ただひとり
朝の冷気がまだ空気の中に残るうちに、アシェルは村を抜け出した。
幸運にも、街道沿いで休憩していた旅の商人たちと遭遇する。
数台の荷馬車に荷を積んだ一行で、少し離れた町を目指す途中だという。
「どこまででも構いません。道すがらで降ろしていただければ」
深く頭を下げるアシェルに、商人の一人が苦笑しながら荷馬車の隅を指さす。
「変わった荷物だな、坊主。だが乗れ」
アシェルは素直に礼を述べ、その馬車に乗り込んだ。
馬車の揺れはかすかな眠気を誘ったが、緊張と冷気で意識が冴えていた。
どれほど時間が経ったのか。
急に車輪が止まり、騒然とした声が響いた。
「止まれっ! 動くな!」
怒号、悲鳴、馬のいななき。
アシェルは反射的に飛び降りた。
目の前に広がっていたのは、雪解けの名残を残す林縁の開けた場所。
踏み荒らされた雪の上に倒れているのは、数人の商人。
そして赤黒く染まった雪。
盗賊だ。
積み荷を狙ってか、それともただの気まぐれか。
人数は多くない。だが刃を手にした彼らは、ためらいなく人を斬る者たちだった。
アシェルはまだ気づかれていなかった。
背後に森を背負い、逃げようと思えば逃げられる。
(今なら、逃げられる)
だが、アシェルはその場に立ち尽くした。
逃げるという選択が、心に響かない。
血に濡れた空気、倒れ伏した者たちの呻き声。
それらが、心の奥に渦巻く“何か”を揺さぶる。
(正当防衛だ)
そう言い聞かせる。
敵意を向けられた瞬間、自分も刃を取って立ち向かう。
それは許されるはずだ。いや、そうでなくても──
(殺されるかもしれない)
その可能性に、喉が乾いた。
殺すか、殺されるか。
どちらに転んでも、自分の中の《殺戮者》が悦ぶと知っていた。
それに抗えなかった。
胸の奥に渦巻く甘い熱が、アシェルの手を剣に伸ばさせた。
足音を雪に沈め、アシェルは剣を握りしめたまま盗賊の背後へと歩みを進めていた。
風は静かで、雪解けの水音がどこか遠くに響く。
目前に迫る敵。その背中には隙がある。
刃を振るえば、命を奪える──そう思った瞬間、足元でわずかな動きがあった。
アシェルの足が止まる。
視線を落とすと、雪を赤く染めた血溜まりの中に、ひとりの男が横たわっていた。
商人の一人。
喉を深く裂かれ、声も出せぬほどの重傷。
その男は、震える指をアシェルのほうへと伸ばし、何かを伝えようとしていた。
「……っ……」
声にはならなかった。
けれど、その目は確かに語っていた。
──逃げろ、と。
アシェルの中で、《医術師》の知識が瞬時に働く。
この出血量、この傷の深さ、この呼吸の乱れ──
助からない。もうすぐ死ぬ。
それを理解した瞬間、アシェルの中に“何か”が入り込んでくるのを感じた。
脳の奥に、魂の隙間に、静かに染み入るように。
あの《医術師》の時と同じ。
看取った村人たちのときとも同じ。
──またひとつ、心紋を受け取った。
男の生き様、その残滓、その最後の想い。
だが今回は、能力らしき知識や力の断片は浮かばなかった。
ただひとつ、確かなのは。
《殺戮者》の衝動が、また一段と深く、強く、熱くなったこと。
アシェルは目を細め、静かに男の顔を見下ろす。
すでにその眼差しに光はなかった。
「……安らかに」
心の中でそう呟き、再び立ち上がる。
敵の背はまだこちらに気づいていない。
剣を握る手がじんと熱を帯びていく。
胸の奥で疼く悦びが、身体を突き動かす。
かすかな笑みが、アシェルの唇に浮かびかけて──
彼は、再び足を踏み出した。
雪混じりの風が舞う中、アシェルは一歩、また一歩と足を進める。
三人の盗賊が血に染まった雪の上に広がる積み荷を囲んでいた。
その気配に、ひとりが先に気づく。
「……なんだ? ガキか?」
気を抜いた声とともに、ナイフを手にした盗賊がこちらへと歩み寄る。
アシェルは応えない。ただ、歩みを止めず、静かに剣を抜いた。
その刃は白銀のように冷たく、曇りの空すら映し込まない。
「は? 冗談だろ……」
男が目を細めたときには、すでに遅かった。
アシェルの剣はまるで獣の牙のように振り下ろされ、男の肩口から斜めに切り裂いていた。
返り血が舞い、白い雪を染める。
悲鳴をあげる暇もなく、男は崩れ落ちた。
「なっ……!」
残りの二人が武器を構えるが、アシェルの動きは止まらない。
体が自然と動いていた。
どこを狙えば命を絶てるか。
どこから切れば、相手の反撃を封じられるか。
まるで戦いの記憶を、その体に刻まれてきたかのように《殺戮者》の力が、彼の意識を上回っていた。
「この……ガキがッ!」
突き出された短剣を、紙一重で避ける。
足を一歩滑らせ、相手の懐に潜り込むと、剣を横に払った。
赤が弧を描き、二人目の盗賊が喉を押さえながら崩れる。
息を乱すこともない。
震えることもない。
ただ冷たく、淡々と。
これが、自分。《殺戮者》の力を取り込みながら生きる者の姿。
三人目が後退しながら、視線を宙に彷徨わせた。
「お、お前は……何なんだ……?」
その男の手には、宝石のはめ込まれた小さなレンズ──《鑑定師》が使う心紋を読む道具が握られていた。
「俺には、わかるはずなんだ……心紋は魂の色だ。なのに、お前のは……見えない……!
見るたびに違うんだ……《医術師》かと思えば、《風読み》かと思えば、今は……《殺戮者》……!」
男の声は恐怖にかすれていた。
アシェルの目は、その言葉にも反応しない。
《鑑定師》の喉に剣を突き立てる。
力なく雪の上に落とされた小さなレンズを拾い上げた。
そして、盗賊の背後で血まみれになりながら震えている、生き残った商人の姿が目に入る。
助けてくれたはずの人間。
けれどその姿を見ても、心にわくのは同情でも安堵でもなかった。
「……ああ……」
その喉に刃を当てようと、剣を振りかけたその瞬間。
アシェルの動きが止まった。
呼吸が乱れる。
「……は、ぁ……」
それは衝動に支配された自分を、自分で認識した瞬間だった。
──自分は、もう人を区別できていない。
誰が敵で、誰が味方か。
誰を守るべきで、誰を殺すべきか。
その境目が、どんどん曖昧になっていく。
膨らむ悦びと高揚。
心の奥で「もっと」と囁く声。
アシェルは、剣を下ろした。
その手が、かすかに震えていた。
彼の足元に、血が広がる。
赤の中でひとり、彼は静かに息を吐いた。
生きているのは自分だけだと理解した瞬間、ようやくアシェルは止まった。
その静寂の中、雪がまた一つ、肩に落ちた。