第二話 再会
「ほら進、鷺ノ宮村だ。覚えてるか?」
右前方にうっすらと木々の間から家が何軒か窺えた。その手前には川。この時期は魚釣りや川遊びが楽しめそうだった。車が川の上の橋を渡っていく。
すると、月明かりで反射した川の中に冷やしてあるスイカが視界に入った。進は涎が出そうになって口元を覆う。
村の入り口なのか、「ようこそ鷺ノ宮村へ」と小さく書かれた立て札の横を通り抜ける。
眼前に一面田んぼが広がった。
暗がりでもはっきり、民家以外それしかないことが分かる。
「……田んぼだらけだ。これなら昼間は牛や豚が道端歩いてそうだなあ」
進は車の窓ガラスに寄りかかりながら、ぽそりと呟く。
「おいおい、そりゃ偏見だ進。ここはあれだが、村の中心に近づけばそれなりに栄えとるんだぞ。牛や豚に関しては否定できんがな」
「これで牛車とかあったらかなり歴史を感じる村になんじゃない? ま、車があったらそんなんいらないに決まってるけどさ」
進の冗談に祖父は、静かに牛車はいい案だ、と頷いていた。
軽い気持ちで言った冗談が、村起こしのアイディアに組み込まれるかもしれなかった。しかし、この村に乳牛以外の牛がいるかどうか怪しい。
さらに村の中に入って行き、やがて家々が立ち並ぶ場所にたどり着く。
進の祖父は、一軒のでかい家の前に車を停車させた。門に名塚と書かれた表札がかけてある。この村の家はどこも二階建てだったが、この家は三階建て。
進は自分の家より遥かにでかいこの家に感動を覚えた。隣の祖父からは昔何度か来たやろ、と笑われ たが、幼いころよりも理解度が高い分それは仕方のないことだった。
進は車を降り、祖父に続き家の玄関に入っていく。
「おい、帰ったぞ」
「はいはい、お帰りなさい」
奥の扉から祖父と同年齢ほどの女性が出てきた。進の祖母である。祖母は進を見るなり駆け寄ってきて、
「まあまあ大きくなって。これでは私も歳を取るはずね」
と言って進の頭を軽く撫でる。
「ちょっ、恥ずかしいからやめて……」
手を払いのけることはなかったが、頭を後ろに逸らした。
「おう、進。部屋に案内してもらいな。わしはちょっくら村の会合に寄ってくる」
「じゃあ、おあがんなさい」
進は祖父を見送ってから靴を脱いで、キッチリ揃えて家の床に足を踏み入れる。玄関のすぐ前には階段があり、祖母はそれを上っていく。
二階に着いて一番奥の部屋に進は案内された。扉を開くなり生温い風が飛び込んでくる。その先に二十畳はある広さの空間があった。部屋の中は勉強机に丸テーブル一つ、それに小型のクーラーと生活感のカケラも感じられなかった。
「この部屋は進のお母さんが使っていたのよ。元あった家具はそっちの家にあるはずね」
「ああ……。あれ、やっぱそうなんだ……」
祖母の言葉で自室の状況が思い出される。リビングや自分の部屋に家具が置ききれないため、息子の部屋に許可もなく桐箪笥やら化粧台やらを置かれて、こじんまりしたスペースしか残っていない自分の部屋。一室一室が広いこの家の感覚を今の家に持ち込まれても非常に困る。進は自宅に帰ったら、真っ先に文句を言ってやろうと心に決めた。
「それじゃあ荷物置いて下に行きましょうか。ご飯は食べてくるって、あなたのお母さんから聞いているのだけれど。大丈夫?」
「大丈夫だよ、蕎麦食べてきてるから」
進は丸テーブルの上に荷物をそっと乗せた。一応壊れ物も入っているので配慮しているのだ。
祖母に連れられ下のリビングに足を運ぶ。
リビングは進が使う部屋の二倍はある広さだった。床は綺麗にワックスがかけられたフローリング。家具は真ん中に八人用のテーブルや液晶テレビ、食器棚それと四人掛けのソファーだけだった。
話によると昔は他にも家具はあったのだが、壊れたり不要になったり、進の母親が持っていったりしたらしい。
何でもかんでも持っていく母親に恥ずかしさを感じる進だった。
「お茶をいれてくるから、くつろいでなさいな」
祖母は台所の暖簾をくぐっていった。
「くつろぐっつっても、テレビ見るくらいしかないよなあ」
テーブルの上にあった煎餅を唇に挟んでテレビの電源を入れた。
画面には全く知らないローカル番組がやっており、芸人らしき司会者が別段面白くないコントを披露している。
チャンネルを変えてみるも夜のニュースや特に興味ないドラマしか放送されていない。仕方なく夜のニュースを見ることにした。流れるニュースもローカルのものが多く、全国のものは全体の四割にも満たない。
一番注目したのは天気予報。というよりも、これしか気になるものがなかった。週間天気予報によると、一週間快晴で日射病に注意らしい。
「進ちゃん、お待たせ」
祖母が湯気の立つ湯呑みと急須をお盆に乗せて台所から出てきた。
「あー、ありがとう。でも氷があったらもっと嬉しかったかな」
真夏に熱いものを飲み食いして汗を出す。進も家でよくやるが、気分じゃないときももちろんある。
しかも煎餅を食べて喉が渇いている今ならば尚更だ。
「そう言うと思ったから用意してありますよ」
再び台所に戻り、長めのコップ十数個の氷を入れて持ってきてくれた。さっきは一度に全部持てなかったらしい。
進は注いでもらったお茶を氷で冷やしてから一口飲む。
「…………!」
危うく飲み込んだものを吐きそうになり、気合いで胃に流し込む。
(なんだ……これ……)
口の中をかつて味わったことのない苦さが広がる。
例えるならゴーヤの味を二倍に圧縮した苦さ。つまり苦い。これはもうお茶ではなく薬草茶の域だった。
「これ……、何茶……?」
「これは自家製の薬膳茶ですよ。苦いけどとっても体にいいのよ」
予想的中、薬膳茶だった。だが、薬草茶のほうが遥かによかったかもしれない。
進は一口ですでに限界を迎えつつあったが、残りを気力で一気に飲み干した。
「うへえ、苦い……」
胃に苦さが溜まる感覚で気持ち悪くなる。
口直しも兼、台所で水を飲んで気持ち悪さは耐え忍んだ。
まだ苦さが消えないので冷蔵庫の中も物色する。残念ながら甘いものは見つからなかった。
進は諦めてリビングに戻る。
「なっ!」
リビングに戻るとテーブルを挟んで、祖母の横に赤と白が交じり合う巫女らしき服を着た女の子が立っていた。
前髪を斜めで揃え、二本のヘアピンでとめている。一瞬しか確認出来なかったが、後ろ髪はみつあみにしたお下げにしているようだった。手には茶色の紙袋を持っている。
「こんばんは」
巫女服姿の女の子に挨拶されたが、進は愕然としていて返答をよこさない。
漫画の世界、または限られた現実世界でしか拝むことのない巫女服少女が目の前に。
進は何度か口をパクパクさせ、ようやく喉の奥から搾り出したような声を出す。
「ば、ばあちゃんこの子誰さ!」
「あら、覚えてない? 小さいときよく遊んでいた、いとこの透ちゃんよ」
「透?」
うろ覚えの記憶を甦らせようと奮闘するも、健闘むなしく記憶は霧散する。なにせ九年前に会って以来なので、すっかり記憶から抜け落ちている。子供の成長は早いのだ。
仮に覚えていても九年前の姿と今の姿が一致するはずがない。
進がまじまじと透の姿を眺めていると、透は助けを請うように祖母の服を軽く引っ張った。
「あらあら、透ちゃん緊張しているのかしら?」
「そういうわけじゃないけど……」
さすがに上から下まで嘗め回すように見られては羞恥心、もしくは嫌悪感を抱くに決まっている。
進は興味に自制をし、咳払いで悪くなった空気を誤魔化す。
いまだ祖母の後ろに隠れている透を進は見据えて、
「久しぶり。僕のこと覚えてる?」
「覚えてる――って言ったら半分嘘になっちゃうかな」
「僕は覚えてるのにな。とってもいい思い出の一ページ」
「さっき私のこと誰っておばあちゃんに聞いてたじゃない。それって完全に忘れてたってことよね? なら私のほうが進君より思い出の一ページがあるってことね」
透も負けじと弁明するが、要するに進と同じく幼少期の記憶は鮮明ではないらしい。
ひどいなー、と進が冗談交じりに言うも、お互い様よ、と透は笑う。
九年ぶりの再会。少なからず不安があった二人。
会ってみれば何のことはない。不思議なほどすぐに打ち解けた。
「まさか巫女服で登場とは予想外だよ。趣味で着てんの?」
「この暑い中趣味でこんなの着る人はいないと思うわ。いるとしたら暑い気候が好きな人だけよ。よっぽどね。用があってこんな格好してるけど、あまり着たくないわ。暑いから……」
「趣味だったら面白かったんだけどな。他も凄い衣装とか持ってそうだし。ならさ、暑いのを我慢しなきゃいけないほどの用ってのは?」
「ただのアルバイトよ。村の役場で雇ってもらってるの。普通中学生じゃアルバイトできないでしょ?」
なるほどね、と進は一言。理由に納得しつつも、体よくごまかされた感は否めない。
しかし、ごまかされたのにも理由があるはず。進はそれ以上の追求はしなかった。
「そういえば伯父さんと伯母さんは? 挨拶したいんだけど」
「あの二人、今村役場で会合してるの。たぶんおじいちゃんもいるんじゃないかな。本当に会合してるのか怪しいけどね……」
「会合と言う名の飲み会に変化するわけね。これはどこだろうと変わらないな」進はやけに大きく頷いた。どうやら似たような経験があるらしい。
透がはにかみながら「お酒飲むの?」と聞くも、進には「まさか」の一言で流される。
「ところで、その手に持ってる紙袋何入ってんの? 本屋の名前書いてあるから本だよな?」
「そうよ。バイトの前に買ってきたの。この小説知ってるかな?」
透が紙袋のシールを剥がし、中身を取り出した。姿を現したのは一冊のハードカバー書籍で、全体が赤と橙のグラデーションで彩られていた。
「その本ってまさか……!!」
進が即座に異様な反応を示す。
目をこれでもかというほど大きく開き、手をわなわな振るわせる。
「これ『播磨探偵の協奏曲』か? サブタイトルは、虎穴に入らずんば虎児を得ず? 新作じゃん!」
進は目を輝かせ、本と一緒に透の手を握りしめる。
予想していなかった出来事に透は困惑する暇もなく、状況に身を任せるしかなかった。
祖母は孫たちの微笑ましい姿を見て、ただただ静かに微笑んでいる。
「なあ、この村に本屋ってあんの? あんなら今から連れてってくんない? 僕もこの本欲しいんだ!」
「えーっと、言いにくいのだけど、この町に本屋はないの。電車に乗って五つ先にある駅まで行かないと本は買えないのよ」
「げ、まじで……? あー、そういや母さんが言ってたな。この村ってコンビニもなければインターネットも通ってないんだっけ?」
「田舎だから。都会みたいに生活を豊かにしてくれるものは少ないの。よかったらこの本読む? 私他にもまだ読んでない本あるから」
透は一度も開いていない本を進の目の前に差し出した。
進は一瞬、自分の手にある本を見て生唾を飲み込んだが、すぐに本を押し返した。
「さすがに仲間、いや同志からこれを奪うわけにはいかない。これは透に読んでもらうことを望んでいるよ。だから僕のことは気にしないで」
長く遠慮の言葉を述べる進だったが、始終視線は本に釘付け。
これには透も苦笑いを隠せなかった。
「だったら今度一緒に本屋行く? 今日明日は無理だけど」
「本当か! 行く行く、楽しみに待ってるよ!!」
跳びはねて喜ぶ進は、まるで遊園地に行く約束をした小学生のようだった。
「ところで進君は登場人物で誰が好き? 私は播磨探偵の助手をする仲間警部補が好き。普段はオドオドしてるけど、いざっていうとき体を張って犯人を捕まえる姿が好きだわ!」
透は立ったまま続けて会話に入ろうとする。同じ趣味を持つ人に出会えたことが嬉しかったのだろう。一言一言に熱が籠っていた。
透の姿勢に驚くことなく、進は進で応戦体勢になる。どうやら語る気満々らしい。
「仲間警部補ね。王道どころだなー。僕は断絶播磨探偵が裏で雇ってる報道マンの車田。車田がいなかったら解決しなかった事件も多いしな。かなりのキーマンになってるだろ!」
「進君のがマニアックすぎるのよ。車田なんてほとんど播磨探偵と電話してる描写しかないじゃない。それに比べて仲間警部補は毎巻登場して活躍しているわ。犯人に刺されそうになった播磨探偵を身を盾にして守ったこともあるじゃない」
「いやいや、警部補はいいとこどりしてるだけだって。そもそも刑事が探偵に頼りっぱなしってどうよ。結局播磨探偵が犯人捕まえるだけじゃん。その点、車田はすこいぜ。一人で事件の真相に限りなく近づくからな」
「一人で? それこそおかしな話しじゃない? 電話のシーンがほとんど、実際に登場しても情報提供するだけで終わり。どんな根拠があって車田は一人で調べてるって言えるの?」
言えるさ! と進は反論し、それに透もおうむ返しに反論する。
マニアの域に達している二人は、自分と違う相手の意見をなかなか認められない。まさに甲論乙駁。
祖母は長きにわたる二人の論争を、一人椅子に座り、お茶をすすりながら眺める。
「違うって! 犯人の目的は学校の――」
「教室に飛び込んだのは警部補で――」
論争は今尚止まることを知らない。透は巫女服が暑い上に、会話に熱が入っているため額に汗が滲んでいる。着替えも風呂も完全に無視していた。
この後も二人はキャラクター評論を続け、時間は深夜にまで及んだ。