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蒐集家はもう、戻れない  作者: 源泉


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10/11

まだ蒐めぬもの

やがていくつかの季節が巡る中、アシェルは一つの古びた教会へとたどり着いた。

山奥の道を外れ、偶然見つけたその小さな礼拝堂は、木々に埋もれ、半ば崩れかけていた。

風雨に晒された壁、割れたステンドグラス。

人の手が入っているとは、とても思えなかった。


(一晩、雨をしのげればそれでいい……)



そう思って、軋む扉を押す。

その先に、灯りがあった。



そして、祈るように佇む、ひとりの人影。


振り返ったその人物は、驚く様子もなく、静かに微笑んだ。



「この場所は、私だけのものではありません。

神も、あなたを拒みませんよ」



その声は柔らかく、どこか懐かしい響きを含んでいた。


アシェルは一瞬言葉を失ったが、やがて小さく会釈し、足を踏み入れた。


教会の空気は、冷たいのに温かかった。

雨の匂いと、灯された蝋燭の揺らめきが、静かに迎え入れてくれているようだった。


火の気の少ない教会は、やがて静かな冷えを帯びはじめた。

夜は深く、風は小さな窓を軋ませるばかりで、ほとんど言葉も交わされることはなかった。



アシェルは椅子にもたれ、揺れる蝋燭の灯を見つめていた。

ふと、奥へと視線を移す。


彼女は祈っていた。

古びた祭壇の前にひざまずき、頭を垂れ、ただ神に向けて静かに祈りを捧げている。



その姿に、アシェルの目が自然と引き寄せられる。

灯の陰に揺れる、背中の輪郭。


そして──


その背に、浮かび上がる“紋”。


彼女に触れてもいない。レンズも使っていない。

それでもアシェルには、今でははっきりと“視えて”いた。



《聖職者》



その名が、静かに浮かび上がる。



(……やはり、という印象だ)



清らかな所作。柔らかく届く声。

それらすべてが、この心紋と合致していた。


けれど同時に、アシェルの心には一つの思いが浮かぶ。



──まだ、“蒐めて”いない。



そのときだった。


まるで、思考の声が彼女に届いたかのように。


祈りを終えた彼女が、ゆっくりと振り返った。

蝋燭の火が揺らめき、彼女の瞳に反射する。



「……何か、思い詰めているように見えます」



穏やかな声だった。だがその瞳は、どこか深く、透き通っている。


アシェルは、言葉を返せなかった。

喉が、すうっと冷たくなるような感覚。

すべてを見透かされた気がして、心のどこかが疼いた。


彼女は歩み寄るでもなく、その場に立ったまま、微笑んだ。



「何かの縁です。……話してみれば、少しは楽になれるかもしれませんよ」



その声に、責める響きはなかった。

ただ、そこに在ることを許すような、受容の温かさだけがあった。


アシェルは、ふっと視線を落とし、そして決めた。



「……僕は、罪を重ねてきました」



そう言ったとき、言葉が喉をすべり落ちるのを感じた。

重いはずの言葉が、少しだけ軽くなったような気がした。



「その重さに、毎夜……耐えかねています」



彼女は静かに頷いた。



「そうなのですね……話してくれて、ありがとうございます」



その言葉は、裁きでも赦しでもなかった。

ただ、寄り添うような受け入れの言葉だった。


アシェルは初めて、あの《蒐集家》という心紋を授かってから、自分が“誰かに赦されること”を想像した。


夜が深まるほどに、教会の静けさは増していった。

灯の数も減り、祭壇の上で揺れる火だけが、二人を照らしていた。



《聖職者》の言葉は、まるで傷口に触れる手のようだった。

冷たくないのに、ぞくりとする。

柔らかいのに、痛む。



アシェルは言葉を重ねるうちに、自分の心が少しずつ軋みをあげながら、溶けていくのを感じていた。



(……こんな僕でも、赦されるのだろうか)



血に濡れた手を。

名も知らぬ人々の命を、自らの欲と快楽で奪ってきたこの魂を。

もし、この手が触れられたなら──ほんのわずかでも光に近づける気がした。



「……共に、祈りましょう」



その言葉は、まるで神の使いのように。

いや、それよりも近く、個としての祈りを差し出すようなやわらかな響きだった。



彼女は祭壇の前からゆっくりと歩み寄り、アシェルの前でその手を差し伸べた。

白い指先は、触れれば消えてしまいそうなほど繊細で、眩しくて──



(まるで……女神だ)



アシェルは、その手に触れたくなった。

ただ触れることで、自分が“それでも人間でいられる”と信じたかった。


震える手を伸ばす。

ただ一歩、彼女のもとへ近づく。



──だが、そのとき。



胸の奥から、何かが強く拒絶を叫んだ。

赦されることを、赦すな。



彼女の手が触れる寸前、アシェルの掌が震え、わずかに引いた。


その瞬間、胸の奥に潜んでいた“それ”が、鋭い熱を放った。



(……誰だ)



内側から這い出すような黒い波。

手を伸ばす自分と、それを否定する自分。

迷いはなかったはずのはずなのに、その手のひらには冷たい汗が滲んでいた。



《殺戮者》の衝動か。

それとも《蒐集家》の本能か。



「……どうかなさいましたか?」



《聖職者》が、少しだけ首を傾げる。


アシェルは返事をできなかった。

言葉を飲み込む喉が、まるで罪に縛られているかのように固まっていた。


赦しの手は、そこにある。

なのに、その手を取ることができない。



(……赦されたいはずなのに)



なぜ、自分は震えているのか。

なぜ、その美しい心紋が、今はまるで“獲物”に見えてしまうのか。



──蒐集したい。



その名を、この掌に刻みたい。


赦しを拒むのは、罪の重さではない。

それを「赦られることすら許さない」もう一人の自分の存在だった。


伸ばしたはずの手が、今は中途半端に空中をさまよっていた。


彼女は微笑んでいた。

けれどその笑みが、アシェルには遠く感じられた。


まるで、届きそうで、どうしても触れられない光。



──アシェルの掌は、そっと降ろされた。



そして、彼は小さく、かすれるように呟いた。



「……祈る資格なんて、僕にはない」



そう呟いたアシェルの声は、あまりにも静かで、どこか祈りにも似ていた。


その言葉を聞いた《聖職者》の表情は、変わらなかった。

責めもせず、驚きもせず、ただ受け入れるような眼差しを残して──彼女は、伸ばしていた手をそっと自らの胸元へ戻そうとした。


そのときだった。

アシェルの手が、彼女の手を強く引いた。



「……だから、君が──」



かすれるような声。



「君が……僕の中で、祈り続けて」



その瞬間、彼女は目を見開いた。


アシェルの瞳は、光を孕んでいた。

祈りにも似た願いの形をした──

絶望と欲望が混ざり合った、どこにも届かない感情。


だが、口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。

それはあまりにも静かで、壊れた魂の奥底から滲み出る、救いを否定する微笑みだった。



彼女が最後に見たものは、そんなアシェルの顔だった。



次の瞬間、教会の静寂が破られる。

彼女の体を貫くアシェルの剣。



──赤が、広がる。



古びた祭壇の前に、じわりと滲む鮮やかな赤。

その色は、ステンドグラスに差し込むわずかな月光に照らされ、まるで神聖な儀式の一幕のように静かに広がっていった。



祈りの場所に流れたその血は、ただひとつの心紋を残し──

《聖職者》という名の力を、アシェルの中へと静かに落とした。



彼は微かに目を伏せ、手を合わせる。


それは、初めての祈りだった。

けれど、もう祈る相手はどこにもいなかった。


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