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蒐集家はもう、戻れない  作者: 源泉


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11/11

蒐集家は戻らない

それからというもの、アシェルは赤く染まった古びた教会にとどまり続けた。

どこへ行くでもなく、ただそこにいて、絵を描き始めた。



それは金を得るための仕事ではない。

誰かに求められたものでもなかった。



《芸術家》の心紋が、ただ静かに、しかし確かに“描け”と命じていた。

冷たい月光と、わずかに揺れる蝋燭の灯り。

その中で、アシェルは何枚ものキャンバスに、あの夜の情景を描き続けた。



──赦しを与えようとした《聖職者》。

その手、その声、その瞳。

そして彼女の背を照らした、朽ちた教会のステンドグラスの淡い光。



季節は冬に向かい空気は冷たかったが、教会の床にそのまま横たわる彼女の亡骸は、静かに崩れ始めていた。

空気の流れも少ないその場で、ゆっくりと、朽ちていく。



だがアシェルは、それすらも“祈りの名残”のように感じていた。

常に死の匂いが漂うこの場所に、妙な安らぎさえ抱いていた。



画材は足りなかった。

何度か、近くの街へと足を運ぶ。

必要な絵具、筆、キャンバス。

誰とも目を合わせず、誰の名も語らず、品だけを手にして教会へ戻る。



その繰り返しの中で、いつしか祈りが習慣になっていた。



祭壇の前にひざまずき、誰にともなく、あるいは彼女に向けて、目を閉じて祈る。



《聖職者》の心紋がそうさせるのか──

それとも、“赦されなかった”ことへの埋め合わせか。

アシェル自身にも、それはわからなかった。



ある日のことだった。

白の絵具が、尽きていた。


彼女の着ていた服を描くために、どうしても必要だった純白。

それがなければ、あの鮮烈な紅が生きない。

肌の冷たさも、沈黙の静けさも、何もかもが霞んでしまう。



それは、祈りの夜を“完成”させるための最後の一色だった。



アシェルは静かに立ち上がった。

ちょうど、教会の食料も尽きかけていた頃だった。


街への道は、すでに何度も歩いている。

風の音、空の色、霜に白んだ樹の枝。

そのすべてが変わらぬまま、彼の足元を確かに支えてくれていた。



──けれど、その日は違っていた。



遠く、風に乗って聞こえたのは、甲高く裂けるような子どもの泣き声。


何かが崩れる音。悲鳴。足音。

そして、魔物の気配。


視界の先で、旅人が倒れている。

周囲には数体の獣のような影が動いていた。



その光景に、アシェルは足を止めた。


まだ若い子どもが、必死に小石を投げ、旅人をかばおうとしていた。

その姿に、ふいにアシェルの中の何かがざわつく。



──弟、ティオ。



年も性別も違うはずなのに、不思議とその姿が重なった。

小さな手、小さな背中。

自分の手が、あの時確かに剣を止めた相手。



「……助ける義理はない」



低く、無感情な声がアシェルの中で響いた。



あの数を相手にすれば、こちらも無事では済まない。

倒して助けたところで、何かが報われるわけでもない。

それどころか、共倒れになるのが関の山だ。


なのに──


足が、動かない。


否、動かなかったのではない。

動いていたのだ。

ゆっくりと、確かに。


それは街へ向かうのではなく、子どもたちのいる方へ。



「……なん、で?」



声にならない問いが、喉の奥で消えていく。



アシェルの中にいるものが、手を引いていた。

それは、祈りの夜に得た、あの心紋。



《聖職者》



明確な意思ではなかった。

だが、その小さな灯火のような衝動が、確かにアシェルを動かしていた。



草を踏む足音が、響く。



アシェルは歩みを止めない。

剣を抜いたわけでもない。

ただ、彼の中にある、幾つもの心紋が重なる中──



《聖職者》の意志だけが、今、唯一、アシェルの行動を支配していた。



気づけば、体は駆け出していた。

寒風を切る音を背に、足音をわざと大きく響かせる。

手にした剣は抜かれ、その鞘を──鈍い音を立てて──魔物たちの真ん中へと投げ込んだ。



魔物が一斉に振り向く。

殺意と本能を剥き出しにした視線が、アシェルを貫いた。



(……よし)



そこまでで、ふっと身体を包んでいた温かな気配が消えた。

《聖職者》の衝動──

まるで役目を終えたかのように、消えていった。



だが、もはや遅い。



注意を惹きつけた魔物たちは、もう逃げ場を与えなかった。

群れのように襲いかかる牙と爪。

全身を貫く痛みと衝撃。



それでも、アシェルは剣を振るった。

無意識に、己の中に宿る心紋たちが動いていた。



《殺戮者》が動かし、

《医術師》が致命を避け、

《芸術家》が最後の“構図”を描こうとしていた。



それでも──多勢に無勢だった。




数の暴力は容赦なく、肉を裂き、骨を砕く。

視界が赤に染まり、息が苦しくなる。


けれど、不思議と恐怖はなかった。


ただ、胸の奥で何かが満ちていた。

あの子どもが逃げられるなら、それでいい。

名も知らぬ子が、また明日を生きていけるのなら、それで──



ぐしゃ、と何かが潰れる音。

足元に崩れ落ちるように倒れる体。



薄れていく意識の中で、アシェルは空を見上げた。



──白い。


雪が降っていた。

まるで赦しのように、静かに舞い落ちる白。


そうだ、白の絵具が必要だったのだ。


誰の肌でもない、彼女の服でもない。

自分の、最後のキャンバスに塗るための白。



「……ああ……」



その呟きは、もう誰にも届かなかった。

けれどアシェルは、最期の瞬間に、確かに笑っていた。


それは歪んだ笑みではなかった。


何かに抗い、何かに従い、そして何も残せずに終わろうとする魂が

ほんの少しだけ人間に還れたような、そんな淡い笑みだった。



雪は降り続けた。



赤い大地の上に、白が降り積もる。

まるで、最期の絵を、そっと隠すように。


終わり

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