第零夜突破──初喰《はつがみ》 第一夜《夢芽》到達
黒い霧が叫び、通路の天井がビキッと割れる。
天井から黒い“脈”が滴り、じゅっ、と空気を腐らせた。
お爺さんは笑ったまま、前へ一歩。
でもその歩幅は、ただの一歩じゃなかった。
老いた背中が、世界ごと押し広げるみたいに大きく見えた。
「ほう……まだ噛みつくか。ええじゃろう──最後の飯じゃ」
その声は静かなのに、震えるくらい強かった。
イーターが再び咆哮する。
音じゃない。思考を噛み砕くような、原始の殺意。
僕の膝が勝手に震えた。
一歩も動けない。心臓が逃げ出したがっている。
「リオリス。後退を推奨します。あなたの死亡確率、100%です」
イヴァの冷淡な声。
それなのに、不思議と僕の心は震えて笑いそうになる。
──ああ、死ぬってこんな感じか。
でも、前で立つその背中は、そんな現実を踏み潰すような存在感だった。
「坊主」
お爺さんが言った。
「死ぬのは怖いか?」
喉が乾いて声が出ない。
それでも、僕は震える唇でどうにか返す。
「……怖いよ。だけど……夢だけは、失いたくない」
情けない震えた声を聞いて、お爺さんは満足そうに笑った。
それは、戦士が最後に見る景色を見届けた者の笑みだった。
「なら、生きろ」
次の瞬間──お爺さんの姿が消えた。
いや、違う。視界から消えるほど速い。
黒い影と白い骨が弾け、触手が破裂し、霧が焼ける。
丸まった小さな背中から放たれたとは思えない轟音が辺りに響き、骨ばった手に握られたナイフがイーターを断ち切っていく。
「喰ってみろや、化け物ォ──ッ!」
獣の咆哮。
夢の残響。
想いの力。
世界そのものが裂けるような一閃。
黒い霧が悲鳴をあげ、のたうち回り、崩れ……それでも、まだ残っていた。
イーターの核──脈動する黒い“心臓”が。
「ちッ……まだ残っとったか……」
お爺さんがよろめいた。
半身が崩れかけてる。骨の影が透けて見える。
血じゃない。夢が、こぼれて消えていく。
この人はもう、“人”じゃない。
夢に喰われ、生き延びた化け物。
でも──その背中は誰よりも“英雄”だった。
刹那、黒い触手がお爺さんの胸を貫く。
「ッ……!」
「お爺さんッ!?」
骨が砕ける音、夢が悲鳴をあげる音。
でも笑ったままだった。
「……坊主、名乗り忘れたが儂の名はラドン。唯のラドンじゃ。
過去に囚われ、夢に喰われ、自ら死ぬ勇気もなくのうのうと生きていた老いぼれよ。
だがしかしな、坊主だけには儂の名を覚えていて欲しかった」
彼のしわくちゃな手に握られな古びた短刀。
その黒銀の刃が、通路の薄光を受けて鋭く瞬いた。
それはどんな魔法より、呪いより、誓いより重く鈍い光に見えて止まない。
「リオリス……名を持つ者よ」
ラドンは振り向かない。
視線は敵を睨んだまま、刃だけを後ろへ突き出した。
「この刃には、これまでの儂の夢を預けていた」
深く、低く、燃えるような声。
「挑み、散り、なお残った“証”じゃ。諦めぬ心が刃となった」
彼は震える指で柄を押しつけるように僕へ渡す。
その重さは……鉄よりも、願いよりも、苦かった。
「名を刻め。これは──」
ラドンの眼が光る。
最期の、誇り高い戦士の眼。
「継夢刀。喰らうための刃に非ず。
途絶えた夢を次の光へ繋ぎ、悪夢に反逆するための刃じゃ。
そしてこの刃を、儂はお前に託す」
血と息がこぼれ、けれど声は最後まで揺らがなかった。
刃が僕の胸元に落ちてくる。
震える手で受け止めた瞬間──
『腰を低く構えろ』
『刃は押すんじゃない、滑らせるんだ』
声が響いた。
一人じゃない。
この刃には“誰かの夢”がいる。
そして、ラドンは最後の一歩を踏み出す。
「行けぇぇぇッ……!
お前は──喰う側に立てッ!生きて夢を喰らえ!
そしていつか儂の代わりに、強気な女の臀を揉んでやるのじゃァッ!」
そのことばを最後に。
「ウォォオアアア───ッッッ!!!」
黒い核に、自ら飛び込んだ。
自爆じゃない。
“夢の全て”を、敵の心臓にぶつけた。
世界が裏返るみたいに光が弾ける。
そして──ラドンは消えた。
ただ一言だけ、夢の残り火のように残った。
「……生きて、夢を喰らえ」
静寂。
灰のような霧。
黒銀の短刀だけが、温かい。
「それで、何だっけ。
強気な女の臀を揉む、だっけ?……破天荒なお爺さんだったな
でも、確かに受け取ったよ」
右手に握る無骨なナイフ。
ラドンから受け継いだそれを握り、僕は息を吸い込んだ。
焼ける肺を無理やり動かし、血と熱を飲み込
む。
「僕が──この夢を喰らう」
イヴァが静かに告げる。
「観測します。
リオリス、精神汚染率上昇。
識別:夢喰らい《ドリームイーター》──覚醒兆候」
僕は震える脚で立ち上がる。
世界が赤く、黒く、滲む。
「……行こう。まだ、終わってない」
恐怖はある。
弱いのも分かってる。
でも、夢だけは失わない。
ここからが、僕の伝説だ。
光が弾けて、闇が溶けた。
霧だったイーターの肉が崩れ、黒い核だけが残る。
脈動。脈動。脈動。
それはまるで、吐き出された“悪夢の心臓”。
僕は膝をついたまま、しばらく動けなかった。
胸が痛い。
呼吸が空気じゃなくて、火を吸ってるみたい。
「……ラドン……さん」
返事はない。
もう、この世界のどこにも。
代わりに──
『立て、坊主』
刃を握る指先に、声が震えたみたいに響く。
低くて、優しくて、命を燃やした人間の声。
僕は喉を震わせて笑う。
泣く代わりに、笑うしかなかった。
「……行くよ。最後まで。全部」
イヴァが静かにこちらを見ていた。
表情は変わらない。
でも、さっきまでより少しだけ──近くに立ってる気がした。
「リオリス。生命反応:限界値付近。
継戦は非合理です。ただちに継戦を離脱することをお勧め致します」
静かで感情を感じさせない碧眼が僕を射抜く。
けど何故か僕には、その瞳が不安で僅かに揺れているように思えた。
もしかして、心配してくれているのだろうか?
でも、だとしても僕は──。
「合理とか知らない。僕は──」
僕は刀を見た。
黒銀の刃。
傷だらけで、でもどんな剣より美しかった。
「ここで倒れたくない。僕は、伝説になる男なんだ」
イヴァは瞬きせずに言う。
「目標設定:英雄。
達成確率──現在は、0.00001%」
「ふふっ、いいね。目標はやっぱり高くないと」
口角が上がる。
怖い。震えてる。痛い。
だけど、それでも今は──前に進みたい。
眼前。
黒い核がまだ脈打っている。
ドクン──ドクン──。
“喰われる前に喰らえ”
ラドンの残滓が、刃の奥で囁いた。
『腰を落とせ、坊主。殺すんじゃない──奪うんじゃ』
僕は立った。
脚が折れるたび、意地で立てた。
黒核が、赤い目みたいに僕を見た。
イヴァが警告する。
「対象残存核、活性化。
リオリス、接触すれば再殺されます」
「大丈夫だよ」
刀を構える。
教わったばかりの体勢。
低く、深く──夢を喰らう者の姿勢。
「僕、もう一回死ぬ気なんてないから」
核が咆哮した。
音じゃない。
魂を噛む、咆哮。
黒い影が伸びる──触手の残滓。
でも僕の腕は動いていた。
『押すな。滑らせろ』
刃が震え、光る。
黒核に薄く触れる。
一瞬──。
ザクリ
核が裂けた。
黒光が弾け、僕の胸へ逆流する。
熱い。熱い。熱すぎる。
骨が軋む。脳が焼ける。血が逆流する。
視界が黒と赤の渦に染まる。
──あぁこれ、僕が死んだ時と、同じ。
『違う。
死ぬんじゃない。
喰ってるんじゃ』
声が導く。
黒い光が僕の喉に、胸に、心臓に落ちていく。
ズブリ
ズズズズ……。
夢が、流れ込む。
その夢は、醜くて、怖くて、叫んでいた。
『勝ちたかった
死にたくなかった
置いていかれたくなかった』
それはラドンじゃない。
あの怪物の夢。
敗者の夢。
僕の中で渦巻く。
「う……あぁ……ああああああッ!!」
喉から声が漏れた。
腕が破裂しそうな程の衝撃と、吐き気を催すほどの目眩。
熱と寒気が襲い来る中で、何かが体内で噛み合い始める。
そして──
ドクン!
心臓が爆ぜた。
黒い霧が、僕から弾け飛ぶ。
皮膚を焼く光。
骨を撫でる影。
肌が焼けてしまいそうなほどの熱気が頬を擽り、荒れ狂う激情が心の中で暴れている。
──喰らえ。
──己の糧にしろ。
──お前なら出来る。
間違いない。
僕は異形を喰っているんだ。そして、僕の力が弱いせいで、心の中で暴れている。
グルグルと吐き気が込み上げてくるほどの荒れた想い。
そのせいで喉は焼け、肺は悲鳴を上げ、
内臓がひっくり返るみたいにぐちゃぐちゃで。
いつの間にか僕はぶっ倒れていた。
汗と涙で顔はぐちゃぐちゃで、それでも心と身体は痛みを訴えてくる。
でも舐めちゃいけない。
こちとらあのハゲに何度もボコボコにされているんだ。今更このくらいヘッチャラだ。
……いや、全然痩せ我慢だけど。
けれどそう思わないと、苦しくて死んじゃいそうになる。
でも。
それでも。
なんとか僕は。
「………勝て、た…?」
勝利を掴みきった。
残ったのは、あの異形の残りカスのような黒い塊と、力が入らなくなった両腕を下ろした僕。
今はもう、荒れ狂うような激情を心の内で感じない。
気持ち悪さも苦しさもすっきりなくなり、僕がラドンとあの異形の夢を喰らったのが分かった。
「あー……二度とやりたくない。あんな劇物も、もう食べたくない」
息を吸う。
まだ痛くて、でも確かに生きてる。
倒れた僕の横でイヴァが淡々と、しかし驚きを込めたような声色で告げた。
「観測結果──
夢階深度:第一夜《夢芽》──到達。
……信じられません」
僕は血の味のする息を吐いた。
なんとかナイフを持ち上げて、天井にかざす。
傷だらけの黒い刀身は、燻まずに鈍く輝いていた。
「……ありがとう、ラドンさん」
刃が静かに震えた。
それはきっと、肯定の震え。
そして僕は笑った。
涙は出なかった。
代わりに、胸の奥で火が灯る。
「さぁ、イヴァ。行こう」
のっそりとした動作で立ち上がった僕に、イヴァが淡々と言い放つ。
そういえばさっき、かなり驚いてたように見えたけど……まぁ、気のせいでしょ。
「出口まで徒歩12分。生存確率は90%です」
「あれ、出口までの場所は教えてくれないんじゃなかったっけ?」
「……今回の順当な報酬です」
「それはそれは、やる気が出まくりだ」
僕は刃を握り、歩いた。
たった一歩から──伝説は始まる。
闇の中で、誰かの声が微かに囁いた。
『喰って、進め。
そして──夢を見続けろ』
「あぁ、勿論」




