雪の降る、出発の朝
父を襲った魔物の姿、喉元に迫った牙。
その時に感じた死の気配と、剣を振るった瞬間の“解放感”。
それが忘れられなかった。
剣先が弟の鼻先に迫ったときもそうだ。
その小さな命が、ほんの少しの力で失われていたかもしれないという想像。
──その一瞬、胸の奥が熱を帯びた。
否定したい。
だが、アシェルはもう認めざるを得なかった。
悦びを感じていたのだ、と。
《殺戮者》としての衝動。それが明確に自分の中にある。
しかも、それは日に日に強まっていた。
「……もう、いくつ集めたんだろう」
誰にも聞かれることのない、独り言。
死に際に立ち会い、心紋を蒐集するたびに得られる知識と感覚。
その積み重ねは、確かに自分を強くしている。
だが同時に、何かが確実に壊れていくのを、アシェルは感じていた。
もう、元には戻れない。
季節は冬になっていた。
雪に閉ざされ、屋敷の外に出ることも少なくなる。
人々の動きが止まり、命のやり取りが遠ざかる。
そんな日々のなかで、アシェルの内に巣食う《殺戮者》の欲求は、次第に家族へと向かい始める。
母の首筋。弟の細い手。父の背中──
ふとした拍子に視界に映るそれらが、妙に鮮明に焼きついて離れなかった。
「ダメだ……」
アシェルは震える指先を胸に押し当て、自室の扉を閉めた。
衝動を抑える唯一の術。
それは絵を描くこと。
キャンバスに向かい、筆を握る。
描くのは、誰のものともわからない人間の体。
開かれた腹部、割かれた胸、赤く染まった喉。
切り裂かれたその向こうにある臓器の配置、骨の曲線、血管の走り方。
それは、美しかった。
《医術師》の心紋から得た知識が、それを緻密に導いてくれる。
ただの残酷な絵ではない。
解剖図とも違う。
それはまるで、命の中に潜む芸術のように。
筆を走らせるたび、アシェルは少しだけ正気を保てる気がした。
だが同時に思う。
──もし、筆の代わりに剣を握っていたら。
この絵の中の赤が、本物の温度と匂いを伴っていたら。
考えるだけで、指先が疼いた。
「……僕は、壊れてしまったんだな」
かすれた声で呟いたその言葉は、暖炉の灯だけが照らす静かな部屋の中で、雪のように静かに消えていった。
そして、書き上げた絵を手に取り、暖炉の中にそっとくべる。
ぱちり、と火が絵に走り、燃え広がっていく。
乾いたキャンバスが裂け、油絵の具が焦げる独特の匂いが立ち上る。
アシェルはその匂いを逃すように、窓を少し開けた。
そこから吹き込む冬の風と、細やかな雪が、彼の肌をかすめる。
冷たさが火照った頬を撫でるようにして通り過ぎた。
焼けていく赤。
舞い落ちる白。
何かが終わり、何かが始まりそうな予感だけが、静かに胸の奥に積もっていった。
まだ春の気配も遠く、雪が残る道が足音を吸い込むような朝だった。
空は鈍く曇り、陽は昇っているはずなのに、薄明のような薄闇が家の中にまで入り込んでいた。
アシェルは、その日、家を出る決心をした。
春から王都の学園に通うことは、以前から決まっていた。
家族や、幼いころから顔を見知った使用人たちにさえ抱くようになった衝動。
それを絵にぶつけることでどうにか抑えてきたが、それも限界が近づいていた。
──これから出会う、知らない人々に。
自分は、その衝動を抑えることができるのだろうか。
学園での暮らしにおいて、不気味な絵を描く少年、として奇異の目を向けられるのは避けられないかもしれない。
それがやがて「領主の息子」であるという家名に影を落とすかもしれない。
そして最近、父の目が変わってきた。
心配の色をたたえたあの目は、時折、探るように細められ、まるで何かに気づきかけているかのようだった。
父が恐れを抱くのではないかという不安。
いや、その恐怖に歪む父の顔を、どこかで見たいと思っている自分。
その可能性に、アシェル自身が怯えていた。
だから、何も言わなかった。
手紙も置き手紙も残さず、ただ、静かに家を出ることを選んだ。
厚手の外套を羽織り、必要最低限の荷物だけを鞄に詰め、
暖炉の火も落ちたままの静まり返った屋敷の廊下を歩き、
まだ眠りにつく夜のような朝の闇の中へと、一人で踏み出した。
外は静かだった。
時折、木の枝から落ちる雪の音だけが耳に届く。
街道は白く煙り、見通しの利かない先へと続いている。
けれど、アシェルは迷わなかった。
このままでは、家族を壊してしまう。
その確信が、すべてを押し出していた。
雪を踏みしめながら、アシェルは一度だけ家を振り返った。
そして二度と戻るまいと、胸の奥で静かに誓った。