CHAPTER-46
正しい事と、間違っている事。それらを明確に定義付ける事など、恐らく誰にも不可能だ。
何故なら、それらは状況に応じて著しく変動するから。普段ならば大半が『間違い』と認識するであろう事も、場合によっては『正しい』と解釈してしまう事も出来る。
だから、あの時――裕介は苦悩した。自らの命を捧げて多くの人々を救おうとしているジーノを目の前に、銃を握る手を震わせ、その瞳から涙を流しながら。
引き金を引けば、多くの命を救える。だが、父親同然に慕っているジーノを殺してしまう。
引き金を引かなければ、ジーノを傷付けずに済む。しかしIMWが街に放たれ、多くの一般市民に危害が及ぶ。
突如、自身の小さな肩にのし掛かった究極の選択に、裕介はどうしたら良いのか分からなかった。けれどそこに彼を救う者は居なく、裕介自身が決断する以外に道は無かったのだ。
「だから、オレは……!」
「嘘言わないでよっ!」
裕介の言葉は、悲しみと怒りが綯い交ぜになった叫びに遮られた。
「悩みなんて……悩みなんてしなかったんでしょ、あなたは何の迷いも葛藤も無くパパを撃ったんでしょ! 本当の事を言ってよっ!」
その身を地面に着けたまま、裕介は困惑した。
水琴に言った事は全て本当で、裕介は一片の嘘も吐いていない。何故、水琴はそのような結論に至ったのだろう。
理由を尋ねる前に、何度目かも分からない蹴りが裕介の脇腹を突き上げる。
「ッ! っ……」
声も出せず、それまでうつ伏せの体制だった裕介の体が仰向けになる。
「そうでもなきゃ……そうでもなきゃ、RRCAエージェントを続けていられる訳が無いじゃない、本当にパパを殺した事を悔いているなら……のうのうとグレードSの座になんて着ける筈が無いじゃない!」
血を吐くように言葉を投げ付けてくる水琴。なるほど、と裕介は思った。
痛みに苛まれる中、裕介は水琴の思考回路を理解した。確かに、それならば十分にありうる。彼女が裕介の心情に関してそのように解釈する事も、可能だ。
彼女は、叫び続ける。
「裕介君にとっては……あなたにとっては、『単なる仕事仲間』程度の関係だったかもしれない、それと引き換えに街を救えって言われたら、躊躇なく命を奪えるような間柄に過ぎなかったかもしれない!」
「……」
裕介は、呆然とした面持ちで天井を見上げる事しか出来ない。
「でも……でも、わたしには違ったの! 唯一の家族だった、世界に1人しか居ない、大切なパパだったの! それなのに……それなのに!」
水琴の足の裏が、裕介の腹部を踏み付ける。
◇ ◇ ◇
「増援を呼ばないと……!」
「待って下さい、メイ先輩!」
携帯を取り出したメイシーを、玲奈は制した。
「だけど玲奈、このままだと裕介君が……!」
第23オペレーティングルームにて、玲奈とメイシーは裕介と水琴のやり取りを見守っている。
裕介が危機的状況に陥っている、そう判断したメイシーの提案は至極正しい物で、本来反論の余地は無かった。
「裕介を、彼を信じてくれませんか」
玲奈は、イヤークリップヘッドセットを通じて水琴の言葉を全て聞いている。だから、裕介と彼女の間にどのような因縁があったのかも理解していた。
祈るような面持ちで、玲奈は続ける。
「群崎さんには……彼女にはきっと、裕介しか居ないんだと思います」
モニター越しで水琴の様子を見ただけでも、玲奈には分かった。
彼女は、ただ憎しみの対象として裕介を見ている訳ではない。そこには何か、違う感情が渦巻いている。
(彼女、もしかして……)
根拠など無いのだが、玲奈には水琴が裕介に『救い』を求めているようにも見えるのだ。水琴が裕介に発する憎しみに満ちた言葉の数々、その裏に『助けて』という心の叫びが垣間見えている気がしてならないのである。
「どうして、分かるの?」
メイシーからの質問に、玲奈は物憂げな面持ちを浮かべて答えた。
「私にも居ましたから。とても大きな恩を受けたのに、気付いた時にはもう遅かった……そんな人が」
◇ ◇ ◇
苦い液体が込み上げる。意識を失いそうになる中、裕介は疑問に思った。
水琴にとって裕介は、大切な人を奪い去った憎むべき相手。何年も恨み続けてきた相手を完全に追い詰め、今彼女は待望の復讐を果たしている最中の筈だ。
――それなのにどうして、彼女の頬には涙が伝っているのだろう。
「……父親、だったよ」
「何? 聞こえない」
声を出すだけで一苦労、こんな体験をするとは夢にも思わなかった。
「オレにとっても、ジーノは父親だったよ」
呟くようにしか、言葉を発せなかった。
「まだ、そんな言い訳するの」
「……オレの本当の父親はさ、どうしようもねえ奴だった。小さかったオレと、オレより5歳下の妹を置いて、どこかに消えちまってさ」
語りながら、裕介は疑問に思った。何故、自分はこんな話をしているのだろう。
「一時期さ、オレと妹は父親の所為で周りのガキ共からすげー嫌がらせされてたんだ。悪口言われたり、ボコられたりしてさ」
水琴は、何も言わなかった。
「……オレさ、すげえ泣きたかったよ。嫌がらせ以上に、実の父親の所為でこんな目に遭ってるって事の方が悲しかった」
廃工場の天井を見上げながら、裕介は続ける。
「けどオレは泣けなかった。だってそうだろ? 父親は居ないし、女手一つで育ててくれてる母さんには、余計な気を遣わせたくなかった。妹がすげえ泣いてんのにオレまで泣いちまったら……負けちまったら、もう終わりじゃねえか」
あの頃の事を思い出すと、裕介は今でも辛くなる。必死に気張って、涙を堪えて、泣きじゃくる妹を慰めていた。
妹が自分にそうしたように、裕介も誰かにすがって泣きたかった。けれど父親は居ないし、母親には相談出来ない。裕介には妹と違って、悲しみをぶちまける相手が居なかった。彼はいつも慰める側で、彼を慰めてくれる人は居なかったのだ。
だから彼は、泣かなかった。涙を見せたら、『弱さ』を見せたら、誰も妹を守れなくなる。そんな気がしたから。
「そんな時、オレはジーノと出逢った。知り合ってから少し経った頃さ、ジーノになら相談しても良いかなって思えたんだ」
その頃から、既に裕介はジーノに『父親』のような感情を抱き始めていたのかも知れない。
「全部話して……そして、ジーノがオレに言った言葉が忘れられないよ」
少しでも、自分の気持ちを分かってもらえれば良かった。そして、笑いながら励ましてでもくれればもう万々歳。しかし、ジーノの言葉は裕介の想像を超えた物だった。
そう、裕介が話し終えた時、ジーノは片手をぽん、と裕介の頭に置き、そして――。
“頑張ったな裕介。お前は最高の兄貴だよ”
膝を折って目線を合わせ、裕介の目を真っ直ぐに見つめて、ジーノはそう言ったのだ。
「あの時が初めてだったな……人前で大泣きしたの」
ジーノの言葉、そして誰かが初めて自分の悲しみを理解してくれた事が嬉しくて、裕介はジーノの前で、泣いた。それまで溜め込んでいた感情を吐き出すように、とめどなく流れ出る涙に頬を濡らしたのだ。
あの時の事を思い出し、思わず笑みが浮かぶ。同時に、少しだけ視界が潤んだのが分かる。
「ジーノは、父親だった。ロクでもねえ糞ったれだった本当の親父に代わって、オレに大切な事を沢山教えてくれた……世界に1人しか居ない、『父さん』だったよ」
RRCAの手帳から、あの写真を取り出す――それだけでも一苦労だった。
言葉を紡ぐだけでも、呼吸するだけでも、体が悲鳴を上げる。もしかしたら、死んでしまう寸前なのかも知れない。
写真の中で、ジーノと裕介が笑っている。
水琴にも写真が見えたのだろう、彼女が息を呑んだのが分かる。
仰向けのまま、裕介は水琴の方を向いた。彼女は驚いたような、困惑したような面持ちを浮かべていた。
「赦してくれとは言わない。けど、死ぬだなんて事は……やめてくれないか」
いつの間にか、裕介は自分が涙を流している事に気付いた。
痛みから出た涙とは違う。罪悪感が流させた涙でもない。どうして自分が泣いているのかも分からないまま、裕介は呼び掛け続ける。
「ジーノさ、いつもお前の事言ってたよ。ちょっと恥ずかしがり屋だけど、可愛くて優しい……自慢の娘だって。水琴みたいな娘が居て、自分は世界一幸せな父親だって。そりゃもう、楽しそうにさ……」
このような最中にも関わらず、裕介は思わず笑ってしまう。
娘の事を話すジーノの姿は、今もなお心に残っていた。本当に楽しそうで……そして、幸せそうだった。当時の裕介は幼くて上手く理解出来なかったが、今ならばジーノの気持ちが良く分かる。
水琴は、何も言わなかった。ただ黙って、裕介の言葉に耳を貸していた。
「オレが憎いなら殺せばいい、呪いたいなら呪えばいい……オレは、逃げも隠れもする気は無いよ」
涙に潤む瞳で、裕介は水琴を見つめる。
心が揺れ動いているのだろうか――水琴は依然、困惑したような面持ちだ。
「だから……死ぬだなんて言わないでくれ。お前が死んだら……ジーノは絶対に悲しむ」
裕介は、懇願する事しか出来ない。
ジーノは娘を、水琴を大切に思っていたのは確かだ。それに、裕介も水琴に死んでなど欲しくなかったのだ。彼女が父親のように慕っていた男性の娘だから? そうでは無い。ただ、生きていて欲しいのだ。
理由があったとは言え、彼女から父親を奪っておいて何を言っているのか。裕介は自分でもそう思う。けれど、水琴が死んでも誰も救われない。罪悪感に苛まれ続けた裕介も、死を賭して街を救ったジーノも、そして、長らく苦しんだ水琴自身も。
裕介の瞳から、涙の雫が零れ落ちる――予想外の事が、起きた。
「うぐっ!」
突然発せられた、苦悶の声。
驚きの余り、裕介は強引に体を起こす。立ち上がる事は出来なかったが、傍の壁に背中を預けて座り込む事は出来た。
「ぐう、う……」
苦しげな声を出しながら、水琴が頭を抑えて膝を付いていた。赤みの強い茶髪を振り乱しながら、まるで何かに取り付かれたかのような様子である。
一体、どうしたと言うのだろうか。
「まさか……まだ抵抗する力が残っていたのか」
その言葉を発したのは、裕介でも水琴でも無かった。
これまで何も言わず、何もせず、傍観するように裕介と水琴の様子を見ていた男――バルツァーだ。
バルツァーが、懐から何かの装置を取り出したのが分かる。見ただけでは、何なのかは分からなかった。
『あれは……洗脳ナノマシン制御装置!』
(!)
玲奈の言葉で、裕介は理解した。
先程のバルツァーの言葉、そして彼が持つ装置、そこから導き出される仮説は、一つ。
水琴は、この男によってナノマシンを体内に注射され、洗脳されているという事。
「裕介……君……」
苦しげに発せられた水琴の言葉には、それまでのような憎しみは秘められていなかった。
「水琴!」
呼んでも、返事は無かった。
「やむをえん……洗脳レベルを最大にしよう」
バルツァーを振り返った瞬間、男が装置のボタンを押す。
同時に、一線を画すような高く、長い悲鳴が水琴の口から発せられ――次の瞬間、裕介は自分の首が暴力的に捉えられるのが分かった。
「ぐっ!」
目の前に、水琴が居た。
その表情には何の感情も読み取れない。しかし、自身の首を掴むその両手から、裕介は彼女の感情が流れ込んでくるような気がした。
「さあ水琴……お前の恨みを晴らせ」
首を締め付けられながらも、バルツァーがそう言ったのを裕介は聞いた気がした。




