第四章 レイアは夢を見る。 2
レイアは夢を見る。
それは、鏡の裏側の世界。
今、何処にいるのだろう。
暗闇。
夢の中で起きる、明晰夢か。……?
しばらく、歩き出す。
何処までも廃墟が続いている。
廃墟が広がっている。
月の光がそれらを照らし出している。
それは不気味な程、とても美しかった。彼女の精神世界の中だ。
岩山だ。
そこには一人の男が立っていた。
そいつは、天上から見下ろしているみたいで、とても不快だ。
「貴方は誰だったかしら?」
レイアは誰何する。
「俺か。……」
影は徐々に月光を吸って、形を露にする。
そいつは、刃物みたいな顔の男だった。
全身に包帯を巻いている。
肌を露出させた、漆黒の衣服を纏っている。
「貴方は確か……」
「ウォーター・ハウス。忘れたのかな?」
暴君ウォーター・ハウスは、くっくっ、と笑う。
「死んだ筈じゃなかったかしら?」
「そうだな。俺は死人だ。俺は幽霊としてお前の前に現れている」
「そういう能力だったかしら?」
レイアは淡々とそいつを見上げる。
そいつは、月光に晒されながら、細長い肉体をこきり、こきりとしならせるように、鳴らせた。
「まあ、生前の俺と話した奴に片っ端から呪いを掛けてな。俺の『エリクサー』による毒物の中に、俺の情報を混入させておいたんだ。本当に、小さな微毒を入れた。つまり、俺はお前らの脳内の中に根強く刷り込まれたってわけだ。凄いだろう?」
レイアはふん、と鼻で笑う。
小馬鹿にしている感じ。
「貴方は不死になったの?」
「違う。俺と出会った奴、全員が死ねば、俺の情報は完全に失われる。それに、ところが、俺はやはり死人なんだな。お前らが俺の記憶を勝手に引き出して、勝手に情報を再生させているだけなんだ。情報を付け足したりもしてな。なあ、歴史の書物ってあるだろ。たとえば、聖書。古典文学。つまり、俺はそういうものになったんだな」
「……貴方が出現した条件が在る筈。それは何?」
「そいつが迷った時」
男は断言した。
「俺はつまり、幽霊であると同時に、もう“観念”なんだ。微毒って言っただろ。それは、言葉だ。俺は相手と言葉を交わす事によって、自分の情報を可能な限り、相手に与え続けていた。なあ、俺はもう俺じゃない。俺はいわば、お前なんだ。分かるか? お前が見ていた俺。それが、勝手に再生されているんだよ。夢の中でな。あるいは、想像や回想の中で再生している奴もいるのかもな?」
「なるほど、確かに貴方は分かりやすい対話相手だ。なら、勝手に私の話にも合わせてくれるわよね?」
「ああ、俺はもうお前だからな」
男は自嘲的に言う。
そして、自分の茶色がかった金髪を撫でた。
レイアの腰まで伸ばした、萌黄色の髪が揺れる。
此処は、何処でも無い世界の。鏡の裏側の、更に夢の中。
本当に、在り得ない世界。
在り得ない人間との対話。
「そういう才能があったんだろうな、俺には。会話の内容はくだらないかもしれない。けれども、巧みに相手の心の奥底に俺を根付かせる事が出来た。だから、カリスマ的なものがあったのだろう」
「その言葉も全て。私のイメージの中から拾っているの?」
「そういう事だ」
男は何処か、声音が空ろだ。
「だから、実は、俺はお前のイメージ以上の答えを返せない。あくまで、お前が見ていた俺のイメージとお前の中の意識が結合して、俺をこの世界に出現させているんだ」
なるほど、彼女は心の中で、舌を打つ。
迷った時か。
こいつはふざけた事に、宗教的な何かの神になったつもりらしい。
「まっ、どうだっていいだろ」
「……ロータスをどう思う?」
彼女は率直に答えた。
「お前はどう思うんだ?」
「不快ね」
冷淡に言う。
そこには、敵に感じる畏敬の一切を感じ取れなかった。
「ははっ、お前の相棒も。俺を見て、そう感じていたんだろうな?」
彼は笑い転げる。
「貴方は何だったかしら。何を言っていた?」
「全ては赦される。俺は人を殺す。そこに理由は無い。どうだ、思い出しただろ?」
「……そうだったかしらね」
そういえば、フェンリルが彼の事をかなり愚痴っていた。
彼の能力や強さには余り興味が無かったが、彼の思考、思想には多少、興味があった。
少しずつ、思い出す。
人間は、人間らしさの中に拘束されているだったか。
あるいは、この世界は檻だとか言ったか。
「彼女の能力は何だと思う? 彼女の目的は?」
「さあな。お前はどう推理している? 俺に分かるわけないだろ」
出来損ないが。思わず、心の中で毒づく。
「……ひょっとして、貴方は生前、あの女と何か会話を交わした?」
「知らんな。俺に分かるわけが無いだろ」
「会話を交わした可能性が高い、と考えている。あのアケローンの能力者。彼と貴方は同僚だったのよね。貴方を派遣した可能性が高い、そして貴方は気まぐれで、あの女を殺さなかった。……それを前提で話を進めるわね」
「いいぜ」
くっくっ、と男は笑った。
満月が少しだけ、雲によって翳る。
「私は自分の意志を脅かそうとする者が嫌いだ」
彼女は憎憎しげに言う。
「ほう?」
彼は相槌を打つ。
「そいつにとっては、そいつの思考形式があるのでしょうね。でも、私の意志に触れるな。彼女にはそれが分かっていない。正しいと自分で思い込んでいる。なるほど、それは彼女にとっては正しい。彼女には何らかの苦悩があるのも理解出来る。けれど、私には一切、関係がない。私はこの世界に何の影響も与えたくない。だから、世界も私に何の影響も与えるな」
「ははっ、お前、知っているか」
暴君は笑った。
「俺は意味も無く人を殺す、と自らに課しておきながら。それを完全に実行に移す事は出来なかったんだな。なあ、自らの作った生き方、思想って。全部、その通りに実行出来るもんでもないだろ。お前はそのズレに苦しんでいるんじゃないのか?」
「……参ったものね。自分自身が赦せないわ。おぞましい、気味が悪い」
彼女は首を振る。
「お前はあれだな。そう、たとえば、俺が絶対悪として行動し切れずにいたように。自分の考えと、行動にズレってあるだろ。難しいんだな、本当に」
反復し、再確認するかのように、男は同じ事を繰り返して、言った。
風も無いのに。彼の髪が靡く。
「お前は孤独と孤高を求める。誰も愛さない事を。しかしだ。お前がフェンリルやら誰やらと関わっている時点で、すでにお前はお前にとっての孤独と孤高の思想を行使出来なくなっているんじゃないか? ああ、難題だな?」
まるで、彼は自分自身の影であるかのような事を囁いてくる。
生前の彼ならば、こんな事を言ったのだろうか。どうなのだろう。
そう、こいつはレイアの見ている幻影だ。
だから、レイアはレイア自身の影の形として、こいつは姿を現しているのだ。
「そうね。ロータスなどと関わらない方がいい。フェンリルやらキマイラやらなどとも」
「ああ、その通りだ」
男は頷く。
「だが、ロータスってのは私を侮辱した。赦せない。奴とは戦わなければならない」
「それすらも、お前が興味を持ったから。それは愛とは違うんだろ? お前の中では」
「ええ」
彼女は屹然と言った。
何処に行けばいいのか分からない。
何処に向かえばいいのか。
触れられざる存在として、生きる。
私が私に為る。
愛せない。愛さない。
一人。余りにも、一人だ。
行き着く先は、無限の孤独。
きっと、それは無限の無なのかもしれない。それでもなお、それを求め続ける。
その為に、生きているのだから。
ふと、気付く。
もし、世界を絶対的に形作った神が存在したとするのならば。
そいつこそが、一番の孤独なのだ。
万物を一番上から眺めながら。
無限の孤独を抱え、無限の虚無の中に置かれているのかもしれない。だとするのならば、レイアの望んでいるものとは、神になる事なのか。
……気持ち悪いわね。
嘲笑する。
……神か。神なんていう言葉は気持ち悪い。
それは人間の言葉でしかないからだ。所詮、人間の弱さより生まれた言葉。
ロータス。
「うーん。やはり、あれは、ただのお馬鹿さんなのかしら。それとも、ただ、狂っているだけなのかしらね」
「お馬鹿さんとやらにも色々な種類があるだろ? 何がどうイカれているのかってのも、色々あるだろ。狂気の種類ってのは、分けていく必要がある、そうだろ?」
彼女は頷く。
「愚鈍故に、余りにも中身があるかのように見える。そんな種類の人間だっている、違うか?」
「なるほどね」
「納得のいかない顔だな」
また、彼女は頷く。そして、彼を少し睨んだ。
「いいか、レイア。馬鹿とは、その人間にとって都合の悪い他人、って事でしかない。俺は思うんだが、明晰だとか馬鹿だとかは存在しないんじゃないかとな。問題は、そいつが、どういう規範を持って、行動しているかって事だ」
レイアは眉を顰めた。
確かに彼の言う通りだ。
それにしても、自らが探し求めている世界とは何なのだろうか。
「さて、そろそろ俺は行くぞ」
「随分と、気まぐれなのね」
ふん、と男は溜め息を吐いた。
「まあ、お前が見ていた俺の認識って奴を補完する情報を増やせば、また来るさ。何しろ、俺はお前の思考の一部なんだからな。ウォーター・ハウスっていう男の姿を借りているが、やはり、お前の思考なんだろうよ。じゃあな」
全ては、虚実のように。消えていく。
レイアは、フェンリルの何処でもない部屋に。一人いた。
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対話形式のものを書いてみました。