CHAPTER-36
ジーノの事を語ると、心が痛む。
けれど誰かに打ち明ける事で、忌まわしい過去の重圧が軽くなるような気もした。
だから裕介は、玲奈にジーノの事を明かす。幾度も共にミッションに立ち向かってきた彼女にならば、話しても構わないと思ったのだ。
「オレが12歳……アクアティックシティ支部に異動して間もなくで、グレードAになったばかりの頃だったよ。ジーノと出会ったのは」
幼い頃から、裕介は身体能力増強デバイスとの極めて高い――言い方を変えれば、『異様』な適合率を買われ、周囲の年の離れたRRCAエージェントと共に、事件に臨んでいた。
「グレードBだった頃は、周りに同い年の子も結構居たんだけど……グレードAになった途端、周りは最年少でも10代後半の兄ちゃん。最年長だとおっかねえ顔したおっさんも居てな。今ほど度胸も無かったオレはもうブルっちまって、これから同僚になる人達だってのに満足に挨拶も出来なかったよ」
その時の事は、裕介は鮮明に覚えている。そもそも忘れようが無いだろう。
「それは結構分かるよ、私もそんな感じだったから」
どうやら、玲奈も同じような体験をした事があったらしい。
裕介は笑みを浮かべつつ、「そうだろ?」と言う。そして彼は、続けた。
「そんな右も左も分からなくて立ち尽くすしか無かったオレに、ジーノは歩み寄って来て……しゃがんでオレと目線合わせて、話し掛けてくれたんだよ。『ピアチェーレ(Piacere)』ってな」
「ピアチェーレ……ジーノさんはイタリアの人?」
裕介は頷く。
勿論当時の裕介には、背が高くてとても筋肉質で、焦げ茶色の長髪と口と顎にクールな髭を生やしたその男性が放った謎の言葉が、イタリア語で『初めまして』を意味する事など知る筈も無い。
「けどその後はジーノ、普通に日本語で話してくれて……オレはすぐ彼に懐いて、かなり歳の差はあったけど仲良くなったよ」
12歳といえども当時から有能なRRCAエージェントだった裕介は、同年代の子供達と比べて、多くの人間を見てきた。心から尊敬出来る良い人間も、そして凶悪な犯罪者も。
故に初めて会う人間への警戒心は恐らく人一倍強かった。しかしジーノとは何故か、さほど時間も経たない内に打ち解けられたのだ。
「それからジーノとは同僚になって、一緒にミッションに臨むようになって……少し経った頃には、暇な時とか休みの日に、一緒に遊ぶ仲になってたよ」
ジーノと過ごした時間を思い出し、裕介は懐かしさを覚える。
「色々教えてもらったよ。RRCAの事だけじゃなくて、バスケとか、少しだけイタリア語も。それと、色々と大切な事もな」
「大切な事?」
玲奈が問い返してくる。
「『危険だとか無謀だとか、そんな言い訳を並べて立ち止まってると何も救えない』。だったかな」
玲奈が笑みを浮かべるのが分かる。
「今の裕介を作ってくれた人なんだね、ジーノさん」
言われてみれば、確かにその通りかも知れない。
裕介は玲奈から視線を外して、「あー、言われてみればそうかもな」と呟く。
「同僚で、先輩で、友達で……これが父親ってもんなんだな、って思ったよ」
いつかジーノと共に街を歩いた時、実の親子に間違われた事があった。けれど、裕介は嫌な気は全くしなかったし、むしろ嬉しかった事すら覚えている。
玲奈が写真を差し出す。裕介はそれを受け取り、RRCAの手帳に戻した。
この写真に写っている2人――1人はジーノで、彼に抱き上げられ、満面の笑みを浮かべている少年は裕介なのだ。はっきりと覚えてはいないが、この写真を撮った頃はまだ10代前半の歳だった筈だ。
周りは幾つも年上の大人ばかりの環境の中、不安に駆られる裕介に一番最初に手を差し伸べてくれたジーノ。同僚として、先輩として、大切な事を幾つも裕介に教えてくれ、今の裕介を作ってくれた人と言っても間違いではないジーノ。年の差を超えて、友達として沢山の時間を裕介と共有し、多くの思い出を紡いでくれたジーノ。
裕介にとって、彼は正しく『父親』だった。
「ジーノさん、今はどうしてるの?」
一切の他意は無く、玲奈は尋ねたのだろう。けれど、その質問の答えを口にするのは、裕介には余りにも辛過ぎる。
裕介は黙った。気持ちを表情に出さないよう努めたが、自信は無かった。
「裕介?」
「……亡くなったんだ」
押し出すように言う。玲奈は驚きに表情を染め、絶句した。
「殉職したんだよ、ゾンネを壊滅させる作戦の最中に」
玲奈が俯くのが分かる。
会った事も無い、裕介から話を聞いただけの男性の為に、彼女は心の底から悲しんでいるのだ。
そして彼女は察しただろう。昨日の会話で玲奈がゾンネの名前を出した瞬間、裕介の様子が変じた理由を。
「そんな……」
玲奈の言葉が、潮風の中に消えていく。
裕介は、決意を表明するかのように言った。
「だからオレは、ゾンネがまた動き出したってんなら今度こそ完全に潰してやる。ジーノの為にも、それから……あの女の子の為にも」
裕介は心中で続けた、彼の表情は険しい物だった。
(それが、オレがジーノに出来る唯一の『贖罪』だから)
「あの女の子?」
玲奈が、必然ともいえる疑問を口にした。裕介は答える。
「ジーノの娘さ、知り合った切っ掛けはジーノが引き合わせてくれた事」
裕介は青空を見上げ、思う。ジーノの大切な娘――もう長らく会っていない、今では顔もはっきりと思い出せないその女の子の事を。
彼女は、裕介の事を覚えているのだろうか。
(あの子は……今どうしてるかな)
どこに居るのかすら分からない少女に、裕介は思いを巡らせる。
◇ ◇ ◇
「まさかしくじるとはな、使えない奴だ!」
「ぐあっ!」
罵声とほぼ同時に、水琴の腹部に男の蹴りが入る。
背骨まで達する痛みに涙を浮かべ、水琴は細い体を折り曲げつつ地面に倒れ伏す。口の中に苦い液体が込み上げてくる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
咳き込みながら必死に謝罪の言葉を発し、水琴は許しを請う。男はそれ以上、水琴に暴行を加える事は無かった。
舌打ちをすると、男はポケットから何かの機器を取り出す。携帯電話程の大きさの、コントローラーだ。
「いいだろう、どうやらあのガキを侮っていたようだ。水琴、もう一度チャンスをくれてやる」
蹴りを受けた腹部の痛みに耐えながら、水琴は男の言葉を聞く事しか出来ない。返事をする事も、自身の乱れた髪を整える事も出来ない。
「奴を始末出来るだけの力も、一緒にな……」
男の顔に、不気味な笑みが浮かんだ。
彼が何をしようとしているのかを悟った水琴は、男を制しようとする――しかしそれよりも先に、男はコントローラーに向かって発した。
「身体能力増強ナノマシン、出力最大」
その瞬間――水琴の全身を凄まじい痛みが襲った。
「うぐっ……ああぁぁぁぁああああッ!」
電撃が走り抜けるような感触に、水琴は喉が潰れるような悲鳴を上げる、しかし痛みは全く収まらない。
水琴の可憐な容姿が、苦痛に歪む。体が壊されていく、壊されて、まるで自分が異質な存在へと作り変えられるような感覚。激痛の中で、水琴は恐怖を感じる。けれど、彼女には抵抗する術など無かった。
「ぐう、うううううううぅぅぅぅウウウウウッ!」
獣が呻くような声が、水琴の意志とは無関係に発せられる。唾液と胃液が混ざった液体が彼女の口から吹き出て、地面に滴り落ちた。体中が凄まじい熱を帯び、全身の血管が破裂するような感覚がする。骨や筋肉が蠢き、皮膚を破って突き出てくるのではと思う。
水琴の細い指が、硬い地面をガリガリと削る。まるで猛獣が爪を突き立てたような、深く抉り取られた痕が刻まれた。
「クク、いい感じになってきたじゃないか」
男は笑みを浮かべていた。気が狂いそうになる『変異』の中、水琴は確かに男が笑っているのを確認したのだ。
「そうだ、もうひと押し……お前があのガキに容赦出来ないよう、お前の心も消してしまおう」
「!」
恐怖が、水琴を苛む。
「もうじき17歳の誕生日だろう水琴、プレゼントだ」
男は再び、コントローラーを操作し始める。
「やめ、て……それだけは……!」
搾り出すように発した懇願は、何の意味も成さなかった。
「洗脳ナノマシン、出力最大」
男がコントローラーに向かって発したその言葉を、水琴は聞く。
意識を失う直前に、男が「期待しているぞ水琴、いや……アジュール」と言った気がした。




