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万葉種種(ことのはくさぐさ)

神さびゆかむ

作者: 朝霧露風
掲載日:2026/10/17

  神(かむ)さびゆかむ

 都のお人は、昔のことはもう忘れましたか。

 負け戦など、忘れましたか。


 わたしら、海の民は忘れてはおりません。

 都の帝の御命令があって、わたしらは船をお出しするか、ひと月の間、あちらの島、こちらの入江、遠くの岬、近くの湊、みなで話し合った。

 その頃、海は大漁続きだったのですよ。

 だから、これは神が勝利を約束して下さった祝いに違いなし、と。

 これは戦には勝ったも同然、と。

 我らは船をお出しすることにした。

 水手(かこ)(船の漕ぎ手)もお出しすることにした。

 兵士もお出しすることにした。

 この地に宮殿を建てて、帝御一行をお迎えすることにした。


 この瀬戸の内海(うちうみ)の、あらゆる波打ち寄せる浜から海の民が集い、ここはかつてないほど賑わった。

 熟練の船乗たちは雄々しく、若者たちは勇んで、みなして船に乗ってやってきた。

 食べ物も。

 酒も。

 武具も。

 女も子供も総出で用意した。

 采女(うねめ)(土地土地の斎女)たちが集うて、帝御一行をもてなした。

 あの日々は祭りのようだった。ああ、祭りだった。

 伊予(いよ)の湯の宮と呼んでな。

 熱田津(にきたつ)の石湯(いわゆ)の行宮(かりみや)と呼んでな。

 毎夜、宴が開かれた。

 帝は月夜の宴で詠われたのだ。


 熱田津(にきたつ)に 船(ふな)乗りせむと 月待てば 潮(しほ)もかなひぬ 今は漕ぎ出(い)でな。


 そして、西へ向かって征(ゆ)き、海道(うみぢ)に就(つ)いた男たちは戻らなかった。

 そんなことがこの土地であったのだと、この内海であったのだと、ここではみな語り継いでおります。

 都では、誰も語りませぬか。

 そうか。帝も代替わりされたそうですし、都も土地をかえたと聞きますから。

 気分をあらためてしまわれたのでしょうか。

 我らは、ずっとこの土地にいる。

 だから、忘れませんよ。

 船出した男たちは戻らなかった。



 赤人(あかひと)は伊予(いよ)の湯の宮、石湯(いわゆ)の行宮(かりみや)を一目見ておこうと、寄り道した。

「おしゃべりなお爺さんでしたね」

 従人(ともびと)の歳若い甥が言う。

「泊めていただいたんだ。魚もたくさん馳走していただいた。酒の肴の語りが繰言(くりごと)に聞こえたとしても、恩があるのだから黙って耳を傾けるのが礼儀だ」

「はぁい。あの人の語った海戦(うみいくさ)、本当にあったんですか。聞いたことありませんよ」

「あったよ。わたしはそう聞いている」

「それで、勝ったんですか?」

「負けた」

「ええー! つまんないなぁ」

「つまらない、ではなく、残念、とか、悔しい、とかの言葉の方がいいね。その方が命を落とした人々に思いが広がるだろう?」

「悔しいって言いたかったんです、本当は。おじさんは言葉に敏感すぎるんですよ」

「歌人だからだろうね。ひとつひとつ、よくその一言に思い巡らせて紡ぐのが、癖になっているかもしれない」

「それで、その海戦(うみいくさ)って、どんなのだったんですか?」

「わたしも詳しくは知らない。いろいろあって、白村江(はくすきのえ)が最後の海戦(うみいくさ)だったとか。確か、崗本宮の頃のことだ」

「えーっと、ずっと昔の話ですね。二十年は前の戦だ」

 甥っ子が懸命に計算する。

「六十年か七十年ほど前だよ」

「うへえ、大昔だ」

「うん。でも、あのお爺さんは、当時を生きたんだ」

「まだ子供だったんですかね、俺より小さかった頃ですよ」

「それとも、親に聞いた話を我が事と語り継いでいるのか」

「ふーん」

「あの老人が和歌を諳んじてくれたね。あれは、崗本(をかもとの)天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)だ。きっと、この道を歩きながら、帝は歌詠(うた)を思い、詞(ことば)を練られたのだろうな」

「この、出(い)で湯を覆う木々や、さかんに鳴く鳥の囀りも、そう聞くと素晴らしいと思えてきます」

 若い甥が辺りを見まわした。

 行く手に見えてきた木々や草草がおおい隠している廃墟は、昔日(むかし)の行宮(かりみや)の跡だ。

「ここって、神々しく貴い場なんですね」

「おや、いい歌詠みがいるぞ」

「やめましょう。漢詩の勉強も、詩心の感得の旅も、歌詠みになるため。おじさんのお陰で山部の一族は、ただの山守じゃないくらい地位を上げました」

「わずかばかり、だがな」

「誇りです。帝の旅に従駕(じゅうが)する人が一族から出て、歌を献上するなんて。でも一族がどんなに期待したって、次代の歌詠みは俺には無理です」

 赤人(あかひと)は笑った。

「ああ、海が見えるな」

 険しい伊予の高嶺の射狭庭(いざにわ)の丘まで登ると、視界が開けた。

 海だ。

 真っ平らな海に深い青の潮が織り合っている。

 赤人(あかひと)は陽の光を抑えるように手をかざして海を見晴らした。

 大和の方へ向かっているのは、熊野の船か。

「おじさんだったら、どう歌を詠みます?」

 問われて、山部赤人はしばらく考えに耽った。


 ももしきの 大宮人(おおみやびと)の 熱田津(にきたつ)に 船乗りしけむ 年の知らなく

(万葉集 巻第三 323)





田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける


百人一首にも採られたこの和歌で知られる山部赤人の名前は、史書には出ておらず、生没年も未詳。

宮廷歌人か、下級官人か。藤原不比等の資人(召使)説もあると見かけたけれど、本当かしらん。

山部赤人の和歌が詠まれた年がわかるものは、724年と736年の聖武天皇御幸の従駕歌。

熱田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば〜〜の和歌は、661年に詠まれたもの。

額田王の作とも、斉明天皇の和歌とも記されています。

白村江の戦は663年。

それから、近江遷都、壬申の乱、飛鳥遷都、大津謀反、持統即位、藤原京遷都、文武元明元正即位、平城京遷都、聖武即位が724年、大仏建立の詔は743年。その間、80年。

熱田津は今の愛媛県にあったらしいけれど、正確な場所は不明。

熊野は当時、船を造っていて、熊野の船は良い船だった。(944)

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