CHAPTER-25
「あーもう、疲れた……!」
裕介がようやく解放された頃、時刻は5時を過ぎていた。
第23オペレーティングルームに入った時刻はおおよそ2時過ぎで、事件に関する会議は十数分程で終わった。となると、3時間近くは玲奈の補習授業を受けていた計算になる。
結構な時間を費やしたものの、裕介は全く数学が出来るようになった気がしていなかった。
ある程度出来るようになるまでは帰さない。玲奈はそう宣言していたが、勉強を教わっていた最中に突如彼女の携帯が鳴った。会話の内容から察する所、事件に関して玲奈の力を借りたいとの要請があったらしい。
幸運と言うべきか、裕介はお蔭で自由の身になれたという訳である。
「ったく玲奈の奴、オレが数学いくらやっても出来た試しがねえって知ってる癖に……」
不機嫌そうな、それでもどこか満更でもない表情を浮かべつつ、裕介はぶつぶつと発する。
RRCAアクアティックシティ支部の通路に設置されたベンチに腰を降ろし、ぐっと伸びをした。溜め込んだ疲れを発散するように、肩をごきりと鳴らす。
「……腹減ったな」
昼食を簡単に済ませた上、この数時間で摂取したのはメイシーに淹れられたコーヒーのみ。裕介は空腹を感じていた。
帰宅する前に売店で何か買って食べよう。そう考えて、彼はベンチから腰を上げて通路を行き交う少年少女達の波に同調しようとした時、
「食べる?」
と、少女の声と共に封の開けられたスティック菓子の袋が差し出される。驚きつつ、裕介は彼女に視線を向けた。
玲奈よりも小柄な身長に、両端を束ねられた銀髪のロングヘアー。そして可愛らしい容姿には不釣り合いな、どこか不機嫌そうな目付きが特徴的な少女だ。
「おお、エンニ」
彼女は『エンニ・セデルストローム(ENNI CEDERSTROM)』。フィンランド出身の少女で、裕介より一つ下の後輩に当たる。
「ああ居た。おい、エンニ!」
と、後方からのどこか頼り無い声に、エンニは裕介に袋を差し出したまま振り返る。1人の日本人の少年が慌てた様子で、エンニと裕介の側まで駆け寄って来た。
「ふう……先に行くなんてひどいよ、もう!」
「もたもたしてるあんたが悪い」
少年の抗議に、エンニは全く動じる事無く反論する。「まったくもう……」と漏らしつつ少年が顔を上げる、裕介と目が合った。あわてふためいた様子で、少年は姿勢を正す。
「あっ……裕介先輩、こんにちは」
「よう悟、相変わらずエンニに振り回されてるんだな」
笑い混じりに、裕介は彼に応じる。
その日本人の少年は物腰穏やかで礼儀正しく、裕介を映す瞳はどこか頼りない様子を感じさせるが、同時に正義感が強そうで、真面目で直向きな印象を醸している。
何も手を加えず短めに切り揃えた髪型に、目に付く模様の少ない服装。総合的に見て、良く言えば『謹厳実直』、悪く言うと『冴えない』少年――『瀬嶋悟』、彼はエンニと同期に当たり、彼女と同じく裕介の一つ下の後輩だった。
悟は、エンニを指して言う。
「もう、酷いんですよエンニの奴。俺に自分のスイムバッグ押し付けて、自分はスタスタ先に行って……!」
気が付くと、悟は右肩と左手に計二つのスイムバッグを提げていた。肩に掛けられた『EDIDAS』のロゴが入ったスイムバッグが彼の物で、もう片方はエンニの物だろう。
「勝手に付いて来るから悪いんじゃない、ストーカーじゃあるまいし」
エンニはぽりぽりとスティック菓子を噛み砕きつつ、悟に反論する。「ス、ストーカー……?」と発する悟をよそに、彼女は祐介に視線を移した。
「いらないの?」
「ああ貰うよ、ありがとな」
「ん」
早く取って、とでも言いたげにエンニが袋を突き出してくる。裕介は袋から1本、スティック菓子を取り出した。
悟はため息を吐き、
「仕方ないだろ。だってエンニ、いっつも部活サボろうとするし……」
「周りが喧し過ぎるのよ、まあASBは楽しいけど」
眉の両端を少し吊り上げて言うと、エンニは袋から新しいスティック菓子を取り出した。
「ていうか悟……私の事構ってる暇あるの?」
「え?」
エンニが悟のポケットに手を伸ばしたかと思うと、ひょいと何かを取り出した。
「グレードBの筆記試験、次落ちたら今月は受験資格無くなっちゃうでしょ」
「あっ! おいこら!」
悟は焦る。エンニが彼のポケットから抜き取ったのは、RRCAの学科試験対策のテキストだ。
グレードCのRRCAエージェントがグレードBに昇進する為には、まず学科試験に合格する必要がある。試験はペーパーテスト、つまり筆記試験とVRMSを用いた実技試験に分かれており、筆記に合格したもののみ実技の受験資格が得られるのだ。
なお筆記試験はいつでも受験可能だが、月に3回までという回数制限がある。エンニの言葉から、悟は今月に入ってから既に2度落ちているらしい。
「悟、まだ合格してなかったのかよ?」
8割の驚きと、2割の呆れを抱いて裕介は問う。悟がいつからグレードBの筆記試験に挑戦していたかは知らないが、少なくとも数ヶ月は前だった気がする。
悟はテキストをエンニから取り戻そうともせずに、しょぼんとした面持ちで応じた。
「はい……何回も挑戦してるんですけど、未だに合格できなくて」
「こんなの、少し勉強すれば余裕じゃない」
エンニが呟くと、悟が食って掛かる。
「全然、余裕じゃない!」
「私は1回で合格したわよ」
「う……」
視線も合わせずに発せられたエンニの言葉に、悟は縮こまる。
ため息と共に、エンニがテキストをパラパラと捲る。適当なページを選んで、エンニは悟にテキストを見せた。
裕介も歩み寄って、そのページを見てみる。
「この問題、解いてみなさいよ」
エンニが指さしている先には、○×式の設問があった。記述が正しいものであれば『○』を、間違っているならば『×』を記入する方式の問題である。
【Q-01】『RRCA』とは、『Rapid Resonse to Critical Activity』の略である。
基本中の基本とも言える問題だった。裕介はすぐに答えを理解し、「ま、これは余裕……」と呟く。
しかし悟は、
「ん、と……」
数秒が経過しても答えを出さなかった。
彼が回答するのを待たずに、呆れた様子でエンニが答えを言う。
「『×』に決まってるじゃない……こんな初歩的な問題に何秒も掛かってたら、時間切れになるわよ」
「く……」
反論する余地が無かったのだろう、悟は意味もなく発した。
エンニは「それじゃあ……」と漏らしつつ、別のページを捲り始める。問題を選ぶと、
「これは?」
エンニが選んだ問題は、別のページの問題だ。
【Q-02】12歳に満たないRRCAエージェントには、A以上のグレードは付与されない。
裕介にとっては、こちらも初歩的な問題に思えた。
しかし、
「えーっと……」
悟は考え込んでいる。
エンニはテキストを閉じて、それを悟に押し付けるように返す。そして彼女は腕を組み、
「こんなんじゃ、あんたずっとグレードCのままね」
「……少しは励ましてくれても良いだろ」
悟が情けなく言う。エンニは横目で悟を見つつ、何度目か分からない溜息と共に呟いた。
「さっさと追い付いて来なさいよ、バカ……」
「え? エンニ、何か言った?」
どうやら、悟には聞こえなかったらしい。
「別に」
エンニは素っ気なく返すと、急に歩を進め始めた。そして裕介の隣を通り過ぎる際に、
「それじゃ、また今度」
と言い残す。裕介は「ああ、またな」と応じた。
取り残された悟が慌てて、二つのスイムバッグを持ち直す。
「ちょ、先行くなってエンニ! すいません裕介先輩、部活あるので失礼します!」
エンニの背中を追って走り去っていく悟、裕介は手を振りつつ「おう、頑張れよ」と応じた。
2人の後ろ姿が見えなくなると、裕介は再びベンチに腰を下ろす。そして彼は、エンニから貰ったスティック菓子を視線の前に持ってきた。
「変わったもんだよな、エンニの奴」
笑みをこぼしつつ、裕介はスティック菓子を齧る。苺クリームの柔らかい甘みが、彼の口の中を満たしていった。
【おまけ ~RRCAグレードB学科試験問題・解答及び解説~】
Q.次の記述が正しい場合は『○』を、誤っている場合は『×』を解答欄に記入して下さい。
【Q-01】『RRCA』とは、『Rapid Resonse to Critical Activity』の略である。
【正答】:×
【解説】:Rapid Resonse to Critical Activityではなく、Rapid Response to “Criminal” Activity の略である。基本且つ頻出問題である為、確実に答えられるようにしておく事。
【Q-02】12歳に満たないRRCAエージェントには、A以上のグレードは付与されない。
【正答】:×
【解説】:グレードの付与に関しては、基本的に何ら年齢制限は存在しない。12歳に満たない者にもグレードAの権限は与えられるし、最上位のグレードSの権限を受ける事も出来る。あくまで理論上の話ではあるが、RRCAの研修を受け始められる最低年齢、即ち6歳の子供であっても、グレードSの権限を保有する事は可能。これが現実に至った例は2054年現在、報告されていない。
解答解説作成:ルーシー




