亡者の記憶
商人たちの積み荷には、手をつけなかった。
貴重な薬草、保存食、簡素な銀細工。
あらゆる品々が無防備に晒されていたにもかかわらず、アシェルの指は一度も伸びなかった。
欲しかったのは、物ではなかった。
そして、既に手にしてしまった。
赤に染まった雪は、背を向けたあとの風で少しずつかき消されていった。
踏みしめる足跡をたどり、小さな山小屋へと辿り着いたのは、夕暮れが迫る頃だった。
壁に染み込んだ古い木の匂いと、かすかな灰の残り香。
誰かがかつて住んでいた気配を残したまま、静かに佇んでいた。
アシェルは扉を閉じ、剣を床に置き、壁にもたれかかるようにして座り込んだ。
視線を上げた先には、何もない天井。
それなのに、脳裏にははっきりと残っていた。
──剣を振るった感触。
──首を落とした瞬間の音。
──助けてくれたはずの男が、血を吐いたその顔。
「……助けようと思っていたのに」
口に出した言葉は、まるで他人事だった。
嫌悪はあった。
けれど、後悔は滲まなかった。
あの時、振るった剣が空を切ることのないように願っていた。
誰かに斬りつけることでしか満たされない熱が、自分の中に確かに存在していた。
アシェルはゆっくりと手を持ち上げ、先ほど《鑑定師》の男が落としていったレンズを取り出す。
そして、自分の掌にそれをかざした。
皮膚の下から、淡く光が滲み出す。
まるで何かが“読み取られていく”かのように──手のひらに、いくつもの“名前”が浮かび上がった。
《蒐集家》
《芸術家》
《殺戮者》
《医術師》
《風読み》
《商人》……
ひとつひとつの心紋が、明確な“文字”として刻まれている。
それは単なる象徴ではなく、確かにこの身の内に宿っている力の断片を証明していた。
「見るたびに違う」と怯えていた、あの《鑑定師》の言葉。
だが今のアシェルの目には、それらの心紋が──同時に、重なり合うことなく並んで見える。
おそらくは、すでに集めた心紋の数に比例して、《鑑定師》としての力もまた強化されているのだろう。
力は確かに強くなっている。
本来の持ち主を、とうに超えて。
けれどそれは、何かを積み上げた成果ではなく、
ただ奪い、重ね、捨てられないものが溜まっていっただけの、亡者の記録だった。
アシェルは掌をそっと閉じた。
まるでその痕跡が見えなくなるように。
雪が窓の外に降り続いている。
この夜は、きっと長く冷たい。
そして明日、またどこかで。
彼は、新たな“贈り物”を拾うことになるのだろう。
それからアシェルは、名を変え、身分を偽り、旅を続けた。
もちろん、そのすべてに《蒐集家》として得た心紋の力を用いていた。
ある街では、《芸術家》として裕福な家族の肖像画を描いた。
またある村では、《医術師》として山あいの病人を癒し、薬を処方した。
ときには、《鑑定師》として密かに招かれ、生まれたばかりの子の心紋を占うこともあった。
それはまるで、自分自身が受けた過去の儀式をなぞるようだった。
そして……
《殺戮者》としての衝動に身を委ねることもあった。
初めのうちは、あくまで衝動のせいだと思っていた。
けれどいつしか、“蒐めること”そのものに、快楽に似た満足を覚えている自分に気づいていた。
蒐集家の本質。
それはきっと、悦びと罪の境界を曖昧にするもの。