CHAPTER-38
「やばいやばい、試験始まっちまう」
裕介はそう漏らしつつ、ウエストサイドハイスクールの廊下を小走りしていた。
向かう先は、数学の試験会場の教室。本来ならば既に席に到着し、今頃は天敵とも言える数学の試験に対抗するべく、参考書を捲っていた筈だった。
予定が狂った全ての原因は、昨夜裕介が住む寮の付近で発生したコンビニ強盗事件。その知らせが裕介に届いたタイミングは正に最悪で、その時彼は既に寝支度を整え、ベッドに入っていたのだ。
裕介の手で犯人は即逮捕、事件はすぐに解決したのだが、その影響で約1時間程裕介の就寝に遅れが生じた。その影響で、今朝彼は若干ながら寝坊してしまったという訳である。
「……お」
ふと、見慣れた後ろ姿を前方に捉えた。躊躇わずに、裕介は彼の名を呼ぶ。
「おーい、ネイト」
裕介の前を歩いていた彼――ネイトが少しだけ振り返り、その横顔を裕介に見せる。裕介は彼の隣に並び、
「急がなくていいのか? 試験始まんぞ」
自分とは正反対に、冷静な歩調のネイトに裕介は問う。
「急ぐ必要は無い。試験開始まで残り4分……寧ろ早く来過ぎた」
清々してしまう程の余裕さが垣間見えるネイトの言葉、裕介には彼が切羽詰る自分の事を揶揄しているようにも感じられたが、ネイトが目を見て話してくれる事から、彼の言葉に他意は無いと判断する。
感心、そして数学の試験という大敵(裕介にとっては)との勝負を間近に控えても揺るがない、彼の冷静さと余裕。裕介は羨望のような物を感じ、思わず笑みを浮かべた。
「はっ……さすがネイト。数学の試験なんて最早、敵にあらずって感じだな」
ネイトの言葉が虚勢の産物では無い事は、裕介は良く知っている。この美少年は前回の数学の試験を満点、学年1位という最強の成績で通過しているのだから。
「裕介、君は僕の事を言っている暇はあるのか?」
ネイトから投げ付けられたのは、猛反撃の言葉だった。
「ある、とは言い切れねえけど少しは勉強した。コンビニ強盗の所為で寝不足だけどな」
裕介の言う『勉強』の内容は、インターネット電話越しに玲奈に数学を教えてもらう事だった。数時間もの時間を注ぎ――裕介はどうにか、試験範囲の基礎的な部分は理解出来るようになった気がしていた。
飛躍的に点が伸びるとは思えないものの、赤点は免れるだろう。
「コンビニ強盗程度、別に君が出る必要は無かったんじゃないか?」
「え?」
歩を進めながら、ネイトは言う。
「君はアジュールの事件を追っている……それだけでもかなりの負担だろう。君以外にも有能なエージェントは沢山居るんだ、身の周りで起きた事件を全て、自分の手で解決しようとする必要は無い」
ネイトの意見は正しかった。
グレードSであっても人間である以上、完全無欠ではありえない。夜には眠らなければならないし、疲れれば休まなければならない。
「分かってる。けど何か無理なんだよ、事件が起きてるのを知りながら見過ごすのって」
裕介が返すと、ネイトはさらに言葉を続けた。
「それに、少しはサポートプログラムにも頼るべきだ」
RRCA研修学科のある学校には、学生のエージェント達を支援する体制を整える事が義務付けられる。例えば事件捜査の為の公認欠席や、授業を受けられない者には補講を行う事、それから夜間の事件に関わった場合、RRCAの証書を提出する事で回復休業を得る事が出来るなど。
それらは総称して、『サポートプログラム(SUPPORT PROGRAM)』と呼ばれる。
「あー、何かサポートプログラムに頼るのってあんま好きじゃねえんだよな。だって……」
「RRCAである事を理由に学業を疎かにしている気がするから、恐らくはそんな所だろう」
「お見通しかよ」
サポートプログラムによる休業や再試験を受ける事は、決して批判される事では無い。しかし裕介はどうしても、この制度に頼る気にはなれなかった。理由は正しくネイトが述べた通りで、自分がRRCAのエージェントだからという事を言い訳にしたくなかったから。
故に裕介はやむを得ない場合を除き、サポートプログラムを使わないよう心掛けていた。
「君はいつも体を張り過ぎだ。自分の身の事も考えないと、いずれ取り返しの付かない事になる」
ネイトの眼差しは真剣だった。ふと裕介は彼の言葉の意味に関し、思い当たる物があった。
「なあネイト、もしかしてお前……オレの事心配してくれてんのか?」
「そうじゃない、君に何かあるとミッションに差し支える」
裕介と視線も合わせずに言うと、ネイトは歩くスピードを上げた。
「あっ、ちょっと待てよ先行くなって!」
裕介は慌てて、ネイトの背中を追う。
◇ ◇ ◇
「んー……」
シャープペンシルを走らせる音だけが満たされる、静かな教室内。裕介は自分にしか聞こえない程度の大きさで唸り声を発し、ぽりぽりと頬を掻く。
数学の試験は、やはり難敵だった。確信を持って『正解している』と言える問題は、正直な所存在しない。しかし初めの基礎的な数問と、中盤の応用問題。これらには少しばかり、相対する事が出来た。
(玲奈に感謝しねえとな)
いつもなら手も足も出ない数学の試験に、裕介が少しでも応戦出来ているのは玲奈のお陰だ。彼女が時間を削って裕介に数学を教えてくれなければ、今頃裕介は試験問題を見つめて絶望に沈んでいたに違いない。
基礎問題を全問正解させ、応用問題は正解まで行かなくとも、途中の式まで書けば中間点が貰える。そうすれば、赤点を回避する事は十分可能だ。
良い点を採りたいとは最初から思っていない。しかし裕介はとにかく、赤点を回避したかった。そうしなければ自分の成績の事以上に、玲奈に申し訳が立たない気がしたのだ。
『試験残り時間、30分です』
ルーシーが、裕介を含めた生徒達全員に告げる。
試験監督の教師――ジェームズに加えて、彼女も試験に臨む生徒達を見守っていた。
ルーシーの役割は、生徒達がデバイスを用いた不正行為を行っていないかを監視する事。記憶力を増強するデバイスを使えば、教科書を全部暗記する事も可能なのだ。かと言って、生徒がデバイスを装着しているかどうかをボディーチェックする事など不可能、そんな事をすれば暴行罪に問われる。
解決策として、学校は教師に加えてルーシーにも試験監督を任せる事にした。ルーシーは人間の脳波を読み取る事が出来る、人間がデバイスを使う際には脳波に独特の変化が生じる為、それをルーシーが感知すれば即座に不正が発覚し、言い逃れは出来ない。
(出来ない問題を深追いするのは時間の無駄、とにかく点を稼ぐ事……)
途中まででも解けそうな問題は無いかと、試験問題に視線を巡らせる裕介。
目立たない程度に視線を動かすと、玲奈とネイトはひたすらにシャープペンシルを走らせている。裕介と違って、2人はスムーズに問題を解いている事が伺えた。
(よし、この問題なら少しは……!)
狙いを定めた問題を解こうとした時、
『こちらRRCA情報通信局。緊急連絡です、至急応答願います』
教室内の静けさを引き裂くように突如、裕介のポケットから――否、裕介だけでなく玲奈とネイトのポケットからも電子音声の女性の声が発せられた。
「!」
数学の試験に割いていた思考が、一瞬で断ち切られる。
周りの生徒達がざわめくのも意に介さず、裕介は立ち上がり、ポケットから携帯電話を取り出した。玲奈とネイトも裕介同様に、問題を解く事を放棄している。
『繰り返します、こちらRRCA情報通信局。緊急連絡です、至急応答願います』
携帯電話は応答を求め、メッセージを繰り返す。
「ジェームズ先生、ルーシー!」
裕介はジェームズとルーシーに向かって、叫ぶように言った。彼の様子だけで、言いたい事は伝わったようだ。
ジェームズは頷きながら、
「3人とも行って構わない、君達の試験は後日行う!」
『急いで』
さらにルーシーにも促される。
裕介は頷き、踵を返す。そして彼は玲奈とネイトと共に教室を後にし、携帯の着信に応答した。
『皆さん、緊急事態です!』
連絡の主は、RRCA情報通信局に属するオペレーターの女性だ。彼女は事件が発生した際、RRCAエージェントに通報し、情報伝達する役割を持っている。情報通信局からの着信音は専用の物――先程まで裕介達の携帯が発していた物だ。
「何があったんです?」
応答したのはネイト。彼と玲奈も電話を受け、4人同時通話中だ。
オペレーターは、裕介と玲奈、そしてネイトに告げた。
『アジュールが現れました』




