CHAPTER-48
郡崎水琴が教室に入る、すると、彼女のクラスメートの男の子が間髪入れずに叫ぶ。
“あっ、化け物だ! おい皆、化け物郡崎が来たぞ!”
途端、子供達が騒ぎ始める。
うじうじ女、なめくじ女、粗大ゴミ。そんな悪口が浴びるように飛んでくる中、水琴は自分の足元を見つめながら席に向かう。
虐め。そう、正しくそれは虐めだった。
いつから自分が虐められるようになったのか、水琴は覚えてない。けれど、何故自分が虐められるのかは、当時の小学生だった水琴には想像が付いていた。
水琴の母は日本人だったが、父はイタリア人、つまり水琴は日伊ハーフで、他の子供達とは少し違う顔立ちをしていたのだ。初めは奇異的な眼差しを向けられるに過ぎなかったが、それがいつしか虐めに発展したのだろう。
ノートに『死ね』と書かれたり、水をかけられたり、筆箱に虫の死骸を入れられたり――多種多様な嫌がらせをされていた。
――そして、ついに耐え難い出来事が起こった。
幼くして母を亡くした水琴、つまり彼女の唯一の肉親だった父がくれた髪飾りを、男の子が奪って高い位置の木の枝に引っ掛けてしまったのだ。
笑いながら去っていく男の子達を背に、水琴は必死になって髪飾りを取ろうとする。けれど、背伸びしても、ジャンプしても、木を揺すっても、どうにもならなかった。
その場を離れる事も出来なかった。自分が居ない間に髪飾りが失くなってしまう、水琴にはその不安があったから。
惨めで、無力で、悲しくて悔しくて、水琴はその場で泣きじゃくる事しか出来なかった。
そんな時――彼が、裕介が現れた。
彼は他の子供達と違って水琴を嫌ったり、虐めたりする事も無く、水琴の為に危険を冒して木によじ登り、髪飾りを回収してくれたのだ。突然現れた見ず知らずの男の子が、化け物と呼ばれた自分に優しくしてくれた。その事実が水琴は嬉しくて嬉しくて、涙が出そうになった。
そして裕介とは打ち解けて友達になり、彼と共に笑い合っていると、いつしか水琴から陰気な雰囲気は薄れていき、明るい女の子に変わっていた。自分に嫌がらせをする男の子にもやり返せるようになり、次第に虐めも無くなっていたのだ。
自分を救ってくれた男の子、自分を変えてくれた男の子。父と同じくらいの恩を受けた、大切な人。
そして、今水琴はその彼に、裕介に銃を向けている。凄まじい殺意を、大切だった筈の少年に向けている。
――どうして?
答えは、明確だった。いきさつがどうであれ、彼は水琴の父を殺した。
母の居ない水琴にとって唯一の家族だった父を、幼い水琴にありったけの愛情を注いでくれた父を、彼は奪った。
そして、それから水琴は完全に独りになった。両親を亡くした水琴は施設に送られ、耐え難い寂しさ、孤独感、絶望感に苛まれながら時を過ごしたのだ。
(あなたの所為で……あなたの所為で!)
銃口の先には、自身を地獄に突き落とした少年の頭がある。
発砲すれば、全て終わりだった。父の復讐も、自分の憎しみも、全て。
そして、水琴は引き金を――。
(っ……)
引けなかった。
指が、凍り付いたかのように動かない。
(どうして……!?)
裕介を撃てば、彼を殺せば自分を苛む全てから解放される筈だった。父の復讐も、苦しみ続けたこの数年間にも、終止符が打たれる筈だった。
それなのに何故、引き金を引けないのか。
困惑する水琴。やがて彼女は、銃を握る自分の手が震えている事に気付く。そして、視界が潤んでいる事にも。
涙が、水琴の瞳を満たしていたのだ。
「あ……!」
無意識に出した声は、涙声だった。
手の震えが大きくなる。目の奥が熱くなり、決壊したかのように溢れ出る涙が、水琴の頬を伝う。
――こんな事、望んでない。
水琴の中で、誰かが言う。
――わたしは、裕介君への復讐なんて……望んでない。
それが他ならぬ水琴自身の声である事に気付くのに、さほどの時は要しなかった。
けれど、直後に正反対の言葉が頭に浮かぶ。
――殺せ。彼への復讐の為だけに、わたしは生きてきた筈だ。
瞬間、水琴の中に裕介への憎しみが込み上げ、引き金を引こうとする。けれど、直後に今度はまた、それを制する声が。
――やめて、裕介君は何も悪くない。わたしは、ただ……。
裕介の殺害を促す言葉と、それを制する言葉。
殺せ、やめて、殺せ、やめて、殺せ、やめて……まるで、これが自分の本当の答えだと主張するように、水琴の頭に交互に浮かび上がる。
途端、相反する感情の狭間で揺れる水琴を、凄まじい頭痛が襲った。
「うぐっ、あああああああああああっ……!」
両手で頭を抱え、水琴はその場に膝を崩す。その右手から銃が滑り落ちた。
喉が裂けるような叫び声を上げる水琴、彼女の側で裕介は依然として気を失い、倒れている。
先程の光景が、水琴の脳裏に浮かぶ。水琴が首を絞めている間、抵抗もせず、ただ必死に彼女へ呼び掛け続けた裕介の姿だ。
「何をしている水琴、早くそのガキを殺せ!」
痺れを切らしたかのように、バルツァーが言った。その間にも水琴は、苦悶の表情を浮かべて迷っている。
「わたし、は……」
目の前でうつ伏せになっている裕介を、水琴は見つめる。
“ジーノとの……父さんとの思い出は、そんな奴に踏み躙られちまう程度の物だったのかよ? 今のお前の姿を見て、ぐっ……ジーノが喜ぶと思うか?”
先程の裕介の言葉が、鮮明に蘇る。
「わたしは……」
次第に頭痛が治まり始める。同時に、水琴の表情から苦悶の色が消えていく。
「殺れと言っている!」
再びバルツァーが命じてくる。
平静を装いつつも、その内側には焦燥感のような感情が滲んでいるように思えた。
少しの間水琴は答えず、裕介の頭を見つめていた。そして、涙が溢れ出ている瞳を閉じる。
「わたしには……出来ません」
涙と共に出した結論。その時にはもう、水琴の中には裕介への恨みも、そして憎しみも存在しなかった。
代わりに、彼女を支配していたのは罪悪感。裕介をこんなにも傷付けてしまったという事への、絶望に近い気持ちだ。
「裕介君への復讐なんて、パパは望んでない……わたしだって、こんな事……こんな、酷い事……!」
水琴の瞳から溢れる涙が、工場の床に落ちていく。
もう、何もかも終わりだった。裕介を傷つけ、そして彼に数々の暴言を吐いた事。それらはもう何をしても取り消せない物で、水琴は自分の身に一生消えない罪が負わされたのを感じていた。
「裏切るという事か?」
バルツァーの質問に、水琴は答えなかった。彼女はその身を震わせつつ、涙を流すのみ。
「……これまでのようだな」
数秒が過ぎた頃、バルツァーが言う。
「え……」
水琴は振り返る。その瞬間、凄まじい衝撃が戦闘スーツ越しに、彼女の腹部を突き抜けた。
「っ!」
痛みと苦しみに、声を出す事も出来ない。後方に飛ばされた水琴、その背中が壁に打ち付けられ、更なる苦しみの元となる。
細い体を折り曲げ、苦痛に苛まれながら、水琴は前方を見やる。するとバルツァーが片足で立っており、ようやく水琴は先程何が起こったのかを理解出来た。
水琴はバルツァーによって、蹴り飛ばされたのだ。
「命令に従えない欠陥品など、必要ない」
そう言い放つと同時に、バルツァーが先程水琴が落とした拳銃を拾い上げる。
男は躊躇う様子も見せずに、その銃口を少女に向けた。
「な……何を……!?」
声を絞り出す水琴。彼女の先で、バルツァーが握る銃が冷たく光る。
「水琴、所詮お前は出来損ないの失敗作だった訳だ。もう用は無い」
「……!」
バルツァーの言葉が何を意味するのか、水琴には考える必要も無かった。男の宣告に、水琴はただ戦慄する事しか出来ない。
その時、水琴によって気絶させられ、うつ伏せに倒れている裕介の指先が微かに動く。けれど、水琴にはそんな事に気付く余裕は無かった。




