やさしさの裏に咲くもの
アシェルは、村の人々の最期に、静かに寄り添うようになっていった。
年老いた者の看取り。
病に伏した者の看病。
弱りゆく者の枕元に佇み、時に手を握り、時に耳を傾けて、静かに寄り添う。
村の人々はそれを「優しさ」だと受け取った。
あの《医術師》を苦しみから救った時に、命の尊さを知ったのだろう。
そう言って、誰もがアシェルを信頼し、心を開いた。
だが、アシェルが見ていたのは、死の“輪郭”だった。
命の終わりに触れれば触れるほど、力が流れ込んでくる感覚。
微かに震える手から、薄れゆく瞳から、声なき最期の息から。
《蒐集家》としての自分が、確かに何かを“得て”いる。
それはもう偶然でも気のせいでもない。
アシェルは確信していた。
死に目に立ち会うたび、力は強くなる。
その“数”に応じて、得られるものは広がっていく。
最初は恐れがあった。
けれど今では、それを記録するかのように、彼の描く絵が変化していった。
その構図は緻密さを極め、光と影の対比はまるで見る者の心をえぐるような迫力をもっていた。
なかでも赤の色調は日に日に鋭さを増し、見る者に説明できない不安や感動を抱かせる。
それは、アシェル自身の中で燻る《殺戮者》の衝動を、どうにか筆先に封じ込めようとする試みでもあった。
けれど、その衝動は日に日に強くなり、彼を蝕んでいく。
それでもアシェルは、誰にも見せず、それを押し殺し続けた。
──この力は、手放せるのか?
──それとも、宿した時点で、運命は定まったのか?
そんな疑問が、心の奥でうごめき始めた頃だった。
ある日、ふとしたきっかけで、母の体調が優れないことに気がついた。
いつも通りに振る舞っていた母の瞳に、ごく微細な違和がある。
脈の打ち方、歩く足取り、息の深さ。
それらを組み合わせた時、アシェルの中で“理解”が閃いた。
それはあの日受け取った《医術師》としての力。
「脾と腎を冷やしてる。朝方の痺れと吐き気もあるでしょう? 薬草を焙って、夕方に……それを三日」
彼の言葉に、家族は最初こそ驚いたが、言われた通りの処置を行うと、劇的なまでに母の病状が回復した。
「アシェル……どうして……」
驚きと安堵に満ちた母の声。
周囲の者たちは口々に称賛の声を上げた。
だが、その賛辞の渦の中で、ただ一人。
父だけは、その沈黙の裏で、深くアシェルを見つめていた。
称賛ではなく、心配の眼差し。
息子の変化に、誰よりも早く気づいていた父は、確信する。
──この子は、何かを……変えてしまった。
それが何かは、まだわからない。
だが、すでに“戻れない”地点にまで来ているのではないか──
アシェルの静かな笑顔の奥に潜む暗い深淵を、ゆっくりと形作り始めていた。
一方アシェルは、集めた心紋のすべてを自分の力として扱えるわけではないことに、徐々に気づき始めていた。
ある日、老いて亡くなった村人の看取りに立ち会ったときのこと。
その男はかつて《風読み》の異名で知られ、風を読む力と魔法を使って、天候の変化を正確に言い当てることで村の生活を支えていたという。
残された家族が語ったその力に、アシェルは静かに耳を傾けていた。
確かに、アシェルにも翌日の天気が“わかる”感覚はあった。
雲の動き、風の流れ、空の色合い。
それらの情報が頭の中で自然と結びつき、まるで知識のように答えを導き出す。
けれど──風の魔法は、使えなかった。
どれほど集中しても、風は呼応しない。
魔力への適性が元から乏しいためか、それとも他に理由があるのか。
《蒐集家》として得たのはあくまで力の断片。
すべての心紋がそのまま力として使えるわけではないという事実が、アシェルの中に疑念の種を落とした。
これから心紋をさらに集めていけば、あるいは魔法さえ扱えるようになるのかもしれない。
けれど、それを確かめる術は今の彼にはなかった。
季節が夏の終わりから秋へと移ろう頃、村では魔物の討伐が行われることになった。
収穫前のこの時期、山の魔物が里へ降りて畑を荒らす被害が増えるため、例年先手を打っての討伐が行われていた。
その年、アシェルは初めて討伐隊に加わることになった。
剣術の鍛錬を積んできた彼にとって、それは自然な流れだった。
翌日の計画では、山のふもと近くまでしか立ち入らない予定で、相手も小型の魔物が主となる。
大きな危険はない──それが、誰もが口にする共通認識だった。
けれどその夜、アシェルは眠れなかった。
布団の中で目を閉じても、脳裏に浮かぶのは血飛沫を上げて倒れる魔物の姿。
肉を裂く音、断ち切る感触、そして命が静かに消えていく瞬間の“美”。
──明日は、それを堂々とできる。
ひそかに、アシェルは小動物を殺すことで、《殺戮者》としての渇望を紛らわせてきた。
だがそれは罪悪感と隣り合わせの密やかな行為だった。
明日、自分は正当な名目で命を奪うことができる。
それは「守るため」「村を救うため」という大義に裏打ちされた、“正しい殺し”。
その事実が、アシェルの中のどこかを熱く、嬉々として震わせていた。
――自分のどこかが、確かにそれを“待っている”。
赤く染まる雨の日を思い出すように、彼の胸にはふつふつと血の色が広がっていた。