老人と憧れ
小走りで進んだ通路の奥は、かすかな脈動を続けていた。
壁の奥を血が流れているみたいに、ぬるい熱が伝わってくる。
僕は無意識に自分の胸を押さえていた。
「……ねぇ、お爺さん」
「なんじゃ、坊主」
「ここまで来て、後悔とかないの? こんな場所に閉じ込められてさ」
お爺さんは短く笑った。
その笑いには、どこか懐かしい響きがあった。
薄暗い通路に響く低い声は、古びた酒場の木椅子みたいに軋んで、温かみがある。
「後悔? そりゃ、あるさ。だがそれも“夢の味”のうちじゃ」
「夢の……味?」
「わしも昔は、お前みたいなガキだった。
死ぬほど怖がりで、それでも“頂き”を目指してた。
仲間もおったよ。腕の立つ女剣士と、口の悪い魔導師とかな」
少しだけ、声が遠くを見ていた。
焚き火の明かりに照らされる横顔は、かつての“戦士”の影を残している。
通路の壁の光が彼の頬をかすめ、老いた皮膚の皺に光が滲んだ。
それはまるで、過去の残光が今でもそこに燃えているみたいだった。
「みんな、夢を見た。誰もが“王”になれると思っとった。
けどな──夢は喰う側にも牙を向けるんじゃ」
「……みんな、死んだの?」
お爺さんは答えず、しばらく黙って歩いた。
足音が重く響き、通路全体がその音に呼応するように震えた。
やがて、彼は小さく呟くように言った。
「わしだけが、生き残った。夢を喰らってな」
その一言に、空気が少し冷たくなった気がした。
僕の背筋を、冷えた風が通り抜ける。
「……」
「だから、坊主。お前さんの言葉がちと眩しい。
“夢を失いたくない”なんて、よう言えたもんじゃ」
「僕は……」
「ええんじゃ、それで。わしはその言葉を、もう言えん。
だからこそ、お前に聞かせてもろうて嬉しいんじゃ」
イヴァが横から冷静に言葉を差し込む。
その声はまるで水面に落ちる雫みたいに、静かで冷たい。
「情動パターンに変化。感情値:微上昇。
彼はかつての魔性探索者の中でも最上位です。夢階深度───恐らく“七夜”相当」
「分析しなくていいから。ていうか、夢階深度ってなにさ?」
「分析ではありません、観測です。夢階深度については、そちらの老人の方が私よりも詳しいかと」
「教えてくれないんだ」
僕のボヤキが掻き消されるように、お爺さんの足音がひときわ大きく響いた。
通路の奥では、どこかで何かが蠢くような音がしている。
それでも彼は立ち止まり、どこか懐かしそうに笑った。
「……そういえばのう、坊主」
「ん?」
「さっき言うた、仲間の女剣士の話じゃがな──あやつは、ええ女だった」
「へぇ。なんか意外だね。お爺さんにも、そういう話あるんだ」
「あるとも! そりゃもう、見目麗しく、強く、優しい。
夢に生きる女ってのは、あんな風になるもんじゃ。すけべな臀をしておった」
「すけべな臀……」
お爺さんの声がわずかに弾む。
通路の血のような脈動音が、彼の思い出に混じるように鳴った。
あのときの彼は、たぶん“飢えた老人”ではなく、“夢を追った青年”に戻っていた。
「でな、わしは何度か“言おう”と思ったんじゃ。お前が好きだ、ってな。
だが……言えなかったんじゃ。うぅむ、あの時抱いておけば……っ!」
突然、彼が拳を握りしめて吠えた。
拳を握る骨の軋む音が通路に響いて、僕は思わず後ずさりする。
彼の顔には後悔とも笑いともつかない感情が浮かんでいた。
「お盛んだね……」
「坊主、お前は童貞か? もしそうならば───」
「いやいや違うから!? なんでそうなるの!?」
「ふむ、怪しいのう。顔が赤いぞ」
「赤くないっ!」
イヴァが首を傾げながら、冷静に一言。
「リオリス、体温上昇。感情値:照れ、分類。
性行為への関心レベル:35%
──交尾欲求、発現?」
「ちょっ、言い方ぁぁぁぁぁ!!!」
通路に僕の声が反響した。
壁の奥の脈動が一瞬だけズレて、まるでこの空間そのものが笑っているみたいだった。
──草。
──チェリーボーイが恥ずかしがるな。
──童貞でもいいじゃないか
……おい、群れ達。
お前らいい加減にしろ。
特に草なんて言ったやつ、それ三十年以上前の死語だからな?
それに何度も言うけど、僕は童貞じゃない!
けれどここでまた変に否定したら、逆に肯定しているようになる気がして堪えた。
くそ、負けた気がする。
イヴァは瞬きひとつせず、お爺さんは腹を抱えて笑っていた。
そして──。
お爺さんは笑いながら、やがて静かに息を吐いた。
笑い疲れたように背を丸め、ぽつりと呟く。
「……あの女も、こんな風に笑ってくれたら、良かったんじゃがな」
その言葉と同時に、通路を照らす薄赤い光がゆらりと揺れた。
冗談のあとに残る寂しげな一言が、やけに胸に刺さる。
彼の横顔には、ほんの一瞬だけ、燃え尽きた戦士の影が見えた。
空気が沈黙を抱きしめるように重くなり、
僕はただその背中を見つめていた。
その刹那──空気が、止まった。
それはまるで世界そのものが一瞬、息を潜めたかのようだった。
壁を伝う脈動が途絶え、ぬるい熱がスッと引く。
次の瞬間、肌を刺すような“寒気”が通路を這った。
「……お、お爺さん?」
僕が声を出すと、お爺さんは片手を挙げて制した。
その仕草には、長年の経験で染みついた静寂の重みがあった。
「止まれ、坊主」
老いた声なのに、妙に深く響いた。
心臓が、勝手に一拍遅れる。
イヴァが前へ出る。
瞳が淡く光り、周囲をスキャンしていた。
「空間異常。前方五十メートル先――不定形の生命反応を確認。
……脅威値、夢魁程度。
警告します。このままでは貴方たちは全滅、死は免れません」
淡々と事実を述べるようにイヴァが告げる。
夢魁?七夜?さっきから分からない言葉だらけでよく分からない。
それでも何となく、今の僕がどれだけ強くなろうと、かすり傷すら負わせられないだろうなっていう予感がした。
お爺さんは短く息を吐くと、ゆっくりと顎を上げた。
その顔に浮かんだのは──笑み。
けれど、さっきまでの柔らかいものじゃない。鋭く、獣みたいな笑みだった。
「まさか……“まだ”生きとったか。あの喰い残しめ」
通路の奥。
黒い霧のようなものが、ぬるりと湧き上がった。
血と鉄を腐らせたような匂いが鼻を刺す。
空気が揺らぎ、壁が軋む。
「……なに、あれ」
声が震える。
闇の中で、赤い光点がいくつも瞬いた。
目のようで、目じゃない。
見ているだけで、吐き気が込み上げてくる。
「対象、“多夢喰型異形”それの上位種です」
イヴァが淡々と告げる。
「分類:多核共喰型。脅威指数、未知数」
「ふん……懐かしい顔ぶれじゃねぇか」
お爺さんが小さく笑った。
その手が、腰の古びたナイフをゆっくりと抜き取る。
刃が空気を裂いた瞬間、通路全体の温度が上がった気がした。
僕は息を呑む。
目の前の老人が、まるで“別人”みたいに見えた。背中が果てしなく大きく見える。
存在そのものが、空気を押し返している。
「坊主、下がっとけ。こいつは、“夢を喰らう者”の中でも格が違う」
また出た、夢を喰らう者。
僕も群れによって敗者達の夢、その残り火を喰らった?らしい。自覚はないけど、身体は覚えてる。
──怖い。
──恐ろしい、悪夢だ。
──我らはアレに負けた。
──憎いッ!憎いッ!
だから分かった。
僕の中の敗者の群れの一部が、あの存在に恐怖していることに。
「そっか、君たちはアレに敗れたんだ……」
イーターが吠えた。
壁という壁が破れ、黒い触手が通路を這う。
それは肉でも金属でもない──まるで“夢そのもの”が形を持ったようだった。
イヴァの声が冷たく響く。
「戦闘行為は非推奨です。あなたの身体機能は限界に近い」
「知っとるわい。だが──それでもええ」
お爺さんが獰猛に笑う。琥珀色の瞳が燃える。
まるでこの瞬間だけが生きる理由だと言わんばかりに。
「坊主、よう見とけ。
“夢を喰らって生きる”ってのはなァ……こういうことじゃ!」
お爺さんの腕が、淡く光を放つ。
黒銀の紋様が浮かび上がり、通路の壁が震えた。
熱が走る。
それは魔法でも技でもなく──“魂そのもの”が燃えているようだった。
「な……なんだ、あれ……!」
僕は言葉を失った。
理解できない。
でも、本能が告げている。
この人は人間じゃない。夢を喰らって“何か”になった存在だ。
イーターが吠えた。
闇が弾け、触手が襲い掛かる。
お爺さんは一歩踏み出し、腰元に下げていたナイフでただ一閃──瞬間、空間が裂けた。
熱風。
衝撃。
黒い塊が悲鳴を上げて崩れる。
「これが、七夜の──」
イヴァの声がかすかに響いたが、その意味を僕は理解できなかった。
ただ、見ていた。
老いた背中が、光に包まれ、夢と現実の境界を焼き尽くすのを。
その姿が、あまりにも──“英雄”だった。




