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愛することはない?わたくしたち気が合いますね!

作者: 乃木太郎

「申し訳ないが、私が君を愛することはない。変な期待はしないでくれ」


 ハンナ・アイリット侯爵夫人は、新婚初夜の夫婦の寝室で、得意げに言い放つ夫の顔をぽかんと見上げる。




 ハンナが夫となるロベルト・アイリット侯爵子息と出会ったのは、十歳のときである。二つ年上のロベルトは出会ったときから上から目線で、そのくせ、両親たちがいるときは紳士らしく振る舞う小賢しい男だった。ハンナの両親はすっかりロベルトの外面に騙され、ハンナがロベルトの態度を訴えても信用してもらえない。

 アイリット侯爵家の使用人たちはロベルトの報復を恐れて口をつぐみ、ハンナの生家にロベルトが来るときは使用人の前でもボロを出さない。それならばと、婚約者としての定期的なお茶会はハンナの生家でと伝えると、アイリット侯爵家に慣れてほしいからと言いくるめられ逃げ道は塞がれてしまう。

 まだ幼かったハンナは何もできず、ロベルトたちに言われるがまま、定期的なお茶会のたびに夜ごと泣き暮らす生活を送っていた。

 ある程度分別がついてくると、ハンナはロベルトがいかに小さい男かが見えてくるようになった。ロベルトが両家の親の前で大人しくしているのは、彼らに歯向かうほどの度胸がないためである。使用人やハンナに嫌な態度を取るのは、彼らが自分よりも下だと思っているから。ロベルトの世界には、自分より上か下かしかない。

 視野が狭く、器の小さい男だとわかれば、ロベルトに何を言われてもハンナは聞き流せるようになった。

 ――いつまでも俺の婚約者でいられると思うな。

 婚約が結ばれてから変わらないロベルトの言葉。知性も品性も感じられない、くだらない言葉。そんなものに涙していた過去の自分の稚さに恥ずかしさを覚えるが、今となってはロベルトの子どもじみた癇癪だと思って無視できるようになった。

 ロベルトがよほどのやらかしをしない限り、この婚約がなくなることはない。すべてをあきらめたハンナは、今日も黙ってロベルトの言葉を聞き流す。





 ロベルトは、ハンナがいつまでも言い返してこないことをいいことに、自分に都合のいい婚約者だとハンナを見下し続けていた。見た目が多少いいだけの、つまらない愚鈍な婚約者。ロベルトにとって、ハンナは取るに足りない存在である。

 周りの大人たちもそうだった。ロベルトの両親もハンナの両親も、ロベルトがにこにこしているその外面に簡単に騙される。おかげでハンナが、婚約者を辞退したい、ロベルトと一緒にいられないと言っても、誰もがロベルトはよき侯爵家当主で、よき婚約者だと疑わない。

 絶望を隠せないハンナの表情を見ることが、ロベルトの楽しみの一つだ。

 淑女教育を重ねるにつれ、ハンナの反応はだんだんと悪くなっていった。婚約者の地位が盤石でないとほのめかしてもハンナの反応は薄い。

 ――つまらない。

 ロベルトにとって、ハンナは「自分に愉悦を与えてくれる存在」であった。ハンナがロベルトの言葉で一喜一憂する様子を見ると、優越感を覚えて胸がすく。ハンナの両親がロベルトを褒めちぎり、その様子を苦しそうに見ているハンナの顔を見ると、言いようもない喜びが湧き上がる。

 ハンナがいるおかげで、ロベルトの世界は快適そのものだった。

 それなのに、最近のハンナは何をしてもただ笑みを浮かべるだけで表情が変わらない。ハンナ以外の女性を優先してみても何も言わず、夜会でわざとほったらかしてみても背筋を伸ばして微動だにしない。なんならそんなハンナにダンスを申し込む酔狂な男が現れて、ロベルトはハンナを放置することはやめた。

 ハンナを小馬鹿にしながらも、彼女が誰かに触れるのは、我慢ならなかったのである。


「誰彼と男を誘惑して楽しいか」


 帰りの馬車でそう言うと、ハンナは笑顔で言い返してくるようになった。


「気に入らなければいつでも婚約を解消してくださいませ」

「……は?」


 ロベルトは一瞬何を言われたのか理解できなかった。それはロベルトが言うことであって、ハンナは悲しそうな顔をするべきで――。

 思わぬ反撃を受けたロベルトは、それ以来、婚約解消をほのめかすことはしなかった。




 ハンナが十六歳になる年、ロベルトとハンナの結婚が正式に両家の間で合意した。

 ロベルトはいつまで経っても器の小さい男で、言葉での攻撃がきかないとわかると、不機嫌なオーラを出してハンナに精神的苦痛を与えようとした。しかしそんなものはハンナにとって虫をよけるよりも容易く、彼女はひたすら無視し続けた。これでロベルトが我慢できなくなり婚約解消を申し出てくれればいいと思ったのだが、なぜかロベルトは婚約解消をほのめかすことはしなくなっていたのである。

 大した感動もなく淡々と結婚式を終え、ハンナは侍女たちに磨かれて仕方なく夫婦の寝室でロベルトを待つ。きっと来やしないと思って呑気にお茶を飲んでいると、意外と早くロベルトがやってきた。


「申し訳ないが、私が君を愛することはない。変な期待はしないでくれ」


 ハンナ・アイリット侯爵夫人は、新婚初夜の夫婦の寝室で、得意げに言い放つ夫の顔をぽかんと見上げる。

 愛することはない?期待?

 何を言っているのか理解できず、ハンナはカップを持ったままロベルトをまじまじと見る。ロベルトは不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、なぜか部屋から出て行くこともなく寝台に腰かけた。

 ハンナは先ほどのロベルトの言葉を反芻し、冷静に分析する。

 どうやらロベルトのなかで、ハンナはロベルトのことを愛しており、ロベルトの「お情け」を心待ちにしていたことになっているようだ。


「……旦那様」


 もう婚約者ではないので、名前で呼ばなくて済んだことにほっとする。ロベルトはいつも通り不機嫌オーラをまき散らし、ハンナを見ようとしない。


「何か誤解があるようですが、わたくしは旦那様を愛しておりません」

「は……」

「本日も、侯爵夫人の務めだと思い仕方なくお待ちしておりましたが、同衾はしなくてもいいということですよね?」


 ハンナはうれしそうに立ち上がりベルを鳴らす。すぐに侍女が部屋に入ってきたが、ロベルトの存在を見つけて戸惑うようにハンナを見た。


「旦那様はおひとりでお休みになりたいようなの。わたくしも自室で休むわ」

「おい!何を言って――」

「それではおやすみなさいませ」


 にっこりと笑顔で告げて、ハンナは夫婦の寝室を出て行く。侍女は最後まで混乱していたが、表情には出さず、静かにロベルトに頭を下げた。




 アイリット侯爵家にやってきたハンナは、淡々と家政の引き継ぎをこなした。

 ロベルトとの婚約が決まってから、淑女教育に加え、侯爵夫人としての教育も受けていたので引き継ぎはスムーズに進み、ハンナは順調に執務を進めていく。

 義両親の前ではていねいに頭を下げ、執事や侍女、使用人にも礼を欠かさない。完璧な「侯爵夫人」として振る舞った。

 ロベルトはそんなハンナを見て、やはり不機嫌なオーラをまき散らすだけである。ハンナがぼろを出すのではないかと自分の執務もそこそこにハンナの様子を見に行くが、彼女はいつ見ても侯爵夫人としてつつがなく仕事をこなしていた。

 もともと領地経営は健全そのものだったが、ハンナが来てから、アイリット侯爵領の収支は上向いていたし、時には自らが赴いて領民たちの声を聞きに行くので、すばらしい若奥様だとハンナの評判も上がっている。

 婚約時代、ロベルトが常によき婚約者として称賛されていたように、今やハンナが周囲の評判を恣にしていた。

 それでもロベルトは、ハンナが自分より下で取るに足らない存在だと信じていたのである。


「奥様はお休み中でございますので」

「なぜ自分の妻の部屋に行くのに許可がいるんだ!」


 夜中、急ぎの書類を片付けていると、私室の外で声が聞こえ、ハンナは手を止める。どうやらハンナが実家から連れてきた護衛騎士とロベルトが揉めているようだ。


「ハンナ!お前、どういうつもりだ!?」


 ハンナは小さくため息をつき、扉を小さく開ける。


「こんな遅くにいかがなさいましたか?」


 護衛騎士がロベルトを抑えつけているので、ドアノブすら触れられないが、ロベルトは顔を赤くして唾をまき散らす。


「結婚して半年も経つというのになぜ夫婦の寝室に来ない!」

「わたくしを愛することはないのでしょう?愛人でも迎えられると思っていたのですが」

「な、何を!妻はお前だろう?」


 ハンナは大きなため息をつく。その様子を見て、ロベルトは黙り込んだ。


「ですから、期待をするなとおっしゃったので、わたくしは旦那様に何も望まず任された執務をこなしているではありませんか。何がご不満なのですか?」

「子を生むのも、侯爵夫人の仕事だ!」

「では旦那様は、愛してもいない女と閨をともにしたいのですか?」

「そうではない!」

「わたくしのことは愛していないのですよね?」


 ハンナの言葉に、ロベルトは得意げに胸を張る。


「ああそうだ!お前のことなど愛していない」

「で、あれば、愛していないわたくしと閨をともにするつもりはございませんわね?」

「当たり前だ!」


 そう言って、ロベルトは思わず口をふさぐ。ハンナはいつも通り笑みを浮かべた。


「わたくしと閨をともにするつもりがございませんのに、なぜ夫婦の寝室に行く必要があるのでしょうか?」


 ハンナの言葉に、ロベルトは黙り込む。護衛騎士が顔を背けて、ごほんと咳払いした。誤魔化しているようだがその肩が震えているのをハンナは見逃さない。おかげで、自分は冷静になることができた。


「旦那様はわたくしを愛していない。わたくしも旦那様を愛していない。わたくしたちはじめて気が合いましたわね!跡取りのことは旦那様の好きなようになさってください。それでは、おやすみなさいませ」


 ぽかんとするロベルトに早口でまくしたて、ハンナは扉を閉める。扉の向こうにしばらく耳をすませていたが、ロベルトは黙って立ち去ったようだ。

 ハンナは肩をすくめると、机に向かい直した。ロベルトが執務に身が入っていないせいで、処理するべき書類が山のように残っている。

 ――夜中に突撃する元気があるなら、書類を片付けてほしいものだわ。

 ハンナは心のなかで愚痴る。そうしてハンナは遅くまで、ひとり粛々と仕事を片付けていた。




 ロベルトはその後も、不機嫌なオーラを出してハンナを威圧しようとしたが、ハンナはそのすべてをスルーした。そんな状態が一年も続くと、執事や侍女たちも、徐々にまともに仕事を取り組むハンナの味方となる者が増え、ロベルトに対して冷ややかな目を向けるようになった。ロベルトはそんなことも気づかず、なんとかしてハンナの粗を探そうと、今日も遠くから不機嫌な顔をしてハンナを見つめる。

 三年経ち、ハンナは白い結婚を理由に、離婚を申し立てた。寝耳に水の義両親が驚いてハンナに話を聞きにくると、ハンナは婚約時代からのロベルトの態度を包み隠さず伝えた。執事や侍女、護衛騎士の証言もあり、ようやく義両親はロベルトの本性を知ってハンナに謝罪する。

 しかし、すでに侯爵夫人として頭角を現していたハンナを手放したくなかった義両親は、さっさと離縁の手続きを済ませ、ロベルトを離れに押し込んだ。そしてすぐさま近衛騎士団に所属していた次男を呼び戻して当主にし、ハンナに次男と再婚をしてほしいと平身低頭懇願する。

 侯爵夫人という安定した地位の魅力、何より領地経営におもしろみを見いだしていたハンナは、自分に有利な条件をつけ、再婚を了承した。

 新たな当主を、領民たちも快く迎える。何より敬愛する侯爵夫人が、現当主にあたたかな視線を向けているのが、領民たちにとっては印象的だったようだ。侯爵夫妻のおかげで、アイリット侯爵領はますます繁栄していった。

 ロベルトは今や誰も訪れることのない離れの窓辺で、相変わらず黙ったまま不機嫌オーラを出し続け、ハンナがいつかやってきたときにどうやり返してやるかを妄想して日々を過ごしている。そうして、来るはずもない人の足音を今か今かと待ち構え続けていたが、その足音が自分に向かうことはなかった。

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― 新着の感想 ―
ロベルトむっちゃポジティブメーンじゃん。見習いたい。
再婚相手の次男に恋人がいなくて良かったなぁ〜と。 まぁ、もしいたとしても妻としてハンナを立てているようなので、ロベルトよりは遥かにマシな人なんでしょうね。
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