まだ蒐めぬもの
やがていくつかの季節が巡る中、アシェルは一つの古びた教会へとたどり着いた。
山奥の道を外れ、偶然見つけたその小さな礼拝堂は、木々に埋もれ、半ば崩れかけていた。
風雨に晒された壁、割れたステンドグラス。
人の手が入っているとは、とても思えなかった。
(一晩、雨をしのげればそれでいい……)
そう思って、軋む扉を押す。
その先に、灯りがあった。
そして、祈るように佇む、ひとりの人影。
振り返ったその人物は、驚く様子もなく、静かに微笑んだ。
「この場所は、私だけのものではありません。
神も、あなたを拒みませんよ」
その声は柔らかく、どこか懐かしい響きを含んでいた。
アシェルは一瞬言葉を失ったが、やがて小さく会釈し、足を踏み入れた。
教会の空気は、冷たいのに温かかった。
雨の匂いと、灯された蝋燭の揺らめきが、静かに迎え入れてくれているようだった。
火の気の少ない教会は、やがて静かな冷えを帯びはじめた。
夜は深く、風は小さな窓を軋ませるばかりで、ほとんど言葉も交わされることはなかった。
アシェルは椅子にもたれ、揺れる蝋燭の灯を見つめていた。
ふと、奥へと視線を移す。
彼女は祈っていた。
古びた祭壇の前にひざまずき、頭を垂れ、ただ神に向けて静かに祈りを捧げている。
その姿に、アシェルの目が自然と引き寄せられる。
灯の陰に揺れる、背中の輪郭。
そして──
その背に、浮かび上がる“紋”。
彼女に触れてもいない。レンズも使っていない。
それでもアシェルには、今でははっきりと“視えて”いた。
《聖職者》
その名が、静かに浮かび上がる。
(……やはり、という印象だ)
清らかな所作。柔らかく届く声。
それらすべてが、この心紋と合致していた。
けれど同時に、アシェルの心には一つの思いが浮かぶ。
──まだ、“蒐めて”いない。
そのときだった。
まるで、思考の声が彼女に届いたかのように。
祈りを終えた彼女が、ゆっくりと振り返った。
蝋燭の火が揺らめき、彼女の瞳に反射する。
「……何か、思い詰めているように見えます」
穏やかな声だった。だがその瞳は、どこか深く、透き通っている。
アシェルは、言葉を返せなかった。
喉が、すうっと冷たくなるような感覚。
すべてを見透かされた気がして、心のどこかが疼いた。
彼女は歩み寄るでもなく、その場に立ったまま、微笑んだ。
「何かの縁です。……話してみれば、少しは楽になれるかもしれませんよ」
その声に、責める響きはなかった。
ただ、そこに在ることを許すような、受容の温かさだけがあった。
アシェルは、ふっと視線を落とし、そして決めた。
「……僕は、罪を重ねてきました」
そう言ったとき、言葉が喉をすべり落ちるのを感じた。
重いはずの言葉が、少しだけ軽くなったような気がした。
「その重さに、毎夜……耐えかねています」
彼女は静かに頷いた。
「そうなのですね……話してくれて、ありがとうございます」
その言葉は、裁きでも赦しでもなかった。
ただ、寄り添うような受け入れの言葉だった。
アシェルは初めて、あの《蒐集家》という心紋を授かってから、自分が“誰かに赦されること”を想像した。
夜が深まるほどに、教会の静けさは増していった。
灯の数も減り、祭壇の上で揺れる火だけが、二人を照らしていた。
《聖職者》の言葉は、まるで傷口に触れる手のようだった。
冷たくないのに、ぞくりとする。
柔らかいのに、痛む。
アシェルは言葉を重ねるうちに、自分の心が少しずつ軋みをあげながら、溶けていくのを感じていた。
(……こんな僕でも、赦されるのだろうか)
血に濡れた手を。
名も知らぬ人々の命を、自らの欲と快楽で奪ってきたこの魂を。
もし、この手が触れられたなら──ほんのわずかでも光に近づける気がした。
「……共に、祈りましょう」
その言葉は、まるで神の使いのように。
いや、それよりも近く、個としての祈りを差し出すようなやわらかな響きだった。
彼女は祭壇の前からゆっくりと歩み寄り、アシェルの前でその手を差し伸べた。
白い指先は、触れれば消えてしまいそうなほど繊細で、眩しくて──
(まるで……女神だ)
アシェルは、その手に触れたくなった。
ただ触れることで、自分が“それでも人間でいられる”と信じたかった。
震える手を伸ばす。
ただ一歩、彼女のもとへ近づく。
──だが、そのとき。
胸の奥から、何かが強く拒絶を叫んだ。
赦されることを、赦すな。
彼女の手が触れる寸前、アシェルの掌が震え、わずかに引いた。
その瞬間、胸の奥に潜んでいた“それ”が、鋭い熱を放った。
(……誰だ)
内側から這い出すような黒い波。
手を伸ばす自分と、それを否定する自分。
迷いはなかったはずのはずなのに、その手のひらには冷たい汗が滲んでいた。
《殺戮者》の衝動か。
それとも《蒐集家》の本能か。
「……どうかなさいましたか?」
《聖職者》が、少しだけ首を傾げる。
アシェルは返事をできなかった。
言葉を飲み込む喉が、まるで罪に縛られているかのように固まっていた。
赦しの手は、そこにある。
なのに、その手を取ることができない。
(……赦されたいはずなのに)
なぜ、自分は震えているのか。
なぜ、その美しい心紋が、今はまるで“獲物”に見えてしまうのか。
──蒐集したい。
その名を、この掌に刻みたい。
赦しを拒むのは、罪の重さではない。
それを「赦られることすら許さない」もう一人の自分の存在だった。
伸ばしたはずの手が、今は中途半端に空中をさまよっていた。
彼女は微笑んでいた。
けれどその笑みが、アシェルには遠く感じられた。
まるで、届きそうで、どうしても触れられない光。
──アシェルの掌は、そっと降ろされた。
そして、彼は小さく、かすれるように呟いた。
「……祈る資格なんて、僕にはない」
そう呟いたアシェルの声は、あまりにも静かで、どこか祈りにも似ていた。
その言葉を聞いた《聖職者》の表情は、変わらなかった。
責めもせず、驚きもせず、ただ受け入れるような眼差しを残して──彼女は、伸ばしていた手をそっと自らの胸元へ戻そうとした。
そのときだった。
アシェルの手が、彼女の手を強く引いた。
「……だから、君が──」
かすれるような声。
「君が……僕の中で、祈り続けて」
その瞬間、彼女は目を見開いた。
アシェルの瞳は、光を孕んでいた。
祈りにも似た願いの形をした──
絶望と欲望が混ざり合った、どこにも届かない感情。
だが、口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。
それはあまりにも静かで、壊れた魂の奥底から滲み出る、救いを否定する微笑みだった。
彼女が最後に見たものは、そんなアシェルの顔だった。
次の瞬間、教会の静寂が破られる。
彼女の体を貫くアシェルの剣。
──赤が、広がる。
古びた祭壇の前に、じわりと滲む鮮やかな赤。
その色は、ステンドグラスに差し込むわずかな月光に照らされ、まるで神聖な儀式の一幕のように静かに広がっていった。
祈りの場所に流れたその血は、ただひとつの心紋を残し──
《聖職者》という名の力を、アシェルの中へと静かに落とした。
彼は微かに目を伏せ、手を合わせる。
それは、初めての祈りだった。
けれど、もう祈る相手はどこにもいなかった。




