嗤う者の輪郭
翌日、魔物の討伐が始まると、アシェルは誰よりも早く駆け出し、誰よりも積極的に動いた。
素早く姿を現した小型の魔物に、ためらうことなく剣を振るい、正確に急所を突く。
まだ十六にも満たない少年とは思えないその太刀筋に、周囲の大人たちは驚きと賞賛の声を漏らした。
「領主様のご子息、頼もしいな」
「さすがはお爺様の血を継いでる……」
村人たちは笑顔を交わしながらそう言ったが、アシェルの父――レオニスには、素直に頷けなかった。
(太刀筋に……迷いが無さすぎる)
それは、戦場で命を懸けてきた者だけが感じ取る異質な気配だった。
レオニスは若い頃、王都の近衛兵として数年を過ごしていた。
大規模な戦争こそ終わっていたが、王家に仕える兵として、各地の内乱や反乱の鎮圧に出向いた経験がある。
そこで見たのは、人を斬ることに慣れすぎた者の目──恐怖も、ためらいも、哀れみも持たず、ただ“効率”だけを追求するような動き。
そんな目を、今のアシェルに感じていた。
少年はただ戦っていたのではない。
命を奪うことに、異常なまでの“集中”を見せていた。
やがて討伐隊は山の麓を一巡し、仲間たちはそろそろ引き上げようと口を揃え始めた。
軽く汗を拭いながら、無事を喜び合う声が響く中、レオニスはふと背筋に走る寒気を感じた。
何かが――いる。
それは音でも姿でもない。
肌の感覚に滲むような、獣の気配。
彼はゆっくりと周囲に視線を巡らせ、そしてある方向で足を止めた。
そこにいたのは、草むらに佇むアシェル。
だが、レオニスの目がとらえたのは、アシェルの背後。
そこに潜む、低く呻くような呼吸と共に現れる黒い影。
その瞬間、レオニスは無意識に剣の柄に手を伸ばしていた。
(間に合わない――!)
そう思った瞬間、アシェルが振り返った。
その瞳に、恐れはなかった。
あるのは、ただ獲物を見据える狩人のような光。
アシェルは、背後から迫っていた気配に即座に反応した。
振り返りざま、迫りくる鋭い爪を剣で受け流す。
甲高い金属音とともに火花が散り、土が跳ねた。
それは狼ににた魔物だった。
畑をあらす魔物を追い、ふもとまで降りてきたのだろう。
(……あの《医術師》の男を襲った魔物もこの種類だろうか)
次の瞬間、魔物が再び飛びかかってくる。
アシェルは素早く剣でそれを受け止めたが、体格差による圧倒的な力に押し負け、足元が滑る。
バランスを崩した瞬間、牙が彼の喉元を目がけて襲いかかってきた。
(──やられる)
刹那の予感。
だがその瞬間──
「アシェルッ!」
鋭い声とともに、レオニスが駆け込んできた。
その体当たりは凄まじく、魔物の軌道を逸らすのに充分だった。
だが、魔物の牙は狙いを変え、レオニスの腕に深々と食い込み、血が飛び散る。
「今だ、逃げろ!」
レオニスは顔をしかめながらも、魔物の動きを封じるべく、自らの腕を囮にしてその場に踏みとどまった。
苦痛に耐えながら、鋭い声でアシェルに叫ぶ。
だが、アシェルは逃げなかった。
目の前で父の腕を喰らいながら身をよじる魔物。
その姿が、自分の中の何かを――抑えがたい何かを突き動かした。
剣を握る手に、力がこもる。
刹那、アシェルは迷いなく剣を振るった。
鋭い一閃が、魔物の背に深く喰い込む。
悲鳴のような咆哮とともに魔物は崩れ落ち、レオニスの体ごと、地面に倒れ込んだ。
──父の身体に染み込むように広がる血の赤。
それはまるで、アシェル自身が父を殺したかのように見えた。
剣を持つ手が微かに震える。
視界の隅が歪み、喉の奥から甘い熱が立ち上る。
(……美しい)
否、違う。違うはずなのに――
込み上げる笑みを、アシェルは歯を噛みしめて押し殺した。
胸の奥に芽生える、抗いがたい悦び。
だが、今はそれに浸るわけにはいかなかった。
「……父さん!」
血に濡れた父の体を抱き起こす。
その腕は重く、温かく、そしてどこか懐かしかった。
まるで幼い頃、抱き上げられた時の記憶が蘇るかのように。
けれど今は、役割が逆転していた。
アシェルは震える手で父の傷を抑えながら、ただ静かに呼吸を整えた。
この命を、自分の手で奪わなかったこと。
その事実だけが、今の彼の理性をかろうじて繋ぎ止めていた。
魔物を斃したあと、アシェルはすぐさま父の傷に手を当てた。
剣を置き、落ち着いた動きで傷口を確認すると、出血の量、肉の裂け方、周囲の損傷──
冷静に状況を見極めるその眼差しは、まるで熟練の《医術師》のようだった。
草を選び、布を裂いて縫合と圧迫。止血と洗浄。
「ちょっとだけ、我慢して」
そう言って笑う顔には、恐れも動揺もなかった。
やがて応急処置を終えたアシェルは、「この後すぐ熱が上がるかもしれないから」と水を汲みに走った。
レオニスは痛みに顔を歪めながらも、そんな息子の背を見つめていた。
──落ち着きすぎている。
その違和感は、屋敷に戻ってからも消えることはなかった。
後日、改めて医者を呼び、負傷した腕を見せた際──
その処置は完璧だったと言われた。しかも「これだけ的確な処置をしてあれば、後遺症は残らないでしょう」とまで。
「……本で読んだ知識があったから」
とアシェルは言った。
けれど、レオニスの胸にはしこりが残っていた。
本で読んだ知識。それだけで、あれほどの手際が可能だろうか?
あの冷静さと判断は、どうしても「偶然」では片づけられない。
その日から、レオニスはアシェルの一つひとつの行動に、無意識に意味を探すようになっていた。
アシェルが絵を描くときの集中した目。
病人を看取るときの静けさ。
何気ない笑顔の奥に潜む、感情の読めなさ。
そしてある日。
屋敷の庭で、弟ティオとの木剣での手合わせが始まった。
「お兄さま、もう一回!もう一回やって!」
何度もせがむティオに、アシェルは穏やかな笑みを浮かべながら、加減をした剣さばきで負けてみせていた。
その様子は微笑ましく、いつもの兄弟らしい日常に思えた。
──だが、その瞬間だった。
ティオが足を滑らせ、尻もちをつく。
それと同時に、受け止めるはずだった木剣が空を切り、アシェルの剣先が、ティオの鼻先へと迫った。
ギリギリで止まった。
しかし、もしもう少しでも力が加わっていたなら──
レオニスは思わず息を呑んだ。そして次の瞬間、凍りつく。
アシェルが笑っていたのだ。
──それは、弟の転倒を笑う、優しい兄の笑顔ではなかった。
その笑みは、ほんの一瞬、心の奥底から滲み出るような愉悦を含んでいた。
戦場で、敵を屠った兵が、己の生存に酔うような……そんな笑み。
レオニスはその笑顔を、忘れられなかった。