蒐集家は戻らない
それからというもの、アシェルは赤く染まった古びた教会にとどまり続けた。
どこへ行くでもなく、ただそこにいて、絵を描き始めた。
それは金を得るための仕事ではない。
誰かに求められたものでもなかった。
《芸術家》の心紋が、ただ静かに、しかし確かに“描け”と命じていた。
冷たい月光と、わずかに揺れる蝋燭の灯り。
その中で、アシェルは何枚ものキャンバスに、あの夜の情景を描き続けた。
──赦しを与えようとした《聖職者》。
その手、その声、その瞳。
そして彼女の背を照らした、朽ちた教会のステンドグラスの淡い光。
季節は冬に向かい空気は冷たかったが、教会の床にそのまま横たわる彼女の亡骸は、静かに崩れ始めていた。
空気の流れも少ないその場で、ゆっくりと、朽ちていく。
だがアシェルは、それすらも“祈りの名残”のように感じていた。
常に死の匂いが漂うこの場所に、妙な安らぎさえ抱いていた。
画材は足りなかった。
何度か、近くの街へと足を運ぶ。
必要な絵具、筆、キャンバス。
誰とも目を合わせず、誰の名も語らず、品だけを手にして教会へ戻る。
その繰り返しの中で、いつしか祈りが習慣になっていた。
祭壇の前にひざまずき、誰にともなく、あるいは彼女に向けて、目を閉じて祈る。
《聖職者》の心紋がそうさせるのか──
それとも、“赦されなかった”ことへの埋め合わせか。
アシェル自身にも、それはわからなかった。
ある日のことだった。
白の絵具が、尽きていた。
彼女の着ていた服を描くために、どうしても必要だった純白。
それがなければ、あの鮮烈な紅が生きない。
肌の冷たさも、沈黙の静けさも、何もかもが霞んでしまう。
それは、祈りの夜を“完成”させるための最後の一色だった。
アシェルは静かに立ち上がった。
ちょうど、教会の食料も尽きかけていた頃だった。
街への道は、すでに何度も歩いている。
風の音、空の色、霜に白んだ樹の枝。
そのすべてが変わらぬまま、彼の足元を確かに支えてくれていた。
──けれど、その日は違っていた。
遠く、風に乗って聞こえたのは、甲高く裂けるような子どもの泣き声。
何かが崩れる音。悲鳴。足音。
そして、魔物の気配。
視界の先で、旅人が倒れている。
周囲には数体の獣のような影が動いていた。
その光景に、アシェルは足を止めた。
まだ若い子どもが、必死に小石を投げ、旅人をかばおうとしていた。
その姿に、ふいにアシェルの中の何かがざわつく。
──弟、ティオ。
年も性別も違うはずなのに、不思議とその姿が重なった。
小さな手、小さな背中。
自分の手が、あの時確かに剣を止めた相手。
「……助ける義理はない」
低く、無感情な声がアシェルの中で響いた。
あの数を相手にすれば、こちらも無事では済まない。
倒して助けたところで、何かが報われるわけでもない。
それどころか、共倒れになるのが関の山だ。
なのに──
足が、動かない。
否、動かなかったのではない。
動いていたのだ。
ゆっくりと、確かに。
それは街へ向かうのではなく、子どもたちのいる方へ。
「……なん、で?」
声にならない問いが、喉の奥で消えていく。
アシェルの中にいるものが、手を引いていた。
それは、祈りの夜に得た、あの心紋。
《聖職者》
明確な意思ではなかった。
だが、その小さな灯火のような衝動が、確かにアシェルを動かしていた。
草を踏む足音が、響く。
アシェルは歩みを止めない。
剣を抜いたわけでもない。
ただ、彼の中にある、幾つもの心紋が重なる中──
《聖職者》の意志だけが、今、唯一、アシェルの行動を支配していた。
気づけば、体は駆け出していた。
寒風を切る音を背に、足音をわざと大きく響かせる。
手にした剣は抜かれ、その鞘を──鈍い音を立てて──魔物たちの真ん中へと投げ込んだ。
魔物が一斉に振り向く。
殺意と本能を剥き出しにした視線が、アシェルを貫いた。
(……よし)
そこまでで、ふっと身体を包んでいた温かな気配が消えた。
《聖職者》の衝動──
まるで役目を終えたかのように、消えていった。
だが、もはや遅い。
注意を惹きつけた魔物たちは、もう逃げ場を与えなかった。
群れのように襲いかかる牙と爪。
全身を貫く痛みと衝撃。
それでも、アシェルは剣を振るった。
無意識に、己の中に宿る心紋たちが動いていた。
《殺戮者》が動かし、
《医術師》が致命を避け、
《芸術家》が最後の“構図”を描こうとしていた。
それでも──多勢に無勢だった。
数の暴力は容赦なく、肉を裂き、骨を砕く。
視界が赤に染まり、息が苦しくなる。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
ただ、胸の奥で何かが満ちていた。
あの子どもが逃げられるなら、それでいい。
名も知らぬ子が、また明日を生きていけるのなら、それで──
ぐしゃ、と何かが潰れる音。
足元に崩れ落ちるように倒れる体。
薄れていく意識の中で、アシェルは空を見上げた。
──白い。
雪が降っていた。
まるで赦しのように、静かに舞い落ちる白。
そうだ、白の絵具が必要だったのだ。
誰の肌でもない、彼女の服でもない。
自分の、最後のキャンバスに塗るための白。
「……ああ……」
その呟きは、もう誰にも届かなかった。
けれどアシェルは、最期の瞬間に、確かに笑っていた。
それは歪んだ笑みではなかった。
何かに抗い、何かに従い、そして何も残せずに終わろうとする魂が
ほんの少しだけ人間に還れたような、そんな淡い笑みだった。
雪は降り続けた。
赤い大地の上に、白が降り積もる。
まるで、最期の絵を、そっと隠すように。
終わり




