第三章 紅の闇 4
カイリとクライ・フェイス、そしてアニマとロータスの四人で、トランプで遊んでいた。
いつも、泣き顔の男が強い。
大体はポーカーだ。金は賭けない。
瞑想が終わると、彼女は大抵、こんな風に遊んでいたりする。
本当にみな、気分屋だ。
「2のスリーカード」
泣き顔は言った。
手付きが、また流麗だ。彼は昔、そういった仕事をしていたらしい。カジノで働いてただとか。
一応、ロータスいわく。こういった遊びなども、修行の一環なのだという。
因果律、統計率を調べて、コントロールしていく。
カード・ゲームも瞑想の一種だ。
図柄などを追っていって、自分自身と対話出来る。
そういえば、クラスタでは定期的に修行も行う。
荒行みたいなのは無い。
大体が、一見、遊びに見えるものばかりだ。
しかし、遊ぶ事。実はそれ自体が、かなり困難を極めている者も多くいた。
フラッシュバックに苦しむ者は、まともに他人との対話が出来ない。
戦争やテロを経験した者達は、特に、心的外傷などに苦しんでいる。
だから、普通に生きる事が大切なのだろう。
食べ、飲み、寝て、遊ぶ……。
それが出来ない。
それすらも出来ない。
もう、彼らにとって現実なんて無い。全ては壊れてしまった。
ただ、空ろな命のように、空気に漂うように。
彼らは生きている。
生きていると言えるのか。
…………。
両眼は何も見ていない。
きっと、いつかの戦争や貧困だった時代を思い出しているのだろう。そこから、永遠に抜け出せない。
そう。……。
報われない人生もある。
だから、報われる人生とは存在する。
カイリの大嫌いな世界。何もかもが壊れてしまえばいいと思う。
決して、愛されない人間が存在しているという事。
報われない希望があるという事。
死後の世界は無く、天国も地獄も死後には存在しない。
ただ、現実の世界にのみ存在する。
罪や悪、それらのものが裁かれる事の無い現実。
それが、心の傷となって、此処では露になっている。…………。
此処には、きっとこの世の最後に満ちている。
悲哀、憤怒、歓喜、絶望。
感情がとぐろのように、渦巻いている。
その感情に出口は無い。ただただ、闇ばかりが日々、凝縮されていく。
「そうだ、カイリ。あなたも、私の視ている世界の根源を視る?」
ロータスは無邪気な笑顔を向けた。
カイリは頷く。
すうっ、と彼女はカイリの肩に手を置いた。
彼女の『ヴィア・ドロローサ』が視ている世界。
この世界の闇の一端。…………。
†
濁ったドス黒い、緑色のイメージ。
沢山の廃棄物のような液体の詰まったタンク。
そのイメージの本流が押し寄せてくる。
ロータスの能力、“荊の道”。
彼女が瞑想によって視続ける幻視を、カイリもまた、視ていた。
それは。
さながら。
……。
根源。
人間の持つ根源のイメージに迫ろうとしていた。
ドス黒いヘドロ色の本流。
環境汚染……?
とても言葉では現せない。
怖い夢だった。
カイリは目覚める。
まるで、世界の全てが無くなってしまったかのようだった。
部屋が消えて、自分一人が白い砂漠の中に取り残されたかのような感覚。
斑の中に浮かぶような、緑の夢。
ああ。そうか、これは。
すぐに思い出す。
ロータスの能力が、カイリの中に流れ込んでいるのだ。
夢の続きをまた見たい。それは悪夢なのだが、何処か懐かしかった。何故だか、自分の人生の中でとても大切なのだという事が分かる。
未来が無い。希望が無い。自分はその中で生きていると思う。
ロータスからもアーティからもアニマからも、彼には希望を抱けなかった。何処か、みな、寂しい。
ロータスは教祖なのに、希望の言葉を口にしない。…………。
ただ、世界の真実を告げ続ける。
そこに希望は無い。ただ、真実だけが虚ろに漂い続ける。
アーティはロータスの世界を否定している。笑顔で笑って、頭の中に夢を思い描いている。生きる事には夢が必要なのだろうと思う。夢を失ったカイリはおそらく、もう生きてはいない。ただ、毎日が灰色だ。全てが燃え殻の灰のようだ。
そういう人間ばかりが此処には集まっている。
解答が無い。出口が無い。
生きる事にもう何の希望も抱いていない。
誰にも愛されない、と考える人間も此処には多い。所々、それに共感を抱いてしまう。教祖の愛すらいらないと言う人間も多い。此処はそういう場所なのだ。
全ては無で、全ては無価値。それをどこまでも正しいと思う事。
ロータスの言っている正しさ、おそらくはこの世界には何の希望も無いのだと突き付ける事。もう、この世界は一度、死滅するしかない。
それでも、瞬間、瞬間における。幸福。これは、他人から与えられたものなのだろうか?
カイリはアニマを優しく撫でて。
手を握り締める。
そして思った。
生きていたくないな、と。……。
けれども、死ぬ事さえも無価値に思えて仕方が無い。
食事、睡眠。恋愛。友愛。
労働や芸術。
全てに生きている。
全てに、生きる意味が無いな、と思った。
けれども。強く感じるもの。
大きな母性愛に包まれているという感覚。
そう捉える者もいるのだろうか。
違うのではないか、と思う。
ただただ、死の匂いばかりが漂っている。
此処に陽は昇らない。
みな、心が徐々に腐敗していっているのだと思う。
何とかしなければならない。
どんなに此処で、真理と対話しても。
此処の住民は、この世界から疎外されているのだ。
みな、漂流者だ。
元の世界には戻れない。行くべき場所も無い。
クラスタに、留まるしかない。
いつも思うのだが、目覚めて部屋の外に出る為にドアを開ける。
底無しの暗黒が、目の前に広がっているのではないかという想像を掻き立てられる。
足元は暗い闇しかない谷底だ。
しばらくして、現実に戻り、地面に足が付いている事を理解する。
浮遊感はまだ残るが。確かに此処にいるんだ、という感覚に戻れる。
空を飛んで、何処かへと向かう事が出来れば、どれ程、いいのだろう。
…………。
生きる事は闘争ならば。
少なくとも、カイリは闘争を望んでいない。
ただただ、深海へと沈んでいくような怠惰な生を生き続けている。
未来なんて何も無い。
むしろ、未来の希望を信じる事を徹底して否定している。
思うのだ。
自分の能力『ファイヤー・ブリンガー』とは一体、何が出来るのだろう。
ロータスにとって、クラスタにとって、何が出来るのだろう。
そんな事を考えたりする。
炎。
炎のイメージ。
ごうごうと燃え盛る。
意識の奥底に封じ込められた。多重の意味。
生命とは炎に似ている。
体温。命のゆらめき。
螺旋を描くように続いていく人類の歴史。
燃え盛る炎。渦巻きのよう。
それが、肉体の中から、発せられているかのようだ。
内部のエネルギー。生命があるという事。自分の心臓の鼓動。
変わっていく炎の形状そのものが。
様々な命の形に模している。
少しずつ、歪みながら。
生々しい生を上げていくようだった。
ああ、これが、炎を齎すという事なのだろうか。
カイリは自分自身の内なる力と対話する。
自分に、何か出来ないだろうか。ロータスの為に。
あるいは、沢山の同胞達の為に。
彼らに、未来は無い。過去さえも、否定している。
どこにも、生きる拠り所が無い。
空虚さしかないカイリの中にあるもの。確かなもの。
それは、きっと、単純なもの。……仲間を大切にしたい、と思う気持ち。……。
そんな事に気付いて、泣きそうになる。
カイリは優しいよね、とアニマは言う。
ロータスも、よく彼の頭を撫でる。
何だかなあ、と気恥ずかしく思う。
アーティに会いに行こうと思った。
ロータスの顔と思念を視る度に、彼はアーティの下に行きたくなる。
一体、何が正しいか分からないからこそ、自分の中で“間違っている”と思う相手に会いに行く。
†
レイアは指先から荊の蔓を生み出して、周囲に魔方陣のように張り巡らせていた。
蔓が伸びていって、一定の箇所にまで辿り着くと、生長が止まり、蔓が捻じ曲がっていく。
既に、クラスタに張り巡らされていた異空間は攻略していた。
一日近く掛かったが、キマイラは空気の質で。フェンリルは空間の微細な変化で、敵の攻撃の範囲を読み取るに至っていた。
ロータスとアーティのいる場所も大体、調べている。
始末しなければならない、二人。
ケルベロスはヴリトラと込み入った話を続けていた。
やはり、彼は駄目だろう。それが三人の結論だった。
彼はひょっとすると、この仕事に向いていない。
向いていないからこそ、優秀という面があったのだろう。だが、逆もまた然り、だ。
この敵は必ず殺さなければならない、何となく三人の間で結論が出ていた。
まず、レイアがロータスの下へと潜入して、様子見を行うという計画になった。
そして、殺せそうだったら、そのまま殺すと、レイアは言った。
彼女の相貌は冷淡だ。
何の感情も灯っていない。
殺人に対する、何の感慨も無い。
フェンリルは彼女の無感情さを知っている。
おそらく、きっと、彼女は悪の側なのではないか。少なくとも、彼はそう思っている。
おそらく、メンバーの中で、一番、人殺しを何とも思っていない。
おそらく、羊角の彼女よりも。ずっと。
「キマイラ。お前一人に任せていいのか?」
「ええ。私一人なら、全員、殺せる」
彼女は指先を軽く、指揮棒のように回す。
それは躊躇なく、殺せる、という事だろう。
それは、フェンリルには絶対に出来ない事だ。その点はかなり、彼女に期待していいだろう。
ロータスとアーティの二人を始末すれば、後は有象無象で、柱を破壊された建造物のように、勝手に倒壊していくだろうと踏んでいた。
レイアとキマイラ。
彼女達二人は、殺す事に何の迷いも無い。
躊躇も一切、無いだろう。
強いて上げるならば。
レイアにしろキマイラにしろ、殺す時に、別の感情で殺意にブレが出る事。
キマイラはきっと、僅かながらも、甘い部分が何処かあるだろうし。
レイアは面倒臭いと思っている部分がある。
しかし、二人は殺すと言ったら、必ず殺しに行く。
そこに、何の罪の意識も無い。
その辺りは、ドーンやドーンが狙っている平均的な賞金首の思考と同じだった。
何故、あれ程、殺す事に躊躇が無いのか、彼には理解出来ない。
しかも、殺せる人間に限って、ある種の爽やかささえ感じる。
逆に、彼はいつも、ドロッとしたような、情念に支配されていた。
フェンリルは少し、迷っている。
萌黄髪の少女と、羊角の女。
そう、殺すのは、この二人なのだ。
結局、彼は手を下さない。
悪夢を見ない。
両手が赤く汚れていないという事。
けれども、きっとドス黒く汚れてはいる。
膨れ上がった殺意が誰にも届かない。
だから、余計に自己嫌悪に襲われる。
何かを壊さなければならないし、誰かを殺さなければならない。
その使命を一度として果たしてはいない。
覚悟の問題なのだろう。
自分が一番、邪悪なのではないか、と思う時がある。
何処までも、他人の死を冷ややかに見ている。
そういえば、色々な人間の死と立ち会ってきた。
彼らは様々な意志の下、死んでいったっけ。
…………。
フェンリルは、自分自身を我侭で自己中だと認識している。
むしろ、それは世界やら他人に対する敵対心そのもので。
世界に対する断絶なのだと思っている。
たとえば、だ。
真っ青な空と、実り豊かな自然。それらは美しい、美しいけれども、何処か空虚に満ちている。
他人に対する憎悪がきっと根底にはあるのだろう。
ただ、分かる事は迷いが無い、という事だけ。
一体、何の為に生きているのか分からないが、それでも他人の価値観に押し潰されたくない、きっとそれは迷いが無いという事。
その事、自体には一切の迷いは無い。
ただ、気になった事。
教団の奴ら。
正直、彼はカルトが好きじゃない。
何かに依存しなければ生きていけない。その依存対象が世界と断絶した集落なのだという事。
しかし、どういう風に嫌いかと問われると難しい。
たとえば、レイアならば何かに依存していない人間は実質いないし、存在出来ないと言うだろう。
そして、それでもなお。その環の中から抜け出そうとするのが、彼女なのだが。……。
……ケルベロスはお人好しだった。オレは彼のそんな部分が甘いと思う。……腹が立つ。オレはお人好しにも冷酷にもなれない。ヴリトラに感情移入し過ぎだ。彼は甘過ぎる。けれどもオレはレイアやキマイラのように割り切れない。いつもオレは優柔不断……違うな。他人事だ。
彼は立ち止まる。
レイアとキマイラの二人から、少し距離を置いて、考え込んだ。
「さてと。あの辺りにいるんじゃないかしら?」
レイアは遠くのビルを指差す。
キマイラは頷いていた。
「迂回の仕方を見て、考察していたんだけれど。どうやら、ロータスとやらのいる場所に、なるべく近付けないように、能力が張り巡らされているみたいね。だとすると、あの遠くにあるビル。あの辺りにいるのが正しいんじゃないかしら?」
レイアとキマイラ。二人の見解は一致する。
フェンリルは、そんな彼女達のやり取りを見ながら、ある種の結論に辿り着いた。
……そもそも、オレ達は悪の側なのだろうな。
彼はそんな事を思っている。
三人共、何かを守る為の戦いなんかじゃない。
ヴリトラを見て分かった。
彼は、大切な人間達を守る為に戦いたいと思っている。
ケルベロスもだろう。けれども。
自分と、レイアやキマイラは、誰かの為に戦っていない。
悪の側でしかないのだ。…………。
それでも、少なくとも、レイアとキマイラは揺るがない。
自身もまた、いつも通りに動くつもりでいる。
ただ。……。
……クラスタの者達と、少し、話してみてもいいかもしれないな。
そんな事を、少し、思った。
…………。
「あら。貴方、良い処にいるわね」
レイアは住民の一人を捕まえる。
そして、キマイラから借りた拳銃を持たせる。
そして、彼女は住民に命令する。
ひ弱そうな肉体の男だった。
「ねえ、この拳銃。あのビルの、あの辺りに撃ってくれない?」
レイアは有無を言わせない。
男は、言われた通りにする。
銃口からの、弾丸の発射。
弾丸の中には、エタン・ローズの薔薇の蔓が撒き付いている。
レイアは男に、『エクスターズ・ワールド』という存在と存在を近付ける能力を使っていた。レイアの肉体は、浮上する。
撃ち込んだ弾丸と、自身の速度が同一線上になる。
レイアは。
瞬く間に、遠くのビルへと飛び移っていた。
おそらく。あの辺りに、ロータスがいる。
†
一つ、他人を愛せない者は幸福になる資格が無い。
一つ、夢無き理想に意味は無い。生の意味は理想を持つ事。
一つ、労働する事。それは神への奉仕を意味する。
一つ、信じ続ける事。神は貴方に与えてくれる。
一つ、不幸は何よりの試練。人生は報われる。
一つ、私達は神の意志により生れ落ちた生命。愛されるべき者。
…………。
…………。
アーティがよく口にする信条。
大体、こんな処だ。
カイリはアーティの下へと向かっていた。
苦手だが。
それでも、彼の信じるものと相対化する為に、苦手なものの言葉も聞きに行く。
カイリは彼から言われている。あなたの世界に神は訪れない、と。彼には神は見開かれていない。
流転していく世界。一つ一つ、生命の一つ一つ、物質の一つ一つに命は宿っているという。それらを愛する事、信じ続ける事によって。神は訪れるのだと。一つ一つは歴史の積み重ねなのだと、命と命の伝達なのだと。
カイリの能力。灰を操る力。
それはおそらく、誕生を意味している。
間違いなく、何かを創造出来る力なのだ。
きっと、自分の中には沢山の力が眠っている。それは確信だった。
しかし、巧く力を使いこなせていない。
醜いものは、全て間違った解答でしかない。いつか捨てていく為の試練でしかないのだと、アーティは言う。停滞からは何も生まないのだと。
どれだけ傲慢なのだ、と思ってしまう。
それと同時に、おそらく、彼の言っている事によって多くの人間は生きていて、幸福を手に入れられる一つの道なのだろうという事を。……認めざるを得ない。
たとえば、クラスタ。
クラスタというビルの群生にだって、歴史はある。
作ってきた者達の想いがある。
しかしだ。
それが何になるのだろうか。
穏やかな風が、吹き抜けていた。
空は青空。何処までも広く澄んでいる。
カイリは、空を見て重た過ぎる感情を浮かび上がらせる。
空は何処までも広い。この地上、大地よりも。
だからこそ、カイリは空を信じたい。
アーティ。
彼は自分達が植えた植物の中に佇んでいた。
それはまるで、聳え立つ城のようだった。
何年もかけて、築き上げたものだ。
彼の汗と血の結晶。
此処は、教団なのだろうか。分からない。
アーティも特に、修行などをその信奉者達に求めない。
ただ、彼は話すだけだ。語りかけるだけ。
カイリは典型的な鬱気質だった。たまに一日中、気分が重くて立てずに、部屋の中で横になっている時もある。
そういう時は、適度な運動をした方がいいのだが、どうにも身体が動かない。
そんな時は、何とか数十分くらい粘って、肉体を起き上がらせる。
最初にこの男に不快な印象を受けたのは、この事だ。
鬱に苦しむカイリ。そんなカイリの様子を見て、この男、アーティは鼻で笑っていた。
きっかけはそれ。
今でも彼が、大嫌いだ。
アーティは相変わらず、カイリを見下すような、憐れむような眼で見ていた。
「光を見ないからですよ。夢を見ないからです。愛はそこに生まれます。カイリさん、どうでしょう? あなたの生き方もいいかもしれない。でも、前を向いてもいいんじゃないですか?」
アーティは植物に水をやりながら言った。
彼は心から笑っている。
それを羨ましいとは思えない。
カイリはひたすら、彼の言っている事を否定し続けていた。
それこそ、一言一句、全否定するような感じだった。
大嫌いなのだろう。
憎しみが、ふつふつと湧き上がってくる。話せば、話す程、気分が悪くなっていく。
「ロータスさまは、ご病気なんですよ。でも、あなたは戻れる。違いますか?」
「違います。俺は病気だっていい。でも、俺が病気なら、世界の方がもっと病気だ」
二人共、お互いを険のある眼で見据える。
おそらく、どちらもきっと正しい。
正しいけれど、それは矛盾する事なく、徹底的に間違っている。
その間違いを認める程、アーティは感受性が高くない。そう思っている。
どちらも、一歩も譲らない。
どちらも、お互いを決して、認めない。
…………。
アーティは草木や花を育てる為の本を、熱心に読んでいた。
「次はこの花を植えたいなって」
彼は頭を掻く。
「君は思想を持っているだろ?」
「わたしに思想なんてありませんよ、ただ、みんな幸せに生きればいいと思っている」
彼は屹然とした言葉を紡いでいく。
「善いと思うものを見ていればいいと思うんです。人間が受け止められるものはそれだけじゃないかなって。邪悪なものを見続けるのは、人間には無理なんじゃないかって思いますよ。それはもう、神様の領域なんじゃないかって。わたしは別にすごい事をしたいんじゃなくて。みんな幸せになって欲しい。強く生きて欲しい。それだけです」
ロータスにしろ彼にしろ凄いのは。
修行や洗脳やらを一切使わずに、触れ合いだけでたくさんの信者を集められる処だ。
いわば、思想、によって人間を集めているのだと言える。
魅力的な言葉を言えるし。
行動にも移しているのだろう。
それが、彼らだ。
「みんなで創造しましょう? 破壊も虚無も何も生んでいない。生きる希望も未来も。愛も救済も。何も創り出していないでしょう? クラスタをずっと見てきたわたしだから言えるんです」
「俺達は何も創りだしていない、か……」
確かにそうかもしれない。いや、きっとその通りなのだろう。
しかし、だ。
セルキーの絵画。
アニマの水彩画。
蓮の側にだって、創造者はいる。
真実を刻み込む事。
少なくとも、それだけは虚無ではない。
まるで、灰のような燃え殻のカスでしかない、カイリ。
彼の人生は確かに、虚無で塗られているのかもしれない。
けれども、他の者達は違う。
意味があるのだと思う、彼らの生には。
変われない、という事。
「代償が大き過ぎると思います。ロータスさまの人達は、自殺者も多い。苦しむ必要は無いです。苦しむなら喜びで。労働で手にする汗で。友情や愛情への探求で苦しむ事だと。その為なら、わたしはどんな宗教だって作り上げるし。認めるべきだと思います」
屹然とした口調で、彼は言う。
彼には迷いが無い。
だからこそ、やっかいだ。
「自殺は生きた意味だ。なあ、アーティ。君に自殺者を侮辱する事が赦されるのか?」
「侮辱なんてしてません。……惜しいと思っただけです。生きていれば、生きてさえいれば。どんな可能性だって在り得たのに」
彼は歯噛みした。
「そう。たとえば、此処に植えている野菜や果物。穀物。彼らは二度とそれらを口にする事なんて無い。死を過ぎった時は、生きる試練なんです。耐えなければならない時間。未来はある。わたしは、此処で植物を植え続けました。最初は失敗した。風で薙ぎ倒された事もある。土地が汚染されていて、一切、芽が出ない事に気付いていなかった事もある。僕だって、苦しかった。石ころを払い除ける作業。雑草ばかりが生えてくる。けれども、その経過さえも、楽しいと思った瞬間に、僕は分かったんだ。これが生きる事だろう、って」
何か言い返してやろうとして、口ごもった。
「生きている事か。それを感じ取れない人間だっている。違うか?」
「感じ取るまで、頑張ればいいでしょう? 誰だって苦しい時間を乗り越える必要がある」
ロータスとアーティの間には、深い断裂が存在する。
ひょっとすると、ロータスとカイリの間にも。
その断裂は決して、埋まる事が無いのだろう。
価値観の違い、といってしまえばそれだけで終わってしまうのだが。
しかし、それはもうどうしようもないくらいの決別で。
もう、どうしようもないくらいに、この世界で生きられる人間は、彼のような思考形式の下、生きていたりする。
「それでも、俺は俺達は俺達の真実を求めているんだ。探している。お前の信じている真実じゃあない。俺は俺の正しい事を信じている。探している。お前の言葉は俺には届かない、って事だ」
アーティは悲しそうな顔をする。
それはまるで、間違った子供を何とかして教え諭したい、といったような表情。
彼は、自分の思想、生き方を信じている。信じ切っている。
実際、所謂、正しいとされてきた考えの一端を担っているからこそ、困る。
彼は、いつもポジティブだった。
彼は種を植え続ける。それはみなの希望になる、と言う。
カイリはそこで悩む。
一体、何が正しいのだろう、と。
「なあ、アーティ。君はこの世界は狂っているとは思わないのか?」
「思ったとしても、どうにもならないと思います。だから、創らないといけない。それは、あなたの言う、本当の真実ではないのかもしれない。けれども、そんなもの、必要無いと思います。人間が生きていく上では。大いなる神なるものが、存在していると思う。僕達は、神様以上の事は考えるべきじゃなくて、人間の領分の中で、必死に生きるべきなんじゃないかって」
二人の意見の一切は、一致しない。
二人共、強い意志を持ってそれぞれの信じるべきものを信じている。
アーティは夢。
カイリは虚無。
お互いにどちらの言葉も、相手側に通じないし、響かない。届きはしない。
アーティの信者達。
みなで作った野菜や穀物を料理して、分け合って食べている。
豚や牛も作っている。
彼らは労働に意味を見出している。
肉体を動かし、自分の身体で自分の食物を作り出す。
まるで、自分で自分を生成しているような感覚なのだ、と聞いた。
きっと、彼らは自由なのだろう。
カイリ達みたいに、精神の牢獄の中には生きてはいない。
けれどもだ。
カイリは決意している。
彼らとは、決別しているのだ、と。
彼らは、彼らで生きていればいい。
決して、ロータス側の人間と相容れるべきではない。
畑の外を眺めた。
簡易的な工場が作られている。
此処で、布や電化製品なども精製していると聞く。
アーティの側の者達は、クリエイティブな事が好きなのだ。
汗の中に、生きる意味があると信じている。だから、みな、労働者だ。
緑と工場。
自然の人工物。
両方との調和を彼は言う。
…………。普通に考えて、彼らは素晴らしく生きているのだろう。
きっと、普通に人から尊敬されるような生き方をしている。けれどもだ。
カイリは決意している。そんなものの、一切を信じないと。
荊の道を歩き続ける、ロータス。
カイリもまた、闇と空虚の道を望む。
そこに、何の迷いも無い。
自分自身の正しいと思う道。
それは、決して他人から認められるような、正しさ何かじゃない。
だからこそ、目指す意味があるし、生きる意味があるのだ。
†
グロウはアーティの片腕とも呼べる存在だった。
彼は神を信じている。
大いなる神がいるのだと考えている。
思うのだが。
神とは一体、何なのだろうか。
訊ねた事がある。
すると、大地と答えられた。
……よく分からないと返した。
すると、グロウは地面に指を指した。
自分達はみんな、大地によって支えられている、それが神だ、と。
だから、いつも彼はどこか幸福そうだった。
たまに、大地と一体化したような感覚に襲われるのだという。
世界に真実があって、真実の為に人は生きているのだと。
グロウも含めて、アーティの周辺の者達は、宗教を信じている者が多い。
自分のイメージを広げていって、神なるものがいるのだと言う人間も多い。
正直、薄気味悪いとさえ、感じている。
見ない事によって、幸福を手に入れる。
あるいは、存在しない者を創り出す事によって、幸福を手に入れる。
……正直、理解が出来ない。
カイリは、このグロウという男を見ていると、どこかムカムカと敵意が湧いてくる。
幸せそうで。自分は正しいのだと信じ込んでいる。
彼を見ていると、何で、こんな風に存在しないものを信じられるのだろうと思う。
在り得ない神秘体験を語ってくる。
大地と話す事が出来た、など。
こいつは頭がおかしいと思っている。
本当に、見たいものしか見ていない。
ひょっとすると、アーティの能力の悪影響でもあるのかもしれない。
しかし、逆にそういう人間だからこそ、幸せなのかもしれない。
幸せを感じる瞬間、それが全力で走った後に訪れる開放感のような感覚だという。
幸せになる資格。
きっと、自分はそんなものを求めてなんていない。
こいつにはあるのだろうか。きっとあるのだろう。
愛や希望などの言葉を口にする度に、酷い陶酔感を感じる。
他人に言っているというよりも、自分自身に言い聞かせているかのような。
グロウは言う。
いつか、世界中の人間に向けて、メッセージを発したいのだと。
この世界には希望しかないし、希望を信じ続ければ、みな幸福になれるのだと。
「だからさあ、俺達は神様の庇護下にあるんだよ」
グロウはでかい図体で、馬鹿みたいな声で言う。
カイリはこの男も大嫌いだ。吐き気がする。
「へえ、神様ってのは何だよ?」
思わず、そんな事を訊ねてしまう。
グロウはいつものように、同じような事を言った。