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赤の深さを知る

処刑を見届けたその夜、アシェルは夕食にも姿を見せず、自室にこもった。

扉の外から、母が一度だけ優しく声をかけたが、それに返事をすることはなかった。



「アシェル、無理はしないでね……」



父の気遣うような視線が扉越しに感じられた気がしたが、それ以上の干渉はなかった。

いつもなら「兄さま!」と駆け寄ってくる弟の声も、今夜は聞こえない。


家族は皆、アシェルが初めて目にした処刑の光景に心を痛めているのだと思っていた。



──だが、それは違った。



アシェル自身にも、それが違うことだけはわかっていた。

だが、それが何なのかを知る術はなく、言葉にすることもできなかった。

胸の奥にこびりついたような違和感だけが、じくじくと痛みをともなって残っていた。



部屋には明かりがひとつ灯っている。

その柔らかな光が、壁に飾られた祖父の絵を静かに照らしていた。


秋の風景を描いた、紅に染まる森の絵。

祖母の若き日の姿を描いた肖像画。

何度も何度も見てきたはずのそれらがどこか違って見えた。


葉の赤が、滲むように深く、どこか生々しい。

祖母の瞳が宿していたあたたかな赤が、別のものに見える。

まるで、あの広場で見た“血の色”と重なっていくようだった。



視界がぼやける。

違う、こんなはずじゃない。

そう思いながらも、アシェルは視線をそらせなかった。


いつの間にか、机の上から筆を手に取っていた。

目の前のキャンバスには、描きかけの風景画がある。

草原と、青い空。

その上から、アシェルは躊躇なく赤を重ねた。


まだ乾ききっていない絵の具の上に、ただ、赤を。

紅とも、緋とも、朱ともつかない、鮮烈な“赤”を重ね続ける。


自分でも、なぜそんなことをしているのかわからなかった。

けれど、止まらなかった。


その夜、彼の内で何かが静かに動き始めていた。



夜が明ける頃、アシェルの前に残されたのは、赤一色の絵だった。

それは何を描いたものとも言い難く、強いて言えば「抽象画」と呼べなくもない、赤に満たされた一枚の絵。

渦を巻くように塗り重ねられた絵の具には、激情も迷いも沈殿しているように見えた。


それを部屋の隅に無造作に立て掛けると、アシェルは重力に引かれるようにベッドへと倒れ込んだ。


目を閉じる瞬間まで、頭の奥にはあの断頭台の赤がこびりついていた。




気がつけば、太陽は高く昇っていた。



「兄さまー!」



弾むような声が、夢と現実の境を引き裂く。



アシェルはまぶたの裏に射し込んだ光と、ベッド脇に響いた弟の声に目を開けた。

開け放たれた扉の向こうに、栗色の髪を揺らした少年がにこにこと笑っている。


今年で5歳になった弟のティオ。

母譲りの柔らかな栗色の髪と瞳を持つ、陽だまりのような存在だった。


すぐに追いかけてきた使用人が、慌てたように深く頭を下げる。



「申し訳ありません、ティオ様が突然……」


「……気にしないで。ありがとう」



アシェルは静かに言って、ベッドから起き上がる。

その声に、使用人がほっと安堵の息を漏らした。



「兄さま、一緒にお庭いこ!」



ティオが嬉しそうに手を引いた。

少し驚きながらも、アシェルはその小さな手を取り、部屋を後にする。


普段であれば、午前は書斎で教師と学問を学び、午後には庭で剣の鍛錬を行うのが日課だった。

だが今日は、父が気を利かせてその予定を取りやめてくれていたらしい。

その配慮が胸に沁みて、アシェルは小さく息をついた。


庭に出ると、陽光が肌を温かく包み込んだ。

優しく揺れる木々の葉、鳥のさえずり、どこまでも穏やかな風景。

それは確かに、彼が愛してきた日常だった。


ティオは芝に座りこみ、虫を見つけてははしゃいだり、花の名前を訊いてきたりと忙しい。

アシェルはそんな弟の傍らに腰を下ろし、微笑を浮かべながら見守った。



ふと視線の先に、動く影を見つける。

草の間を、灰色の小さな生き物が素早く駆けた。

──野鼠だ。


その瞬間、アシェルの心に奇妙なざわめきが走った。

無意識に、手を伸ばしていた。

この手で捕まえれば、簡単に殺せる。



一瞬、そう考えていた自分に気づいて──アシェルは息を呑んだ。



「……っ」



胸がざわついた。心がざわついた。

今のは、なんだ?

なぜ、そんなことを思った?


隣では、ティオが虫を追いかけて無邪気に笑っている。

その姿を見て、アシェルは自分の中に浮かび上がった“感情”に背筋が冷たくなるのを感じた。



──おかしい。



そう、思った。


けれど、否応なく感じてしまったその衝動は、確かにアシェルの中に“ある”のだった。




アシェルが描く絵は、以前に比べて格段に緻密になっていた。

その筆は、木の葉の陰影ひとつ、光のきらめきさえも逃さず描き出す。

見る者は息を呑み、思わず目を凝らすほどの精緻さに、屋敷を訪れた客人の中には「まるで生きているようだ」と感嘆の声を上げる者さえいた。



だが、その中で一際目を引くのは“赤”だった。



花の赤、果実の赤、夕焼けの赤、そして血のように濃く深い赤。



「この赤……どうやって出しているんだ? 何か特別な物でも混ぜてるのか?」



画材を届けに来た職人がそう尋ねたとき、アシェルは小さく首を振っただけだった。

けれど、本人も気づいていた。


自分の描く“赤”には、どこか現実離れした艶と温度がある。

祖父の絵にはなかった、それが、今の自分の絵には確かにあるのだ。



──赤が、目を離させてくれない。



時折、筆を置く手が止まらなくなる。

ただ赤だけを延々と塗り重ねたくなる衝動が、指先の奥からせり上がってくる。

けれど、それが何を意味するのか、アシェルにはまだ理解できなかった。



そんなある日、剣の鍛錬を終えて庭を歩いていたアシェルは、ふと足元にいた虫を靴の先で踏み潰した。

わざとではなかった。だが、無意識に踏んだその瞬間、耳に届いた音に心がぞくりと震えた。



──ぺしゃり、と潰れたその音が、妙に心地よかった。



「……なんだ、これ」


小さく呟いたその声に、隣にいた剣術の指南役が「疲れたか?」と声をかけてくる。

アシェルは何でもないように笑って返したが、心の奥には確かに残っていた。


あの音と、ふと覚えた奇妙な快感。

そして、濡れた土ににじんでいた、赤黒い筋の感触が。




さらに数日後。

森の外れの小道を一人で歩いていたときのこと。

木々の間から現れた一匹の痩せた狐と、アシェルは目を合わせた。


金色の毛並みと、どこか聡い瞳。

だが、その瞳にふと鋭く光るものを見た刹那、アシェルの中に、得体の知れない熱が走った。



──斬れる。



そう思った。

絵の題材でもない、守るべき存在でもない。

ただ一瞬、「仕留めたい」と思った自分に、アシェルはぞっとした。


狐は目を逸らすと、軽やかに森の奥へと姿を消していく。

だがアシェルはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動くことができなかった。




夜。

祖父の絵の前に立ったアシェルは、静かに呟いた。



「僕は……何かが、変わってきてる」



その“変化”は、言葉にできないほど静かで、それでいて確かなものだった。

けれど、心のどこかで思い当たるものもあった。



処刑の日。

あの広場で目を合わせた《殺戮者》

あの男が最後に見せた、乾いた笑み。



そして、祖父が持っていた《芸術家》としての情熱と狂気の一歩手前の研ぎ澄まされた感性。




それらが、まるで滲むように、少しずつアシェルの中に入り込み、混ざり合っていく。

それはまだ形になってはいないが、確かに“何か”が芽吹いていた。

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