんだが、人間は別に殺し合って、奪い合っても構わないと思うけどな? その事象を認めたっていいんじゃあないのか? どうなんだろうな? 世界に苦しむ人間が幾ら至って構わない。それが自分やら自分の恋人やら家族、友人じゃあなければいい。それじゃ駄目なのか?」
「……いや、やっぱり悲しいものですよ。それが、自分の見ず知らずの人でも……」
「俺は絶対悪になりたかったんだがな。本当は。でも、どう考えても無理だろ、って思って。純粋悪って思うようにした、自分の事をな。この違いって何だか分かるか?」
「…………うーん、説明してください」
「純粋悪って、在りのまま意味も無く理由も無く殺す者、って定義している。俺がそうだと思っている。別に殺すではなく、理由も無く犯罪を行う。壊す、と言い換えても構わないな。そう、俺の人生はずっとそうだった。けどな、絶対悪、ってのは何だろうな? もう、どう考えても、誰からどう見ても、どんな価値観でもどんな見方をしても、悪い奴ってしか思えない、その悪さにある種のカタルシスさえ覚えない悪人ってのは、いるのか? どうなんだ? もっと言えば、本物の悪なる行為ってのは存在するのか?」
カイリは彼の言葉を一つ一つ、吟味していって考える。
「ほら、大虐殺者って、結構、崇められているだろ? 大悪人ってのも。人間の不幸ってのを、好む奴ってのもいるだろ? 絶対悪ってのはあるのかな?」
「……分かりません。難し過ぎますよ」
男は肩を竦めた。
「いや、俺が悪かった。つまり、俺の聞きたい事ってのな、絶対善、ってのも存在しやがるのかなって思うけどな?」
そして、更に付け足して。
「人類愛ってのも、何なのか分からないな」
と、言った。カイリは、また少し考えてから。訊ねる。
「人を好きになったり、愛したりとか出来ないんですか?」
「いや。俺は人を好きになったりするな、愛情だってある。これでも、結構、恋愛とかしてきたぞ? 結婚を誓った恋人だっていた。まあ、何となく別れたり、何となくナイフで刺し殺してみたりしたんだけどな」
彼はおどけたように言う。
しかし、多分、それは事実だ。
カイリは再び、冷や汗が流れた。
目の前に、たまたま、酒の瓶があれば、先ほどの言葉通りに、カイリを殴り殺すのだろう。
理不尽な暴力行為。
「純粋善、ですか……」
カイリは少し、考える。
「善を為す、って何だ? 俺には分からない。思うんだが、人間一人を助けるって事は。誰かを助けないって事だろ? 人間一人を愛するって事は誰かを愛さない事だ。みんな助けられる、みんな愛せる、って思い込むようにするかもしれない。どうも、この地上の物質は有限らしいからな。それを適当に奪い合って、人間ってのは生きているよな? まあ、段々、人間ってのは成長を伴うに連れて。適度に折り合いを付けて、適当にこの世界は愛せるに足るものなんだ、って思って。前向きに生きようとするよな? 俺はだ、そこで。善も愛も何もかも理解出来なくなる」
「なるほど」
カイリは驚嘆した。
「ロータスさまなら、きっと言うでしょうね。あなたは、正しい事を知っている、と」
「正しい事か。俺は壊したくなるだけだぞ? それは正しいのか?」
「正しいです。……ロータスさまなら、そうおっしゃいます」
「ふむ。そうか」
「社会はおかしいから、壊すべきだ、ってロータスさまはおっしゃいます」
「ふむ。そうか」
彼は、やはりよく分からない、といった顔。
「そうすると、どうなるんだ? ロータスによると」
「本当の人間の幸せが現れる、と言います」
「本当の人間の幸せ? よく分からんな」
「…………。自分自身の為に生きる、という事なのかも」
カイリは自問自答するように言った。
「……どういう事だ?」
「人間は誰かの為に生きようとした瞬間に、自分自身を否定する。自分は何かの為に生きなけばならないという事。それって、多分、仲間だとか、もっと言うと、国だとか。そういうものの為に生きるって、汚いんじゃないかって。少なくとも、俺は彼女の言葉からそんな事を見出したし。彼女の言葉を糧にして、彼女の言葉を自分なりに解釈しながら、俺は生きています。俺には、何もなくて、俺には強い虚無感しかないけれど。……」
「ううむ、取り敢えず、自分勝手に生きている奴が正義なのかな?」
「彼女は言います。本当に自分勝手に生きられる人間は、むしろ他人を大切にするだろうって」
「なんだそりゃ、凄い暴論だな?」
「処が、暴論じゃないんです。人間は国家とかみんなが決めた法律だとかに縛られて、自由や目的を失っているって。そういったものから、解放されていけば、真の愛をみんな思い出すだろうって。ロータスさまは言います」
「ふむ、そうか…………」
尖ったナイフのような顔の男は、ふうっ、と溜め息を吐いて。自らの頭をぼりぼりと掻く。
「それにしてもだ。人類の歴史ってのは、あれだ。大失敗だ。失敗の失敗。大失敗。だからな、俺は滅んじまっても、いいんじゃねえのかって思うな? 俺はお前らに餞がしたいな。しかし、何も渡すもんがねえ。だから、俺は祈ってやるよ。お前らの成功をな」
「俺達の成功ですか」
彼は苦笑した。
いつの間にかだろう。
二人は、打ち解けていた。
純粋悪とやらを標榜する暴君。
そして、虚無主義者のカイリ。
二人は、相手を嫌う理由が無かった。
カイリは、彼に殺される事を別に怖いと思っていなかったし。だからこそ、彼はカイリを殺さなかったのだろう。
その後、食堂に寄って。彼と更に、小一時間程、会話を続けた。
彼は食事がとても好きな男だった。
出てくる料理の一つ一つに対して、自分なりの考えを話した。
破天荒なのか、紳士的なのかよく分からない男だった。
それから、彼の考えについて、カイリは更に色々と聞かされた。
†
ビルの中を、歩いていって。ある場所に辿り着いた。
そこは、おどろおどろしい絵画が、沢山、並んでいる場所だ。
そこに、一人の茶髪の男がいた。顔立ちはまあ、良い部類だろう。
彼女は、彼があの女の側近だろうという事を見抜いた。
一目見て、見抜いていた。
だから、怒りの矛先としても使いたかった。
「さてと。貴方の言葉を聞きに来たのよ」
………………。
女。
何だか、声が若い。
カイリは、そいつが少女なのだと気付いた。
しかし、纏っている雰囲気は、まるで普遍的な少女然としていない。
「貴方は何なんですか?」
「ああ。私はレイア。まあ、所謂、能力者という奴かしら?」
カイリは黙る。
こいつはいつから、クラスタに侵入した。いや。
クラスタに侵入者がいる、という情報は既に入ってきている。
クライ・フェイスが、今、クラスタ中の住民を、何とか避難させようとしていた。
「あのロータスというのは、一体、何が言いたいのかしら?」
険のある眼だ。
今すぐにでも、カイリに対して害を為しても構わない、といった趣をしている。
実際、もし何らかの理由があれば。彼女は躊躇なくカイリを殺すだろう。
そういう眼をしている。
彼女は少女的な部分は確かにある。しかし。
普遍的な少女とは何処か違う。邪悪さと、無垢さと。そして、何よりも強い悪意と敵愾心と、強い意志が感じられた。
それは、一つに凝縮され。一つの殺意にさえなっている。
「ロータスの考えとやらを聞きたいのよ」
「以前」
カイリは既視感を覚えて言った。
「以前、ロータスさまとお会いして。同じ事を俺に訊ねた人がいます」
「へえ? それは誰? どんな人だったのかしら?」
「ウォーター・ハウスという男です」
それを聞いて、レイアと名乗った少女は愕然とする。
しかし、すぐに気を取り直した。
「成る程。私の夢の中に彼が出てきたのは、貴方の思念が入り込んできたからかもしれないわね」
「そうなんですか……」
きっと、ロータスの能力の影響ではあるまいか。そんな気がしてならない。
ヴィア・ドロローサは。周囲にも影響を及ぼす。特に、カイリは彼女が読み取った思念を読み続けている。その為、深い底無しの絶望に落下していく事が多い。
その事を告げずに、彼女に訊ねていく。
「俺に聞きたい事があるんじゃないですか? ウォーター・ハウスさんが以前、俺にどんな話をしたか、とか」
「ふーん。確かに興味があるわね。お聞かせ願えないかしら?」
カイリは以前、暴君ウォーター・ハウスとの交流の内容を思い出しながら、彼の語った事について思い出せる範囲で、彼女に伝えていく。
ロータスに関する疑問。
カイリなりの、ロータスの言葉の解釈。
暴君の飄々とした態度の事。
「たとえば。人間が自ら悲劇を創りたがるのは、それは何処までも快楽に満ちた行為だからだろうとも言っていました。ある意味で言えば、それこそが人間の一面であり。それを否定する事こそが、更なる人間の悲劇を齎すだろうとも。そして、彼は自らが破壊と殺人に溺れる事によって生きる意味を獲得したいと言っていました。そして、それ自体を目的にする事によって、純粋無垢な悪になるのだと」
「純粋な悪ね」
彼女は無表情のまま、相槌を打つ。
「ロータスさまとはまるで考え方が違うんです。でも、ロータスさまは彼は正しい事を理解していると言った。それはどういう事なんだろう、って俺も思いますね。彼女とはいつも分かり合えるような気がする時と。俺にさえ、全然分からない時がある。それは彼女の中に、何かが降りているからなんでしょう。彼女が視ている世界は、彼女自身でさえ理解不可能なのかもしれない。彼女は何とかしてそれを言葉にしたいと考えている。その為、彼女の会話は分かる時と、分からない時がある。それは彼女の能力の性質上、仕方が無い事だと思っています」
「なるほど。そういう事だったのね」
少女はくくっ、と笑った。
「というわけなんです。どう思います?」
少女は顎に手を置いた。
「へえ。あの男、そんな一面もあったのね」
「彼を知っているんですよね。もしまたお会いする機会があれば、伝えて欲しいんです。俺、貴方と、また話してみたいって」
「それは無理ね」
刃物のように、鋭利な声音で彼女は言う。
「だって、そいつ。私が殺したから」
何の韜晦も含まない、淡々とした事実。
カイリは一瞬、呆けたような顔になる。
「こ、殺したって……」
「ええ。私が殺したの」
少女は鼻で笑う。
事実なのだろう。
「そうですか。彼は自分が死んだ後の事も考察していましたよ。死んでもなお、自分が残るだろうって。そんな事を語っていました」
少女は首を傾げる。
「どういう事かしら?」
カイリは少し言いにくいそうに言った。
カイリ自身でさえ、どういう事か分からない。
「“俺は観念になる”って言っていました」
それを聞いて、彼女は眉間に皺がよる。
「なるほど。そんな力があるみたいね。つい前に、私の夢にも出てきた。おそらくは、彼の言葉に私が何処かで感化されていて。貴方の首領の言葉によって、私の中で何らかの思考のズレが生じたから、現れたのでしょうね」
彼女は淡々と何かを分析しているみたいだった。
「それは彼の能力、というよりも。別の才能とでも言うべきか」
「他に何を言っていたのかしら?」
「“俺は再生され続けるだろう。俺が言葉を与えた者達に。単純なトリックだ。催眠暗示のようなものだ。俺はそいつに囁き掛ける。俺の言葉はきっと強いんだ。たとえば、俺の持っているオーラ。俺の言っている言葉の力強さ。会話の中で生じる空間と空間の情感。その中に俺は他者に侵入する事が出来る。”って。彼自身は、自身の能力である『エリクサー』ってのとは別物だって言っていましたけど。単純な技術の問題だって」
「ますます分からないわね。技術でそんな事が出来るっていうのかしら?」
「だから、実験しているって言っていました」
カイリは自然と暴君の言葉が出てきた。
まるで、テープ・レコーダーのように再生されていく。
「“破壊在る処に、俺の意志があるだろう。俺は殺戮と破壊に対する言語を持ち得る可能性がある筈だ。俺は殺人する。俺は夜と夢の中に存在する事を願っている。俺がこの世界から消え去ってしまった後もなお。俺は生き続けるだろう。お前らの中でな。お前らは俺を再現する為の道具になるだろう。俺は書物になりたい。破壊の言葉が書かれた書物にな。俺は何処までも強大になっていくだろう。俺を知る者がいる限り。俺はいつか世界中に浸透していくのかもしれない。俺は永遠に滅びない存在になる。俺はお前のような奴が大好きだ。きっと、俺を語り継いでいくだろうからな”」
少女はふうっ、と溜め息のようなものを吐いた。
「“世界中の人間の苦悩と苦痛を見てみたい。それはある意味で言えば、ショーでさえあるし。俺はそれを楽しいと思う。俺は悪であるが故に、それらを傍観するんだ。そして、俺は死や破壊を撒き散らす。俺は救い難い無価値になる。何の理由も無いからこそ、俺はそれが楽しいと思っている”」
カイリは話していて、何だか楽しくなってきた。
何故だか、清々しい気持ちになる。
「もういいわ」
彼女は踵を返した。
†
暴君はカイリに言った。
ある実験をしているのだと。
自分が生きている内に、それを成し遂げたいと。
暴君は自らの死も、念頭に入れていた。
彼は果たして、今、どうしているのだろうか。
何処で何をやっているのか。
しかし、よからぬ事をやっているのは確かだろう。
もし、生きていたとしたら、また会ってみたいな、とも思う。
実は、沢山、話したい事がある。
命の美しさ。
そんな言葉が頭の中を過ぎった。
ロータスが伝えようとしているものは、結局はそういう事なんじゃないのか、と。
命の大切さとは何なのだろうか。分からない。
人間はただ生きているだけじゃない、食物で生きているわけじゃなく、言葉で愛で生きていると思う。
大切なアニマの為に、カイリは生きている。
守れるだろうか? 守りたい。
幸せが何なのか分からない。けれども、幸せにしたい。
自分なんかが幸せになっていいのか分からない。
いや、そもそもだ。幸せの状態というものが余り、分からない。
命の輝き。
何もかも、失われていく。
生きるという事。
それは、大気や食物で生きているわけじゃない。
国家の為、社会の為、家族の為、誰かの為に生きているわけじゃない。
自分の為に生きるという事。
そういうものだと、分かっていながらも。……。
あの男は何て言ったっけ。そう、暴君は……。
美しさなんて存在していない。
だからこそ、人間は美しさを認識したがる。
神がいるとするならば、きっとこの世界に何の干渉もしてこないのだろう。
だからこそ、人間は大いなる神の導きを信じたがる。
そんな事も言っていた。
†
在り得ない世界にて。
闇は言う。
「ふははっ、レイア。俺が何なのか理解したか? 俺がやっていた事が」
「ええ、胸糞悪いわね」
カイリという男と会って、話して、ようやく理解した。
「そう、俺はイデオロギーになりたかったんだ。俺は死んでもなお、再生産され続けている。そんな実験をずっと行っていた。カイリって奴にも話したんだな」
男は哄笑を続ける。
「私からすると、貴方の言っていた考えなんて大した事なかったわ」
「そう。でも、勝手に捏造していっているだろ? 俺と話していた奴がな」
男の金色の髪は揺れている。風も無いのに。
「いわば、俺は“神”になったんだろうよ。神さまってのはあれだ。人間の思考と観念の増殖によって生まれてくるんだろうな」
辺りは。
空間が渦巻いている。
闇がとぐろを巻いていた。
暗黒の空は、漆黒の海溝ように深い。
破裂音。
少女は振り返る。
そいつの肉体はバラバラに砕け散っていく。
沢山の羽虫となって、飛んでいく。
細かい粒子の粒。蝿だ。
腐乱した肉に蔓延る怪物。それはおぞましく飛び回る。
黒い羽虫の渦。そいつが立っていた場所には。
朽ち果てた、テレビの残骸が置かれていた。
沢山のビデオ・テープとビデオ・デッキ、テレビの山だ。
沢山の映像が再生産されて、映像が映り込む。
映像が流れ出される。
各世界の、各歴史の、各場所における戦争が映し出される。
それらの全ては宗教戦争だった。各々の旗や信仰する教条を掲げている。
各々が、自らの信条を信じて戦っている。
沢山の戦死者達の映像が映った。
彼女は何処までも冷たく、その映像を眺めていた。
「汚らわしいわねえ」
レイアは言う。
ウォーター・ハウスは無言で頷く。
「だろうな。お前は何も信じていない。そうだろ? 宗教なんざ、完全に馬鹿にしている。真理なんざな。神だの何だのをまるで信じない。創造主だの、万物だのを。しかし、どうもそれを信じたがる人間がいやがる。俺だって、きっと信じなかったんだろうな。だから、実験を開始したんじゃないかな? 適当にでっち上げた思想や観念とかいうものを、他人に撒き散らしてみると、どういう結果が起こるのか。生前の俺はそう暗躍していたんだろうな?」
二人は、お互いを見据える。
「人間の弱さに吐き気を覚えるわ。何かに縋る事でしか生きられないという事実。何かに依存して存在しているという事実」
「お前の凄い処ってのは、その縋るだの依存だのってのが、世界の環、みたいなものにまで行き着くからなんだよなあ? たとえば大気、たとえば食物。たとえば社会。たとえば国。たとえば愛。なあ、お前は何処まで孤独になるんだろうな? 俺は興味がある。お前の行き着く先に」
「ふん、貴方ごときに何かを言われる筋合いは無い、わね」
「ははっ、だろうな」
ウォーター・ハウスは哄笑する。
レイアは不快に思った後、すぐに気付く。
こいつを“再生”させ続けるのは、どうしたものか。
おそらくは、他の誰かも、こいつを夢や回想や幻覚などの中で、再生させ続けているのだろうか。
神。観念。
ビデオ・テープは回り続け、映像は続く。
独裁国家も共産国家も、民主主義国家も、何かしらの宗教を掲げて国を維持し続けていた。
本質的には、みな、同じものなのだろう。
聖書、聖典、哲学書、文学書、芸術作品。
それらは歴史を超えて、時間を超えて、様々な地域、様々な場所、様々な人間の間で、認識されて。再生産、再生され続けて、その人間に影響を与え続ける。
そして、それらの物語に触れた者は、物語に様々な解釈を与え続ける。様々なイメージの投影を続ける。
歴史に残った書物は、そうやって、日々、成長を続けていく。
様々な人間が、解釈を肥大化させていき、注釈を付けたり、他の書物と比べて語ったり、新しい書物を書く上での参考にしたり。
…………。
「不死だろう? 俺は死ななくなった。違うか?」
「馬鹿らしい……」
レイアは心底、嫌そうな顔をする。
「無限のエネルギーだ。俺は何処までも“強くなる”。そうだろう?」
「本当に、おぞましいわね」
果たして。
それは、彼に向かって言ったものなのか。
あるいは、……人類全ての持つ気持ち悪さに対しての……。
自分自身の。
所謂、強さとやらの行き着く先は何なのか。
レイアが求め続けている、強さ。象徴的なもの。
誰にも触れられず、誰も届かないもの。
それは、一体、何を意味しているのか。
「仮に私がフェンリルの創造したものだとする。そして、私のイメージが、貴方を創造している……分からないわね」
「そう、イメージは無限だ」
「まあ、私は在る、と思うけどね。私はフェンリルと独立して存在していると」
「なるほど。お前も、“神”とやらを目指しているんだろう?」
「不本意だけれど、そうかもしれないわね。そういう事になるのかも」
レイアは小さく舌打ちする。
神になるか。気持ち悪いし、気味が悪い。
「神を作った神がいるかもしれない。更に、そいつを作った神も。それで、だ。お前は考えるわけだ。神の神の神の神の神の神の神の……を、あるってことじゃあないか? お前が探し求めているのはそれなのかもな?」
「あるいは、世界は無限か有限か、かしら」
だんだん、この男の思考が、彼女の思考の反復へと変わってきている。
それが、得た情報の限界。
それが、ウォーター・ハウスという男を認識して、形作ったレイアのイメージ。
彼は彼であって、彼ではない。
「まあ。その思考はもういい。分かった事がある」
「何だ?」
「ロータスの能力……瞑想とか言ったかしら、おそらくは……」
過去の世界、その帳尻を合わせようと人間は生き続けているのだろうか。
レイアは願う。
世界を形作る環も、絆も、何もかも壊してやりたい。
解放されて、自由になりたい。
それ故の、孤独なのだから。
ただ、独り。自分に触れようとするものの全てを壊す。
それは、きっと今、関係している者達も入る日が来るのだろう。……。
全ての絆に意味は無い。
自分は孤独を望む。
しかし、それは他人の為に背負うわけじゃない。
深い闇が辺り一面の空間に広がっていく。
無感情なまでに。無感動なものとして。
人間は独り、産まれ。独り、死んでいく。
そして、様々な空間、場所、地域の中にある、ふとした瞬間の中に。
孤独に触れる。
それは、確かに実体感を伴って、人は孤独の只中に落ちていく。
何故、人は人と共に生きようとするのだろうか。
レイアには分からない。
余りにも、何処まで行っても、人間は一人一人、孤独の中に幽閉されているというのに。
世界という環の中。
人間が何処までも、堂々巡りだ。
大量の貨幣の生産と大量の死体の生産。
奪う者と、奪われる者。
多く持つ者と。持たない者。
その差異は、何処にあるのだろうか。
全ての孤独を吸った時。
何が視えるのだろうか。分からない。
ただ、分かるのは一つ。
レイアは誰も愛さない。
それだけは確かな。意志。
絆と絆が結んでいる、世界の環。
一切を信じない、という事。
決して。信じ続けない事。
テレビの映像が今、映し出しているもの。
沢山の人間が、小さな牢獄の中に一人、押し込められている。
それぞれ、ガリガリに痩せている。
哀願を乞う者。空ろな眼で天井を見上げる者。檻を握り締めたまま無言でいる者。
年齢もバラバラ。場所もバラバラだ。
ただ、彼らは独り、檻に入れられている。
それぞれ、深い悲しみや怒りを讃えていた。
今にも、死にそうな者も多い。
次に、テレビが映し出したもの。
それは、沢山の腕達だった。
それらの腕達は、一体、何に手を伸ばしているのだろう。分からない。
神なのか。国の支配者なのか。
その腕は何を欲しているのだろうか。
食べ物だろうか、それとも金なのだろうか。それとも愛……?
……くだらない。くだらない。くだらない……。彼女は頭の中で、嘲笑し、罵倒し続ける。人間は、何故、これ程までに同じなのだろうか?
延々と繰り返される、何処までも何処までも。歴史が続く限り。
一面に光が刺し込んでいく。
世界全体の黒雲が渦を巻き、消し飛んでいく。
それは、広がりながら、収束する事を止めはしない。何処までも何処までも世界全体へと広がっていく。あるいは、この渦こそが世界なのか。
気が付けば。
そこは、一面、廃墟だった。
沢山の瓦礫の山が並んでいる。
彼女は歩き出す。
生命は無く、その空ろな幻影ばかりが漂っているかのようだった。
人の生活の名残。人が生きていた残骸。
今や、誰も生きていない世界。
おそらく、この世界には誰も来れない。
何故ならば、此処に来る前に人間は死んでいるからだ。
生きた人間のいない世界。かつて、誰も見なかったであろう世界だ。
人間ではない者である二人が、歩き出す。
微かな、肉の腐る臭いが充満している。
大気は濁り水のように、腐っている。
そこには。
沢山の死体達が置かれていた。
腐っている者。白骨化した者。拷問死した者。様々だ。
「此処は?」
「強制収容所じゃないのか? 色々な国の」
何か、奇妙な形の建物の前まで来た。
それは、建物ではなかった。
山だ。……。
人間の死体で積み上げられた山。
それぞれが、様々な表情で死んでいる。
「ははっ、戦争ってのはすげぇーな。あんなに殺せるんだもんな?」
沢山の骸骨が、瓦礫の山から立ち上がり、這い出してくる。
そいつらは、それぞれシャベルを手に持っていた。
そして、ひたすらに意味も無く。地面に穴を掘り始めた。
ウォーター・ハウスは山の中から、死体の一つを動かす。
その死体の眼は、もう何の希望も灯していなかった。人生、生命の全てに絶望し切った顔をしている。その死体はガリガリに痩せていた。
肉体には幾つもの痣がある。おそらく、何らかの虐待を受け続けたのだろう。
「ははっ、見ろよ? なあ、レイア? 人間は生存していいのか? 俺には分からない。なあ、俺に教えてくれないか?」
「知らないわよ」
萌黄髪の少女は、あくまでも無感動だった。
「こいつの顔、見てみろよ? 少なくとも、こいつは言っているぞ? 人間は絶滅すべきだ。俺のようにってな? なあ、こいつは死んだ後、この世界を赦せたのかな? ほら、こいつ何の希望も無いじゃないか? きっと何年も何年も虐待され続けたんだろうな。捕虜収容所か何かなのかな? こいつの皮膚、疫病にも掛かっているし。頭なんて、何度も、何か鈍器で叩かれたような痕があるぞ? なあ、人間なんて生きていていいのかな?」
ウォーター・ハウスは笑い転げた。
腹を抱えて、笑っていた。
「世界は無慈悲だな?」
「私には関係無いわね」
レイアは面倒臭そうに言った。
雪のようにも見える。
空から大量に何かが降ってきた。
レイアとウォーター・ハウスの周辺を除いて、沢山の雨が降り続ける。
それは、紙幣の雨だった。
沢山の金の束が、様々な国の様々な時代の金の束が、大量に降り注いでいく。やがて、それらは積もり積もって、ビルを積み上げていく。ビルは大量に出来て、一つの国のような形へと変貌していく。
ウォーター・ハウスは笑い続けた。
完全にこの光景を馬鹿にしている。
しかしまあ。
彼の嘲笑には、レイアもある程度、同感だった。
「あんなの全部、死んだ木なのにな? 金なんてほら、只の木の死体に過ぎないだろ?」
彼は、そう言って、哄笑する。
壊れたように、ゲラゲラと笑い続ける。
一通り、笑い終えた後、彼は言った。
「そう、お前は知っている。人間同士の友愛、絆なんてものの正体。それが、アレだもんな? 確かに生きる事に救いはあるかもしれないな? だが、救われない人間も間違いなく存在し続ける。救われない人間ってのは、何だろうな? 救われる人間の為の養分なのかな?」
また、二人は歩き続ける。すると。
沢山の十字架が並んでいた。
それは、沢山の人間に突き刺さった剣だ。
十字架は炎を上げて、燃えていく。
焼け爛れる人間の死体。
皮膚が炭化し、黒い骨と化していく。
その黒い残骸も、ボロボロに崩れていき、墨へと変わっていった。
人間というものの、終焉。
レイアは面倒臭そうに、淡々とそれらの光景を眺めていた。
何処まで行っても、彼女にとっては他人事でしかなかった。
「だから、絆だの友愛だのなんて嫌いなのよ」
レイアは言った。
彼女にとっては、これらの、人類の悲劇の数々は、余りにもどうでもよく、下らない事でしか無かった。余り、興味がある事でも無かった。
きっと、この光景は、それを再確認する作業。
ウォーター・ハウスは頷く。
「さてと。俺は次の場所に向かう」
「次の場所?」
「ああ、他にも俺を見たがっている奴がいるんじゃないのか? 俺を再生させたがっている奴がな」
「そう。ひょっとして?」
「そう、俺はそいつの言葉で。お前に語ったのとは、別の事を言うのだろうな」
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