CHAPTER-02
アクアティックワールドで休日を満喫していた人々の声が、一斉に悲鳴へと変じる。
裕介は玲奈と共に、その悲鳴が発せられている場所へと走っていた。逃げ惑う人々と幾度もすれ違う、何人かと肩が接触したものの、詫びを言う余裕も無かった。
「事件か?」
「どうやら、そうみたいね……」
玲奈の返事を受けて、裕介は舌打ちをした。
「ちっ、折角の休日だってのに……!」
尋常ならざる様子で逃げ惑う人々を避けつつ、裕介はようやく辿り着くことが出来た。
下の階へと繋がる階段の側、モヒカンの髪形をした人相の悪い男が、その太い腕で若い女性の首を捕らえている。もう片方の手には鈍い光を持つ拳銃が握られ、その銃口は男の前に立つ数人の少年少女達に向けられていた。
――男が女を人質にしている。恐らく誰が見ても、それは明白だろう。
「手前ら変な真似すんじゃねえぞ、さもねえとこの女の頭を吹き飛ばすからな……」
男が、拳銃で少年少女達を威嚇する。
その時、男を囲っていた少年の内の1人が話し掛けて来た。
「君達何してる、早く逃げろ。ここは危険だ!」
「ん、えっと……?」
見知らぬ少年から唐突に話し掛けられ、裕介は言葉を濁す。
すると少年は切羽詰まった声を漏らしつつ、ポケットを探って茶色い本革を取り出した。
「RRCAだ、さあ早く逃げてくれ!」
本革にはその少年の顔写真や個人情報が記されたIDカードが納められており、そして大きくグレード『B』の文字が付けられていた。
避難を促そうとしているのだろう、少年が裕介と玲奈の肩を掴む。
「いやいやいや、オレも」
慌てて裕介はポケットを探り、少年が持っていた物と同じ本革を取り出す。
二つ折りにされたそれの内側を少年に見せる――途端、少年の顔が驚きに染め上げられた。
「な……!?」
「あの、私も」
玲奈も同じように本革を開き、少年に見せていた。
「まさか、君達はあの……」
「で、あの男は?」
裕介が問う。
「あ、ああ……僕達が追っていた強盗犯なんだ。この付近での目撃情報が多数あって、張り込んでいたんだよ」
先程とは打って変わって、少年は裕介と玲奈を避難させようとせず、質問に素直に応じる。
「見つけたまでは良かった。逮捕のタイミングを狙っていたんだが、仲間がヘマをした所為でこっちの素性がバレてしまい、人質を取られてしまったんだ……」
「……なるほど」
状況を把握し、裕介は頷く。
「おいそこのガキ共、何をゴチャゴチャ話してやがる!」
強盗の怒鳴り声に、少年がビクリと身を震わせる。
しかし彼は直ぐに使命感を取り戻したのか、強盗犯に向かって毅然とした態度で言う。
「その女性を放せ、もう逃げられないぞ!」
「うるせえ!」
モヒカン男は、人質にしている女性のこめかみに銃口を押し付けた。
悲鳴を上げる女性。その口元が微かに動き、「助けて……お願い、撃たないで……」と哀願している。
その時。幼い少女の声が響き渡った。
「お母さん!」
いつからそこに居たのか、彼女は駆け寄っていく。人質にされている女性(彼女の母親なのだろう)、そして女性を人質にしているモヒカン男に。
「駄目、近付かないで!」
玲奈が少女を制する。だが、その声は少女に届いてなどいない。
少女はすがり付くようにモヒカン男のズボンを掴むと、涙を流しながら懇願する。
「お母さんを放して! お願い! 放してよおっ!」
「チッ、何だこのガキ……」
男はそう漏らした途端、何かに気付いたかのように少年少女達へ向き直る。
自身の気が幼い少女に傾いている隙を突いて、少年少女達が襲い掛かってくると思ったのだろう。
「来るな、動くんじゃねえ!」
拳銃を振りかざして威嚇するモヒカン男、その足元では幼い少女が人質――母親の解放を求め、懇願し続けている。
「うるせえんだよ、この糞ガキ!」
そう叫んだと思うと、モヒカン男は僅かも躊躇う様子を見せず、幼い少女を蹴り飛ばした。
手加減の欠片も感じられないその一撃は、幼い少女の腹部を捉え、その小さな体を後方に吹き飛ばす。背中から壁に打ち付けられ、少女は痛みに身を捻る。
それを見た途端――裕介の表情が変わる。
モヒカン男は何事も無かったように少年少女達に向き直り、再びその銃口を人質へ突き付けた。
「子供になんて酷い事を……」
憤慨する少年の肩に、裕介は後ろから手を置いた。少年が振り返ると同時に、促す。
「話したって無駄さ、任せろよ」
「! あ、ああ……」
少年の横を通り抜け、裕介はモヒカン男の前に歩み出る。
もう、黙って見ているつもりは無かった。幼い少女を容赦なく蹴り飛ばしたモヒカン男に、裕介は怒りを隠そうともしない。
「警告だ、その人を放せ」
裕介はモヒカン男に命じる。銃を持った犯罪者が相手にも関わらず、恐れなど全く抱いていない。
「ああ? 何か言ったかお前!」
「その人を放せっつったんだよ、従わねえなら痛い目に遭わすぞ!」
モヒカン男がどのような反応を示すか、裕介には容易に想像が付いていた。犯罪者が、このような忠告に従う可能性など皆無であると。
反応は案の定、モヒカン男は裕介に威圧的な視線を向けて来る。
「黙れこの野郎、どうやら死にてえらしいな!」
銃口を向けて来たと思った瞬間――モヒカン男の持つ拳銃から、裕介の額に向かってケースレス弾が放たれる。至近距離でなくとも、銃の威力は人間を破壊するには十分だ。
サイレンサー標準装備で、かつ排莢動作を必要とせず、加えて反動も微々たる物に留められたモデルの、モヒカン男が持つ次世代の拳銃。扱いの簡単さに反して威力、携帯性は全く損なわれておらず、旧世代の銃を用いて例えるならば、使い方さえ知ってしまえば赤子にも扱えるデザートイーグルである。
命中すれば、人間の体など一溜まりも無い筈だった。
そう、命中さえすれば。
「……警告無視に加えて発砲」
しかし、裕介は全くの無傷だった。
首を僅か横に倒しているのみで、顔色の一つも変えずにその場に立っている。
「なっ……!? んなバカな……」
不具合で弾が発射されなかったとでも考えたのか、モヒカン男は自身の銃に視線を向けている。
しかし、銃に不具合は一切無いのだ。銃弾は間違いなく発射された、裕介の背後の壁に弾痕が刻まれている事が、その証拠だ。
「警告を拒否した、アンタが悪いんだぜ?」
「ひっ!?」
情けない声が、間近で裕介の耳に入る。裕介はその時、既にモヒカン男の間近にまで接近していた。
再び銃を向けられるが、裕介は発砲する猶予も与えずに銃を持つ腕を掴む。
「ぐあっ、ああああああああ……!」
次の瞬間、痛々しい声を男は発した。
ゴキッという骨の軋むような音と共に、裕介の右腕が男の腕に食い込んでいく。男の拳銃が、床に落ちた。
「あっ!」
男の腕に捕らえられていた女性が放され、床に膝を崩す。咳き込む彼女に裕介は駆け寄り、促す。
「さ、早く逃げて」
「あ、ありがとう……」
女性は礼を言うと、娘の元へ走っていく。
「っ……畜生!」
痛みに悶えていたモヒカン男が我に戻り、逃げ出す。
「ちっ!」
裕介は後を追おうとするが、追い付く暇も無くモヒカン男が新たな人質を確保した。
その場に居た金髪アメリカ人の少女である。彼女が持っていた紙袋が地面に落ち、中から数個のドーナツが転がり出る。
「ったく往生際の悪い……ん?」
男の腕に捕らえられた少女を見た瞬間――裕介は気付く。
「人質の代わりなんざいくらでも居んだよ!」
そう叫ぶモヒカン男は、既に予備の拳銃を取り出していた。
彼の腕の中で、捕らえられた少女は苦しげにもがいている。顔は見えないが、ポニーテールにされた金髪が疾走する馬の尾のように揺れている。
男は彼女を捕らえたままエレベーターに乗り込み、逃げて行った。
「急いで追うぞ! 二手に分かれて……」
「あー、大丈夫大丈夫」
先程IDカードを裕介と玲奈に提示した少年を制しつつ、裕介は歩み寄る。
「大丈夫って、あのままじゃ……」
「まあ慌てないで。玲奈、あのニワトリのトサカ野郎何処に向かった?」
裕介は問う。玲奈はタブレットPCを操作していた。
「ちょっと待ってて、もうすぐ監視カメラに接続出来るから」
「お、おい! そんな悠長な事で良いのか、早くあの人質の女の子を助けないと……」
「あ、それなら心配には及ばないわ」
玲奈はタブレットPCから目を離し、裕介に向く。
「ね、裕介」
「ああ。運無かったな、あのニワトリ」
「? どういう……」
少年が怪訝に発する。裕介は視線を動かした、人質にされた少女が持っていた紙袋、そしてその中に入っていたであろう数個のドーナツが床の上に転がっている。