紅黄草の塔
二回目の冬も過ぎ、雪も解け、春も暮れという頃。
エルラは充分実戦に耐えうる水準にまで達していた。常人であれば、命がいくつあっても足りないような特訓を経てきた。死んでもすぐに復活するエルラにのみ許されるだろう過酷な計画だった。それをこなせば否が応でも力が身に着く。今日まで脱落という選択肢を選ばなかった時点でエルラは素質に溢れているし、すでに事実上の合格判定を得られるレベルにあった。
それでも儀礼に類する行為は、弟子入りの形で教育を受ける以上は必要だった。師であるアルフレートとマルレーナは、そうした通過儀礼を欠くことのできないものと考えている。
エルラとリリは修行の最終段階に移るための試験を行う旨を告げられた。サリクスも知らされていない予定外のメニューで、サリクスは試験地に向かう二人に同行した。
指定された場所は森の中にある空き地で、エルラにとっては何度か訪れたことのある馴染みのある〝運動場〟だった。鳥のさえずり一つ聞こえない不自然なまでに静かな様子に、エルラとサリクスは不審な予感を感じずにはいられなかった。
空き地の対向にはマルレーナが立ち、少し離れた位置でアルフレートが腕を組んで立っている。
足を踏み入れると、流れが滞り淀んだ川にも似た匂いがエルラとサリクスの鼻をついた。
サリクスは即座に臨戦態勢に入り、マルレーナを睨んだ。
「水の匂い……。これが――」
エルラは呟き、隣のサリクスを見た。殺気立つサリクスを見てエルラは自分の予想が正しいことを理解した。
マモノが現れるときには、「海」の匂いがする。そう教わった。海の実物を見たことがないエルラには、海の匂いがどういうものかは知らなかったが、水辺であるからには川や沼と同種の匂いだろうと想像していた。
「ええ。でも、本物はもっと濃い匂いですよ」
エルラの疑問に答えるとも、自分に言い聞かせるともとれるふうに、サリクスが小さく言った。
「そうよ、エルラちゃんは優秀だけど、卒業したあとに実戦でぶっつけ本番は大変だと思って」マルレーナは笑みを浮かべ、言う。「本物に近いものを用意したの」
サリクスは舌打ちし、不快感を露わにしている。
マルレーナが手を叩くと、木々の陰から、大きな影が姿を現した。
九フィートほどの体躯の奇妙な獣。全体像は熊を思わせるが、その首や肩、背からは狼や野犬に似た頭が少なくとも四つは生えており、毛並みは疎らで色も均一ではない。腹からは動物や人の腕が虫の脚のようにざわざわと蠢き、宙を掴んでいる。
明確にそういうセンスの下に造られた趣味の悪い醜悪な継ぎ接ぎの怪物。
「これが一次試験」
マルレーナは微笑みながら、穏やかな口調で淡々と告げた。
エルラはその異形の獣を瞬きせず、凝視している。背負った〈リリ〉の柄に触れる。試験という言葉から、この怪物と戦うことは間違えようのない未来。
「ああ、これ、可愛いでしょう? マモノと熊、小鬼を組み合わせて作ったものよ。あなたの村を襲ったマモノの死体も混ざっているわ。久しぶりだから少し張り切っちゃった」
笑みの張りついた表情でマルレーナは異形を撫で、エルラを一瞥した。
あなたの村を襲ったマモノ――その言葉にエルラの意識が傾く。鼓動が跳ねる。
「いくらなんでもやりすぎです。いますぐやめなさい、マルレーナ」
語気を荒げるサリクス。
「平気よ、サリュ。わたしは平気」
手足は震え、目も潤み、脂汗が滲んでいる。修行の中で精神の制御を学ぶこともあったが、思わず身体が恐怖と喜びに戦慄いた。すでに存在しないと思っていた直接的な仇の残滓に、心のほうも動き始めようとしていた。
「ほら、エルラちゃんは問題ないって言ってるわ。それにね、あなたのお母様やお父上にはいくらでも従えるけれど、あなたは違うわ。わたしはあなたの召使じゃないのよ、お姫様?」
「このイカレ魔女め」
サリクスが苦い顔で吐き捨てた。
「あら、そんなこと言って。サリクスちゃんには特別授業が必要みたいね」
マルレーナはにこりと笑い、指を鳴らした。
ざわざわと葉が揺れ、背後の森から怪物がもう一体這い出てきた。何の生物が素になったのか一目では見当もつかない触手と腫瘍、石灰化した組織の塊が芋虫とムカデを合わせた生物のように蠢く。体高およそ七フィート、全長はその三倍ほどの巨躯。
その異形が動くたびに、水の匂いに加え、腐りかけた血の匂いが辺りに満ちていく。
「少しは本気を出したらどう?」
わずかに嘲笑や憐憫の滲んだ声音と顔で、マルレーナが言った。
「こんなことが――」
サリクスの言葉を遮るように、怪物が動いた。サリクスは飛び退り距離を取った。すでにサリクスは銃を取り出し、退避しながら弾薬を込めている。
「っ――」
「サリクスちゃんはエルラちゃんに甘すぎるの。今回はね、助けちゃダメよ?」
触手と腫瘍の集合体の殺到を受け、サリクスは森へと追いやられる。
銃声が鳴り響く。
「サリュ!」
エルラは叫んだ。状況こそ理解できたが、サリクスへの攻撃が急すぎて反応が遅れた。サリクスと異形が消えた方向に目を奪われたまま、立ち尽くす。
『お姉ちゃん!』
リリの声で、我に返るエルラ。継ぎ接ぎの怪物がエルラの目前に迫っていた。
「いいか、これはお前のための試練だ。それを忘れるな、エルラ」
怪物の突進を躱したエルラに、アルフレートが呼びかけた。
息を吐き、呼吸を整える。いま、この場ですべきことは、この怪物を倒すこと。
エルラは〈リリ〉を構える。
怪物を倒せば、卒業まであと一歩のところになる。それに、この継ぎ接ぎの獣は、村を襲ったマモノの死体が使われている。意図しない形ではあるが、願ってもない復讐のチャンス。
「いくよ、リリ」
『やっちゃおう、お姉ちゃん』
◆ ◆ ◆
轟音とともに樹木が薙ぎ倒された。触手と腫瘍の群れが崖崩れのように暴れまわり、進路上の木々を粉砕機の如く刻み潰していく。一帯の樹木は材としては比較的柔らかい木質のものが多いが、木質がどうであれ木を砕き倒す肉の塊に捕らえられたら人体などひとたまりもない。むしろ、あまりにも惨状が容易に想像できてしまうせいで、意外と耐えられるのではと脅威の見積もりが狂ってしまいそうになる。
サリクスは迫りくる異形から逃げながら、打開策を考えていた。
隠れても迷いなく自分を狙うことから、温度や匂い、振動で周囲を見ていることは推測できる。銃は全く効かないというわけでもないが、通常の生物の脳や心臓に該当する部位がどこにあるのかわからない以上、効率はよくない。そもそも急所を破壊すれば死に至るような生き物なのか。銃という武器は強力だが、対異形においては急所を撃ち抜けなければ術式付与されたナイフに劣る場面もある。いま相手をしているような大質量に対しては、個人の火力では削りきるまでに再生されてしまう。
どうにせよ、まずは相手の目を潰して行動を制限するのが先決だろう、そうサリクスは考えた。逃げ続けるのはサリクスの持久力では難しい。
撃ち切った管状弾倉式のライフルを〈影〉に落とし、小型の爆弾を手に取る。保存缶を再利用した導火線式の手製爆弾、火薬の他に術符と魔鉱石が詰められた魔道具の一種。
サリクスはお手製の爆弾に点火し、放り投げた。
触手は一瞬、投擲物へ意識を向けるが、すぐにサリクスへ狙いを戻した。
息を切らしながら、サリクスは三つの爆弾を投げた。余力が少ないながらも導火線の長さを調整し、すべての爆弾がほぼ同時に起爆するようにして。
三つ目の爆弾を投げ終えたあと、サリクスは手近な幹に姿を隠した。しゃがみ、背を預け、息を止める。
(3、2、1――)
パン、パンと爆弾にしては控えめな破裂音が響き、軽い衝撃のあと、周囲に煙が満ちていく。
サリクスの使った爆弾は、破壊や殺傷を目的にしたものではなく、隠蔽のためのものだった。
魔力と術を帯びた煙によって、触手の異形は「目」を覆い隠され、動きを止めた。酔っぱらったように、ぐるぐると同じ場所を回っている。
サリクスは、ゆっくりと息を整え、慎重に立ち上がる。いくら相手の感覚を鈍らせたからといって、大きく動けば見つかってしまう。作った機会を無駄にするわけにはいかない。
煙幕の効果は数分。
一撃で仕留める必要がある。
諸事情で奥の手は使えない。マルレーナはサリクスに全力を出させたいようだが、サリクスもマルレーナには自身の能力を隠し通しておきたかった。それを知っているからこそマルレーナは、携行火器では簡単に倒せない相手を用意した。
可能な限り平凡な方法で倒す縛りをサリクスは抱えていた。
ホイールロックピストルを取り出す。華やかな装飾の施された、いくらか時代遅れな銃。
木陰から怪物の様子を窺いつつ、装填を行っていく。
一発分の発射薬が収められたケースから火薬を移し、油紙でまとめられた六発のペレットを槊杖で押し込める。ゼンマイを巻き、火皿に点火薬を乗せカバーを閉じ、黄鉄の取り付けられたアームを下ろす。
サリクスは小さく息を吸い、薄れてきた煙を裂き、木陰から飛び出した。
再び獲物を見つけられた喜びに打ち震える触手と腫瘍の群れの歓声を無視し、サリクスは引き金を引いた。
六発の小弾は、触手を撃ち抜き、腫瘍を割り、石灰化した皮膚に弾かれ――
爆ぜた。
銃撃は、ただの散弾ではなく、魔法の弾丸だった。ペレットを包んでいた油紙には呪文が記され、装薬もサリクス手製の特別な火薬が配合されていた。
装飾が銃身全体に施されたこの短銃は、サリクスにとっての〝魔法の杖〟の一つ。装飾は呪文の役割も兼ねており、銃としての機能の安定化と魔弾の術補整を担っている。
爆発散弾で表層を吹き飛ばされた異形へと、サリクスは次の一撃を用意していた。
〈影〉から銛を引き抜き、地面をかすめるように投擲した。縄の付いた銛は、怪物の剥き出しになった肉へと突き刺さる。
怪物が暴れるよりも前に、サリクスは縄を引っ張った。
縄は銛から抜け、その穴から火花が散った。キィン、と澄んだ音が鳴る。
一拍置き、異形の躰の表面がぼこぼこと泡立ち、湯気が昇る。数秒ののちには、全体がドロドロに溶け、原型を失った。
絶命というには、あまりにも惨い終わりだった。命を弄ばれ生まれた怪物の死に様としても、容赦のない幕引き。
銛もやはり魔道具で、摩擦式の発火具によって点火された火薬が魔鉱石へ熱と圧力を加え、その反応で術を起動するものだった。
(よし、うまくいきましたね)
サリクスは内心呟いた。重要な局面で試作品を使うあたり、サリクスも思い切った性格をしている。
(それなりに使いようはありそうですが。それよりもまずは――)
道具の評価よりも前にするべきことがある。
マルレーナの術には「核」が必要。それを排除しなければ、無力化したことにはならない。
ゆっくりと残骸に近づくサリクス。
溶け落ちた肉の海に動くものがいる。痩せ衰え、老いた男。筋張った胸には赤黒い結晶が光っている。彼が異形の核になっていた存在だった。
男はサリクスに気付くと、その濁った目でサリクスを見据えたあと、手を差し出し、祈るような動きをした。
サリクスは心の中でマルレーナに毒を吐き、拳銃を男へ向け、無感情に引き金を引いた。
弾丸は胸の結晶を砕き、男は血肉に沈んだ。
◆ ◆ ◆
「ああ、ヘルマンはやられてしまったのね」
マルレーナは小さく漏らした。
少し時間が掛かりすぎだと思ったら、そうまでして頑なに手を明かさないとは。
「こちらはちゃんと手を見せてあげてるのに」
ふう、と溜息。
(エルラちゃんももうそろそろかしら。今回のところはダメそうね)
素質や異常な才能があろうと、せいぜい二年程度ではこのくらいだろう。あの人たちの娘だからと期待してはいたが、つまらない少女だ。
マルレーナはエルラの現状を見て、少しばかり気持ちが冷めていた。
エルラの術の素質はそこらの一般人にも劣るかもしれないほど乏しいもので、本来であれば自分に教えを請える水準になかった。それでも、師となったのは、旧友の娘だったからだ。エルラには明かしていないが、サリクスの父親からの要請でもあった。
義務感で面倒を見続けてきたものの、戦闘術を教えるアルフレートと違って、こちらは全くの無才相手の教育で、教える側としても張り合いがない。それでもまだ完全には見捨てていないのは、多少なりとも期待しているからだ。少なくとも、今日の相手は術の才能の有無に関係なく、いまのエルラなら倒せるはずのものだった。
マルレーナは、傍らで落ち着かない様子のアルフレートへ、手出ししないようにやんわりと念押しする。
「合格にするには難しいけれど、騎士様が助けに来るまでは頑張ってもらいましょう」
わざわざ復讐の相手を素材に使った怪物を用意したが、それが裏目に出たのだろうか。
「お許しください、我が主様。彼女には必要なことなのです」
マルレーナは、誰にともなく呼びかけるように告げた。
――
エルラは、ハッと目を覚ました。
わずかな間、意識を失っていた。
寒気を感じ、身を震わせるが、どこか違和感があった。浮遊感、断絶感。
胸の方を見ると、怪物がエルラの腹に頭を突っ込み、内臓を喰らっていた。〈リリ〉も手放してしまっていることに気付き、首と目を動かして辺りを探る。両手剣は少し離れた所に落ちていた。
『汚らわしい獣の分際で、よくもお姉ちゃんを。許さない――』
許さない、許さない、とリリは叫んでいる。もし自分が自由に動けたら、お前を細切れにしてやると言わんばかりの剣幕を見せる。
「リリ……」
〈リリ〉を掴もうと、腕と身体を伸ばす。感覚が麻痺して痛みを感じにくくなっているとはいえ、動けば激痛が走り、視界は暗くなり、耳鳴りがひどくなる。
ズルズルといくらか身を裂くも、エルラは再び剣を手にした。
食事に夢中だった怪物も、さすがに気がつき、顔を上げた。
それと同じ瞬間、エルラは剣を振った。刃が獣の鼻先を掠める。継ぎ接ぎの怪物は飛び退り、唸り声をあげた。
『よかった起きたのね、お姉ちゃん。大丈夫?』
「ええ――」
エルラは剣を支えにして立った。上半身と下半身が分かれてしまわない程度には再生したが、回復速度が遅く、まだ完全ではない。
魔力とその素である流体の貯蔵庫たる内臓を喪失したエルラは著しく消耗してしまっていた。復活しても何もかもが元どおりになるわけではない。エネルギーが足りなければ、餓死し続けることもありうる。
「ごめ、ん、リリ。ちょっと貰うわ……」
『うん、いいよ、使って。でも、そのかわり――』
〈リリ〉から魔力が流れ込んでくる。失った分を補うために〈リリ〉が溜め込んでいた分を、自分のリソースとして吸い潰す。
『はやくアイツを殺してよ。あなたにひどいことしたアイツをわたしに殺させて!』
殺せ、殺せと頭の中でリリの声が反響する。妹の発したとは思いたくもない、決して綺麗ではない言葉が痺れのようにじわりと頭の奥に染みる。
エルラの中で、自身の闘志とリリの義務感のような殺意とが混ざり絡まる。窒息にも酩酊にも似た感覚。しかし、それに反し、意識は冴えていく。
修行の中でエルラは、元々は自分は無感情だったことを思い出した。父親があまりにも自分のことを普通の女の子であることを求めたために、そういう振る舞いが当たり前のこととして染みついていた。それがこの二年あまりで剥がれてきた。
自分は死んでも元に戻る化け物、そのことを新しいエルラの常識として嫌でも理解できた。化け物であるなら化け物らしい振る舞いをするべきだと考えた。いまの自分は、魔族に媚びを売って怪物になった卑しい狂人なのだ、と。
そう思うと、楽しく、面白くなってくる。
糸は切られたのでも絡まったわけでもない、初めから切れていた。そのことを認めるのは何度目か。
笑いが零れる。
「あはははっ、いいじゃない!」
『いいよ、お姉ちゃん。それでこそ、わたしの――』
「ふふふ、あはは!!」
笑い声をあげながら、マルレーナの怪物へ斬りかかる。跳び上がり、首を狙い、剣を振り降ろした。
遠心力と重心移動を使った重く鋭い一撃。
骨肉を断った手応え。
しかし、エルラの思い描いた結果にはならなかった。想定では、首を刎ね、今頃は地面に足を着け、怪物の死体を見下ろしていたはずだった。
実際には、刃は途中で止まり、エルラは怪物の首筋に突き刺さった〈リリ〉にしがみつく形で宙に浮いている。断頭を意図した一撃は、防御のために上げられた怪物の腕を斬り落とし、複数ある頭の一つを潰すに留まった。
まずい、と〈リリ〉を引き抜こうとするも、すでに遅く、エルラは身体を掴まれ、地面に叩きつけられた。
回避するには〈リリ〉を手放してしまえばよかったが、その判断を下せなかったし、初めから選択肢として用意していなかった。
(ああ、またか)
リリが何度もエルラの名を叫んでいる。
死なないというのは便利だが、あくまで傷害から復帰できるだけでしかない。慣れこそすれ、絶命するまでの感覚をすべて消してしまえるわけでもなかった。
頭に圧力がかけられる。頭の中で嫌な音が跳ねまわる。エルラは、やるなら一思いにやってくれと思った。
怪物はわざと恐怖と痛みを与えている。傷を受けたことへの怒りもあるだろうが、それだけでなくエルラを格下の弱者、どれだけ痛めつけても直る玩具や食料と見做していた。
死んでいる間、自分はこの怪物に何をされるのか。
(いやだ――)
怪物に自分を玩具にされたとして、怪物は自分に何をしてくれるか。何もしてくれない。対価が貰えるのなら、慰みものでもなんでも喜んでなるが、そうでなければただ損をするのと変わらない。
怪物を倒せば、復讐の達成感をわずかに得られるだけだ。それも、すでに死んだ仇が素材になっているゆえの拡大解釈でしかなく、どこまでも寂しいものだ。得られないほうがマシまである。
しかし、それでもやらなければならない。
エルラは〈リリ〉を握る手に力を込めた。まずは頭を押さえる足を斬って抜け出そうと考えた。
剣を振ろうとした瞬間、
雷鳴にも似た轟音とともに、重圧が消えた。
それが銃撃によるものだとエルラが気付くには、少しの間が必要だった。そして、それをできる人物は、
「サリュ……」
擦れた声で名前を呼んだ。
サリクスは横たわるエルラには一目もくれず、継ぎ接ぎの怪物を見据えている。サリクスの足元には霜が張り、影がさざめいている。漏れ出した殺気と魔力が至近のエルラにも齧りつく。
「手……出さないで」
エルラは震えながら絞り出すように言った。リリも追ってサリクスへ呼びかけた。
「無傷で倒せないようでは、どのみち不合格ですよ」
◆ ◆ ◆
サリクスの介入で問答無用で試験は中止された。どのみち一度致命傷を負ったことから不合格には違いなかったが、それでも他人の手出しで終わりになるのはエルラにとって気分のよいものではなかった。
それに加えてアルフレートとマルレーナから、教えることはもうない、と突き放されたのも、エルラに衝撃を与えた。
部屋に戻ったあと、一晩中エルラはサリクスに当たり散らした。大声で喚き、物を投げ、泣いた。リリに醜態を見せてしまうことを構いもせず。室内は嵐のあとのようにごちゃごちゃにかき回された。サリクスは怒りもせず、ただエルラがするに任せ、疲れ果てた彼女を宥めた。
サリクスにしてみれば、ようやくエルラが心を開いてくれたように思えたと同時に、彼女の弱みを握ることができたという優越感も得ることができた。部屋を滅茶苦茶にし、サリクスの私物を破壊したことを赦すのは「貸し」にできる。少なくともエルラは今回の件を「借り」にするだろうと考えられた。
「サリュ、ごめん。昨日のわたしはどうかしてた」
「ええ、本当に」
逆光の中、サリクスが嫌味ったらしく言った。サリクスの影の下にエルラは入っている。その様子にエルラは顔を青くし、怯えたような態度でサリクスの顔色を窺いだした。
「何をそんなに怖がっているんですか? 別にわたしはいつもと変わりませんよ」
「だって、昨日サ――サリクスさん怒ってた」
エルラは剥き出しの殺気に当てられ、サリクスの脅威を思い出していた。サリクスにとって利用価値があるから、自分は生かされているにすぎない。
所詮は都合のいい女でしかない、今も昔も。
「わたしなんかもう要らない、でしょ。飽きたんでしょ……」
ぶつぶつと卑下する言葉を呟くエルラ。
「はぁ……、わたしはキミを見捨てませんよ。前も言いましたが、わたしの目的を達成するにはキミの力が必要なんです。こんなところで挫折されては困ります。だから――」
サリクスは膝を突き、エルラと目線を合わせる。まっすぐ目を見て告げる。
いつになく真面目な声音。
「エルラ、キミがどう思おうが、わたしはキミを一人前の狩人にしてみせます。今日からはわたしが戦い方、いや、あの化け物の殺し方を教えましょう」
本当はそちらから切り出させたかった、と言い添え、微笑んだ。
「……それがあなたの筋書きなの?」
エルラは口を尖らせ、いじけたように言った。
「違いますよ。でも……」遠くを見て、ふと何か思いついたかのように一人頷く。「そうですね、そうかもしれない……。キミは、これから起こること全部わたしのせいにしてもいいんです。道具は主人を選べませんから」
そういう気の持ち方でいい、と告げた。