花のかおり、恋のたより
☆迎春
元旦の朝、静かに流れる琴の音が真新しい畳と黄梅の香りのする三〇畳の広間を満たす。奏者は一〇歳の美少女、高樹奈々花。当主、高樹花子の孫に当たる。
一段高い場所で一人演奏を続ける奈々花は、桃色の晴れ着を着て黒髪を結い上げ、本物の花で作られた髪飾りを挿していた。
広間にいて奈々花の演奏を聴いているのは七人の高樹家の面々。
当主の花子は最前列の中央に座り、穏やかな眼差しで孫を見守っている。
花子の長女洋花とその夫尚成に挟まれて座っているのは二人の娘の美花、一六歳。こちらも赤い晴れ着を着ている。奈々花ほど人目は引かないが十分整った容姿をしている。
奈々花の両親、彩花と良介は花子の隣で少し不安そうに娘を見ていた。
残る一人、花子の三女でまだ独身の梨花は、他の家族から少し離れたところにいた。
奈々花の小さな手が弦の上を舞う。六段の調べはBGMとしてもよく流れているので旋律を知る人は多い。
一曲だけ弾くと、奈々花は一礼して顔を上げた。
静かだが熱心な拍手が起こる。花子が満面の笑みで言った。
「毎年どんどんうまくなるわね、とても良かったわ」
緊張気味だった奈々花の顔にも笑みが浮かぶ。
「おばあさま、ありがとうございます」
花子は何度も頷くと笑みを深くした。
「奈々ちゃん、わたしがいない間にほんとにうまくなったわ」
美花の言葉に奈々花は顔を輝かせた。
「美花ちゃん、ありがとう」
美花は奈々花より六つも年上だが、奈々花はずっとこの呼び方をしている。
朝の会食は別の和室で行われた。高樹家の料理人が腕によりをかけて作った豪華なお節料理を堪能した後、花子のリクエストでこうして奈々花が演奏することになった。
奈々花は琴から離れると、真っ直ぐ美花の隣に歩いて行きちょこんと座った。
「それでは、お年玉を渡すわね」
花子は立ち上がり、懐から和紙で出来た淡い紫色の封筒を出して美花と奈々花に渡した。
高樹家の人々の金銭感覚は世間から大きくずれている。花子が渡したお年玉は美花に二〇万、奈々花に一〇万だ。他の大人達も大差ない金額を二人に渡した。でもこれでは少な過ぎるのではないかと全員が思っている。
「私達はお世話になっている皆さんにご挨拶があるから行くわね」
花子、洋花、尚成に続いて奈々花も彩花と良介に連れられて出て行った。去り際奈々花は美花に可愛い手を振った。
広間には美花と梨花だけが残った。
「実は美花ちゃんにはお年玉がまだあるのよ」
梨花は分厚い封筒を取り出して美花に渡した。
「新しく売り出したリップがすごく売れてるの。たったの二〇〇万だけどあげる。さっきのは礼儀上お母さまより多く渡せなかったから、お金じゃなくてうちの関連企業のエステの招待券が入ってるのよ」
二〇〇万の現金にはお嬢様育ちの美花も驚いた。
「梨花おばさま、ちょっと多過ぎです」
梨花は事も無げに言った。
「たったの二〇〇万よ。子供は黙って受け取りなさい」
美花は心の中で溜め息をつくと、居住まいを正して言った。
「梨花おばさま、ありがとうございます」
梨花は笑って頷くと、他に誰もいないのに声を潜めて言った。
「どうせ大人になったら好きでもない男と結婚させられるんだから、今のうちに遊んでおきなさいよ」
梨花は美花の頭をぽんぽんと叩いてから広間を出て行った。 広間に一人残された美花は、しばらく床の間に飾られた黄梅をぼんやりと眺めていた。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
メイドの明子が広間の入り口からそっと声を掛ける。
「何でもないの、今から戻るわ」
美花が廊下に出ると、明子が静かに付き従った。
高樹家本邸は白亜の洋館で当主の花子と三女の梨花、洋花一家が住んでいる。同じ屋敷に住んではいても、それぞれの部屋が離れているので食事時以外それほど顔を合わすこともない。
広大な敷地の奥まった場所に、純和風で平屋建ての離れと日本庭園がある。普段はほとんど使わないが、季節の行事や親日家の外国客の宿泊場所として常に綺麗に整えられている。庭園の木は完璧に刈り込まれ、池には鯉が泳ぐ。
美花は庭園の砂利道を本邸に向かって歩きながら考え事をしていた。
一一歳の時からヨーロッパの西の島国、エイクランドの全寮制の女子校ジュリエ学院に留学している美花は、日本にいる時間が少ない。悩み事はたいてい学校生活にある。
学院には年に一度、生徒達が心待ちにしているイベントがあった。それはバレンタインパーティーだ。参加出来るのは五年生以上の上級生のみ。そして美花は九月から五年生になった。
普段は関係者以外男子禁制の学院でも、パーティーでは近隣の男子校から生徒が招待されるので既に女子生徒達は興奮気味だった。
でも美花は違った。バレンタインパーティーは憂鬱でしかない。
女系の一族に生まれ、ずっと女子校に通っている美花は、同世代の少年と接するのが大の苦手だった。話すだけでも緊張してしまい、パニック状態に陥る。
唯一の例外は、奈々花の母親違いの兄優人だけだった。美花は優人のことが特別好きなわけでもないが、何故か初めて会ったときから緊張せずに話せた。
そんな美花は刻一刻と近付くバレンタインにどんどん気が重くなるのだった。
「お嬢様!」
明子の鋭い声に我に返ると、美花は離れの門にぶつかりそうになっていた。
「ぼうっと歩いてらしては危険です」
美花は溜め息をつきながら答えた。
「ありがとう、気を付けるわ」
美花は本邸の裏に広がる芝生を突っ切り、裏口から本邸の建物の中に入った。直後、花の香りに包まれる。
高樹家の女性は花好きが多い。生まれる女児全員の名前に花の字が使われるのもそのためらしい。
花子も例外ではなく、屋敷中あらゆる場所に花を飾らせていた。特に今は正月で、いつにも増して高価な花が並ぶ。
大理石の廊下に美花と明子の足音が響く。
厨房の方から料理の匂いが漂って来た。
「今日ってパーティーでもあるの?」
高樹家では来客がない限り正月三が日は和食を食べる。でも流れて来た匂いは明らかに洋風だった。
美花の言葉に明子は数拍黙り込んだ後、困ったように言った。
「実は優人お坊ちゃまがお友達を呼んでパーティーをされているのです」
奈々花の母彩花は初婚だが、父良介は再婚で優人は前妻との間の子供だ。年齢は美花と同じ一六歳。
高樹家の血が流れていないので、花子から疎まれ正式な家族の行事に参加させてもらえない。
「おばあさまの許可を取ってあるなら、問題ないでしょ?」
渋い顔をしたままの明子に美花は言った。
「確かにそうなのですが……」
二人が厨房の前に差し掛かったとき、優人が顔を出した。
「お、話し声がすると思ったら美花じゃん」
優人はへらへらと美花に笑いかける。
「明けましておめでとう」
美花は取り澄まして言った。優人の気さくで誰にでも公平に接する態度には好感が持てる。ただ美花には我慢出来ないことがあった。
「あけおめ、ことよろ!」
軽い調子で言うと、優人は美花の晴れ着に目を留めて言った。
「どっか行くのか?」
「離れから帰って来たところよ」
優人は美花の言葉で察したらしくわずかに眉間に皺を寄せたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「終わったなら俺達と一緒に合コンしない?」
美花は合コンという言葉に目を丸くした。
「合コンっていうのは……」
説明を始めようとする優人を遮って美花は言った。
「意味なら知ってる!よくこのうちで合コンしようなんて思うわね」
美花は完全に呆れていた。優人は花子の怒りに触れることを平気でやる。今回はパーティーの許可は取っているのだろうが、合コンだとは知らないはずだ。真実を知ったときの花子を想像して美花は身を竦ませた。
美花には自分から爆弾を投下し続ける優人を理解できないし我慢も出来ない。
「パーティーには違いないんだからいいじゃん。ちょうど女の子が一人来られなくなって人数が足りないんだよね、来てよ」
美花は声が震えないように注意しながら言った。
「悪いけどお断りするわ」
美花が歩き出そうとすると、咄嗟に優人が腕を掴んだ。
「堅いこと言うなよ」
美花が腕を振りほどこうとしても、優人がしっかりと握っていてびくともしない。
「優人、何やってるの?」
突然の声にその場にいた全員が驚いた。
「サリス……」
優人がつぶやく。
「女の子の嫌がることをしちゃ駄目だよ」
サリスと呼ばれた美花と同じ年頃の少年は、二人に近付くと優人の手を美花から離した。美花は反射的に掴まれていた部分をさする。
「大丈夫?痣になってない?」
サリスが少しかがんで美花の顔をのぞき込んだ。美花はこのとき初めてサリスの顔をはっきりと見た。そして固まる。
サリスは人目を引く容貌をしていた。外国人で身長は平均的、ほっそりとした体型にゆるくウェーブのかかった金色の髪の持ち主だ。
一番特徴的なのはその顔で、深い湖を思わせる神秘的な緑の目は切れ長で、高過ぎないけれど鼻筋の通った鼻と薄い唇が冷たい印象を与えている。そしてサリスは闇を払うような輝くオーラを発していた。
「痛いの?」
美花が何も答えないので、サリスは更に美花に近付く。
「大丈夫です。ありがとうございました」
美花は数歩後ずさりながら早口に言うと、そのまま自室に向かって走り出した。
「足元気を付けてね」
サリスは美花の態度に気を悪くした様子もなく、遠ざかる背中に向かって声をかけた。
明子は優人とサリスに一礼してから美花の後を追った。ただし走らずに。
美花は自室に戻るなりベッドに飛び込み布団を被った。明子は少し後から部屋に入った。
「どうなさったのです?」
心配げな明子の問いかけに、美花は布団の中から震える声で言った。
「天使よ、天使が舞い降りた」
明子は美花の被っている布団をはがした。
「お嬢様!気を確かにお持ちください」
美花は丸まった姿勢のまま言った。
「わたしは正気よ。わたし……わたしは……あの人に恋をした」
明子は呆気に取られて動きを止めた。
「さっきの人……金髪の人……わたしの初恋なの」
美花はそのまま失神した。
美花にとっての遅い春がやって来たのかも知れなかった。
☆バレンタインデー
ジュリエ学院の朝は静けさを切り裂く悲鳴から始まる。
「キャー!信じられない!」 叫んでいるのは美花のルームメイトのローズ。ひどいくせ毛のために毎朝大騒ぎしながらバスルームで奮闘している。
信じられない思いをしているのは、いつも早朝から金切り声で起こされる美花の方だった。心地良い朝のまどろみの中、突然ホラー映画さながらの鋭い悲鳴で叩き起こされる。
最初の頃は美花も抗議していたが、ローズにとっては髪が最重要問題らしく何度言ってもおとなしくしてはくれなかった。
結局美花は毎晩早めに寝て、ローズの悲鳴と共に目覚め、騒がしいローズの声をBGMに勉強や趣味の時間に当てることにした
バレンタインパーティー当日の今日は、尚更ローズの苦悩は大きかった。まず午後までの授業を乗り切り、その後パーティー用に髪を整える必要がある。
二時間後ようやく部屋に戻ってきたローズは、いつものお団子ヘアにしていた。本当は髪を下ろしたいらしいが、すぐにくるくるとカールする髪は高品質のヘアアイロンでも歯が立たない。
「夜はどうするの?」
あまり機嫌の良くないローズに、美花は思い切って声をかけた。
「今日は特別にプロに来てもらうことにした」
美花は胸をなで下ろした。慣れているとは言っても、あの大騒ぎを一日に二回味わうのはつらい。
「それより、美花は着物を着るんでしょ?」
ローズは落ち着いてきたのか興味深い眼差しを美花に向けた。
「うん、前田先生が着付をしてくださるの」
前田先生とはジュリエで唯一の日本人教師で家庭科全般を教えている。着付の腕も相当なもので、生徒が頼めば快く引き受けてくれる。
美花が日本から持参したのは、濃い青地に白い梅の描かれた振袖だった。一式をすでに前田に預けてあるので、ローズに見せてやることは出来ない。
「楽しみだわ」
ローズは笑顔で言った。髪型に大袈裟なほど神経質なことを除けば、ローズはとても好人物だった。頭脳明晰、容姿端麗、スポーツ万能、性格は穏やかで面倒見がよく、髪に関すること以外は落ち着いている。
「ローズはどんなドレスを着るの?」
美花の問いかけにローズは壁に掛けていたドレスのカバーを開いた。
「すごい!大人っぽい」
胸元の大きく開いた濃い青のドレスには、胸の部分に同色の薔薇があしらわれていた。薔薇の花と言えば派手な印象を受けるが、色が控えめなのでとても上品だった。
「この色、わたしの着物にちょっと似てるわ」
美花の言葉を聞いて、ローズは嬉しそうに笑った。
「あたし達、気が合うわね!ところでそのバレンタインのプレゼントは渡すんでしょ?」
ローズは美花の机の上に視線を向けた。机の上には大小二つの箱が乗っていた。小さい方には美花が正月休みに東京のチョコレート専門店で買ったチョコレート、大きい方には手編みのマフラーが入っていた。
「たぶん渡さない……というより渡せない」
ローズは数回瞬きをした。
「送ればいいだけでしょ?」
全く理解できない様子でローズは言った。
「だってこれが本当に恋なのかも分からないのよ」
美花がサリスと衝撃的な出会いをした元旦、結局美花は優人の合コンには行かなかった。サリスの前から突然逃げ出すという怪行動を取ったので、恥ずかしくて自室からも出られなかった。
翌日優人に聞いたところ、サリスは優人の通う都内屈指の名門男子校、梅川学園に一年間の交換留学生として在籍しているらしい。年齢は同じ一六歳で、授業に苦もなく付いていけるほど日本語が堪能だということだった。
合コンの結果について聞いてみると、優人だけがうまく行ったらしい。あからさまにほっとする様子と、それまでの質問で優人は美花のサリスへの気持ちを察したが何も言わなかった。
美花は生まれて初めてバレンタインを意味あるものと思うようになった。日本では自分から告白出来ない女性が、思い切ってバレンタインにチョコレートを渡して思いを伝えるという意味合いもある。
美花は早速都内中のチョコレート専門店を運転手付きの車で巡り、おいしいと思うものを見付けて買った。
次に高級なウールの毛糸を買い、ジュリエに戻るときの荷物の中に入れた。
正月休みが終わり学校が始まると、休み時間やちょっとした空き時間を使ってマフラーを編み始めた。全くの初心者だったので本を見ながら悪戦苦闘した。一番簡単な編み方にしたが、最初の頃はうまく行かず、何度もほどいては編み直した。
ようやく編み上がった頃にはもう二月になっていた。ローズは美花の初恋を知り、応援しながら見守っていた。
「どういうこと?」
ローズは不思議そうだ。
「確かにあれからわたしはサリスのことが気になって仕方ない。いつも彼のことを考えてる。でもなんかしっくり来ないの。恋ってもっとわくわくするものじゃないの?それがないの」
美花は不安そうに下を向いた。ローズははっきりと言った。
「何弱気になってるの?恋の形なんて人それぞる名のよ。とにかく突き進むの。近くにいないんだから、アクションを起こさないと相手に伝わらないわよ」
ローズに押し切られる格好で、美花はプレゼントをサリスに送ると約束をした。でも美花の気持ちはもやもやしたままだった。
バレンタインパーティーに招待されるのは、ジュリエから車で三〇分ほどの名門レミヤ学園の生徒達。パーティーの参加希望者の中から特に家柄が良く成績の優秀な少年達が選ばれる。
授業が終わった後、前田に着付と髪型を整えてもらった美花は寮に戻った。途中ですれ違う少女達は皆着物姿の美花を褒めちぎった。
美花が部屋に入ると、ローズの姿に目を見張った。ドレスを着たローズはとても大人っぽく見えた。美花が誕生日にプレゼントした真珠のピアスとネックレスを身に漬けている。しかし美花はローズの髪に釘付けになっていた。
「その髪!すごい!」
咄嗟に出た言葉はそれだけだった。ローズの栗色の髪は真っ直ぐストレートだ。
ローズは優雅な仕草でくるりと回った。髪が落ちるときサラサラと音を立てる。
美花は思わず拍手をした。ローズにというよりは、偉業を成し遂げた美容師に対して。
「あたし、すごく嬉しいの!明日になったら元に戻るって分かっててもね」
ローズはサラサラヘアを見せびらかすために、髪は下ろしたままパーティーに行くと言った。パーティーが始まるまでの時間、美花はローズの感動を延々と聞かされることになった。
ピアノの生演奏が静かに流れる中、少女達は期待に胸を膨らませていた。
天井からはアンティークのシャンデリアが下がり、上品な光を投げかけている。壁沿いのテーブルには既に料理が並び、ホール中にハートをモチーフにしたデコレーションが施されていた。もうすぐレミヤの生徒達が到着するはずだ。
美花とローズはホールの隅に目立たないように立っていた。ローズには恋人がいて他の少年には興味がないし、美花は他の少年と出来ることなら話したくなかった。
でも美花は自分の選んだ装いが失敗だったとすぐに気付いた。ほとんどの少女がドレスを着ている中にあっては、民族衣装は非常に目立つ。美花の他にも数人の留学生が色とりどりの衣装を着ていたが、まるでスポットライトを浴びているようだった。
美花は一歩更に壁へと身を縮ませる。
「どうしたの?まだ始まってもないのに」
ローズの目当ては今日の料理だった。毎年バレンタインパーティーには、とある会員制ホテルのシェフが呼ばれ料理を担当している。
「わたし、帰る」
着物を着ていればあまり大きな動きは出来ない。ダンスを断るいい口実になると思って着物を選んだのだが、逆に注目を集めそうな状況に美花はパニック寸前になっていた。
「美花、落ち着いて。大丈夫、あたしがいるから」
ローズが安心させるように優しく美花の腕に触れたとき、ホールの大扉が開いてレミヤの生徒達が入って来た。ざわめきが大きくなりソロのピアノ演奏が終わる。
次にどこからともなく現れた演奏家達がピアノの周りに集まり、全員で賑やかな曲を演奏し始めた。
これがパーティー開始の合図で、早速あちこちでダンスが始まる。
「おいしいお料理、頂きに行きましょ」
ローズは弾んだ声で渋る美花を促して料理のテーブルに向かった。
二人が歩き出してすぐ、いきなり美花は声を掛けられた。
「あの、踊っていただけますか?」
美花はダンスを断る練習は積んでいたので淀みなく答えた。
「ごめんなさい、この着物、ダンスには向きませんの」
声を掛けた黒髪の少年はわずかに頬を赤らめて言った。
「気付かなくて申し訳ありません。それなら少しお話しませんか?僕は日本にとても興味があるんです」
話などとんでもないと美花は思った。助けてくれるはずのローズは美花がついてきていないことに気付かないのか、すでに料理のテーブルの手前にいた。
「お腹がすいているんですか?何か取ってきましょう」
美花の視線を勘違いした少年は、返事を待たずに料理の方へ去った。
美花はこの好機を逃さなかった。大扉とは反対側、テラスの方へと向かう。テラスから庭へと下りると、美花は深い息をついた。
「どうかしたの?気分でも悪い?」
柔らかい少年の声が耳に届いた。美花は驚きでつまずきそうになりながらも、足を止めずに寮へ向かおうとした。
「待って」
素早く美花の行く手に立ちふさがった少年は、優しく言った。
「驚かせたならごめんね。でも気分が悪いなら、寮まで送るよ」
暗がりで顔はよく見えなかったが、少年の髪が明るい色をしているのは美花にも見えた。
「大丈夫、ありがとう」
少年の心遣いに美花は礼を言った。
「そう?それなら気を付けてね」
少年はあっさり納得するとテラスの方に消えた。
美花は誰もいない学院の庭を寮へと歩く。澄んだ冬の夜空に浮かぶ満天の星が美しい。冷たい風が吹き、美花の結い上げた髪の後れ毛を乱した。美花が髪に手をやったとき、ホールのある校舎の方から足音が聞こえてきた。かなり急いでいるようだ。
美花は先ほどホールの外で会った少年かと思い、足を止めて振り返った。
走って来たのは美花の予想に反して、ホールでダンスを申し込んだ黒髪の少年だった。
美花の側まで来ると、少年は立ち止まり息を整えながら言った。
「急にいなくなるからびっくりしました。どうしたんですか?」
少年は怒ってはいないようだったが、不満げな顔を隠そうとはしなかった。
「ごめんなさい、ちょっと気分が悪くて……」
美花が小さな声で言うと、少年は美花に一歩詰め寄った。
「さっきはお腹がすいたって言ってたのに気分が悪いんですか?」
空腹だなどとは美花は一言も言っていない。
言葉は丁寧だが、少年の口調からは明らかな苛立ちが感じられた。
「お腹はすいてません……」
美花はどうしていいのか分からないまま、視線を泳がせて言った。
美花の態度は少年に誤解を与え、怒りに火を点けた。
「人をからかっておもしろいのか?謝れよ!」 美花は恐慌状態に陥った。なぜ少年が怒っているのか分からない。
「別に……からかってなんて……」
少年は更に美花に詰め寄り、大声で怒鳴った。
「ふざけるな!お前もどこかの名家のお嬢様なんだろ?悪いことをしたんだから謝れ!」
美花は花壇の側まで追いつめられていたが、少年の脇をすり抜けて逃げようとした。
すぐに少年が美花へと腕を伸ばす。
しかしピシッという鋭い音がして少年の動きが止まった。どこからか飛んで来た小枝が強く少年の手を打ったのだった。
「これだから育ちの悪い人間は困る」
少年が怯んでいる間に美花を背に庇うようにして立ったのは、テラスの外で会った少年だった。見事な銀色の髪がわずかな光の元でも輝いていた。
「ディル、どうして……」
黒髪の少年の顔は一気に青ざめた。
「女の子に二度とあんな態度を取ったら、レミヤから去ってもらうよ。分かったらさっさと消えて」
銀髪の少年の声は柔らかかったが、声音は氷よりも冷たかった。
黒髪の少年が見えなくなると、銀髪の少年は美花に向き直った。
「ごめんね、怖い思いをさせて」
銀髪の少年は優しく言った。
「僕のことはディルって呼んで。本当の名前は長いから」
美花は頷いた。
「やっぱり寮まで送るね」
今回は美花も断らなかった。
二人で寮に向かって歩く間、ディルはひたすら黒髪の少年の態度を謝った。同じ学校にあんな生徒がいるのを申し訳なく思っているようだ。
「助けてくれてありがとう」
寮の玄関に着いたとき、美花は心からの礼を言った。
「あんなこと、当たり前だから気にしないで」
美花は急に思い付いて言った。
「あ、ちょっとここで待ってて。すぐに戻るから」
美花は急いで部屋に戻り、机の上のチョコレートの包みを掴んだ。大きい方の箱がなくなっているのに気付いたが、後で探すことにした。
玄関に戻ると、ディルは空を見上げていた。
「お待たせ、これ受け取って」
美花が差し出した箱を見てディルは言った。
「それ、明らかにバレンタインのプレゼントでしょ?」
美花は頷いた。
「実は他の人にあげようと思ってたんだけど、その人と会う予定はないし、今はあなたに受け取ってほしいの」
ディルはしばらく考えていたが、小さな箱を受け取った。
「ありがとう」
次にディルが取った行動は、美花の理解を遙かに超えていた。
ディルは美花を軽く抱きしめると、頬にそっとキスをした。
「じゃあ、またね」
ディルは美花の耳元で囁いてから体を離し、ホールの方へ歩み去った。
美花は呆気に取られてしばらく動けずにいたが、寒さに追われるように部屋に戻った。
着物も脱がずにベッドに座ってぼうっとしていると、ローズがすぐに帰って来た。
「美花のことだから、逃げ帰ってると思ったわ」
ローズはランチボックスを美花に手渡した。
「何も食べてないと思って、シェフに頼んでいくつか料理を作ってもらったの」
美花は礼を言うと、そのままランチボックスを机の上に乗せた。
「あ、そうだ。美花が編んだマフラー、優人に送っといたよ!サリスに渡してって添えて」
「ええーーっ!」
美花の絶叫は寮中に響いた。
☆ホワイトデー
三月一四日、エイクランドでは特に行事のない普通の日、美花は授業が終わるとすぐに寮に戻った。
「美花、荷物が届いてたから部屋に持って行ったわよ」
寮の管理人のアリスが玄関で言った。
「ありがとうございます」
美花は礼を言って部屋に急いだ。日本の家からは荷物が届く予定はない。
箱は美花のベッドの上に大小二つ置かれていた。悩んだ末、美花は小さな箱から開けた。
『バレンタインには、マフラーをありがとう サリス』
日本語で書かれたカードの下には、どんな小さな菓子店でも手に入る紅茶味のクッキーが一袋だけ入っていた。
美花はサリスの気持ちを痛いほど感じた。サリスは義理でお返しをくれたのだろうと美花は思った。
首を振ってからため息をつくと、美花は大きな箱を開けた。
『バレンタインにはおいしいチョコをありがとう。調べたら、日本ではホワイトデーっていうのがあって、女の子にお返しするんだってね。とりあえず今日はこれ。このドレスを着て週末の僕のバースデーパーティーに来てくれないかな? ディル』
メッセージの書かれたカードとは別に、バースデーパーティーへの正式な招待状が添えられていた。
箱に入っていたのは、ピンクのふわふわお姫様風ドレスだった。ドレスをクローゼットに押し込むと、美花は招待状を確認した。
パーティーの場所として指定されていたのは、エイクランドの首都リデアにあるメイリーン宮殿だった。
招待状を手に硬直していると、ローズが戻ってきて、美花が握り締めている招待状を覗き込んだ。
「美花ってディル王子の知り合いだったの?バレンタインのときに来てたはずなのに見かけなかったからどこにいたのかと思ったのよね」
美花の脳は状況についていけず、活動を停止した。
「美花!ちょっと大丈夫?」
突然失神した美花を呼ぶローズの声が寮中に響き渡った。
【おわり】