融けない雪(2)
木陰の下で、エルラは目を開いた。
首周りの布が冷たく張りついている。それが血だろうことは、想像に難くない。
気分はあまりよくない。今日だけで少なくとも二回は死んだ。それを自覚できてしまうのが堪らなく気持ち悪かった。
話し声が聞こえ、エルラはその方向を見る。地面に突き立った〈リリ〉と、彼女を囲んでアルフレートとマルレーナがなにやら話していた。
「あ、起きましたか」
起き上がろうとしたとき、横から声をかけられた。その声に、エルラの身体が強張る。
サリクスが、何歩か離れた場所で木に寄りかかっている。エルラが蘇生したとみるや、歩み寄ろうと木から背を離した。
「や……近寄らないで。殺さないで――」
エルラは怯え、後退る。
「殺しませんよ」
殺せない、とは言わなかった。不死者を殺す手段や方法は、ありふれてこそいないが、存在している。
頭を振るエルラ。
「合格です」
サリクスは微笑み、告げた。
その言葉を聞いて、まごまごした様子でエルラは口を開く。
「だって、わたし勝ててな――」
「師匠、この子は合格でいいですよね」
サリクスは、エルラの言葉を遮り、離れたところにいるアルフレートに呼びかけた。
アルフレートは頷く。
「え?」
驚きと喜びと悔しさが入り混じったように目を見開き、エルラはそのまま全身の力が抜け、意識を失った。
◆ ◆ ◆
「起きましたか。寝るのがお好きな人ですね」
目を開いたエルラに、サリクスが声を投げた。
嫌味な言葉にエルラは顔をしかめる。エルラの苦い顔を見て、サリクスは「冗談です」と言い添えた。
陽は傾き、薄暗くなり始めている。
「リリさんはお部屋に戻ってもらいました。勝手に触ってしまうのもどうかと思いましたが、本人から許可は取ったので、そのことでわたしを責めないでくださいね」
「うん……」
「さて、疲れたでしょう。お風呂で疲れと汚れを流してしまいましょうね。それからお夕食です」
サリクスは、エルラに手を差し出した。
エルラは一瞬戸惑うも、サリクスの手を取った。彼女の手は冷たかった。あまりの冷たさにエルラの心臓が跳ねる。
サリクスはエルラを引っ張り起こすと、振り払うように手を離した。エルラは驚き、サリクスを見た。
「あ、ごめんなさい。わたしの手、冷たかったですよね」
エルラに触れるのに抵抗があるわけではない、嫌っているのではない、と釈明した。
腑に落ちない部分もあるが、エルラはなんとなくで頷いた。
自分の手が冷たい、というのは自分の手を相手に取らせたうえで振りほどく理由にはならない。
全体的にサリクスの自分に対する態度は妙だ、とエルラは思った。
エルラの中で、サリクスに感じる違和感が大きくなりつつあった。この違和感の正体を探り出せば、彼女に対して優位に立てるかもしれない、そう思った。この女にやられっぱなしになるのは、気分がよくない。
そんなことを考えながら、エルラはサリクスに促されるままに、本日二度目の浴室へ向かう。
浴室に着くなり、エルラは言われるがままにバスタブへ身を沈めた。
脱いだ服は洗ってしまおうと考えたが、サリクスにその必要はないと止められた。今日のところはサリクスが洗ってくれるらしい。
湯に浸かるエルラの口から、溜息が零れた。
温かい湯に、身も心もほぐされていく。じんわりと身体を包む熱は、心地よくもあり、気持ち悪くも思えた。
汚れた衣服をまとめて、浴室を後にしようとするサリクス。それをエルラは呼び止める。
「待って、行かないで」
「どうしたんですか? 寂しいんですか?」
揶揄うようにエルラは言った。
エルラは恥ずかしそうに頷いた。
予想外の反応に、サリクスは戸惑いを覚えた。ころころ態度の変わる目の前の少女に、危ういものを感じた。
「寂しいにしても、さっき自分を痛めつけた相手にそういう頼み事をしますか、普通。わたしが怖くないんですか?」
「え? どうして? サリクス……さんは、それが仕事だからやっただけよね。正直なところ怖いけど、いまいきなりわたしを撃ったりはしないでしょ。だから大丈夫」
エルラは、ケロッとした顔で言った。
「でも、わたしはあなたの着替えを用意しないとですし。それくらいの時間もダメですか?」
「うん」
「わかりました。この子で我慢してください」
サリクスの陰から、黒猫が姿を現した。猫はゆったりと尾をなびかせながら歩き、窓枠に跳び乗った。
ほんの数分、物思いに耽る程度の時間もなく、サリクスは戻ってきた。抱えた籠には浴布や着替えなどが入っている。
「はい、戻りましたよ。何を考えているのかわかりませんが、そんなにわたしと二人っきりで話がしたいんですか?」
そうだ、とエルラが頷いた。
だとしても、同性とはいえ風呂場で内緒話はいかがわしいのでは、とサリクスは思った。
それにしても、エルラはあまり恥じらいの感情が薄いように見受けられる。初対面時には裸を見られて恥ずかしがっていたが、それは妹の手前で初心な少女を演じていたように思える。彼女の境遇はいくらか知っているが、それは態度に表れるようなものなのか。
「もっと近くへ来て」
どこか上の方を見ながら、独り言のように言った。
どうしたのか、とサリクスは溜息交じりにエルラの側へ行き、しゃがんで目線を合わせる。
「手、握っても?」
呟くように尋ねる。
サリクスが渋りながらも、手を差し出すと、エルラは両手で握った。
うん、やっぱり冷たいね、手。タコがあるけど綺麗な手だね――などと呟きながら、サリクスの手指をなぞり、揉んでいる。
やはり、この少女はどこかおかしい、壊れている――、サリクスはそう思った。大きなショックが人格に影響を与えたというよりも、元々がこういうタイプなのだろう。薄々感じていた予感が確信に変わった。
「ねえ、サリクスって言いにくいから、サリュって呼んでもいい?」
猫撫で声で、エルラはサリクスの手を揉みながら言った。
「別に構いませんよ。でも、あんまりベタベタ触らないでください。媚びるのはいいですが、もう少しうまくやりましょうね。手が震えてますよ」
「……あなたも余裕ぶらないで。いつか泣いて赦しを請わせてあげる。それまでせいぜい偉そうにイキがってればいいよ」
エルラは目を細め、声を低くして言った。
「そのくらい元気でいてくれたほうが、こちらも気楽でいいですよ」
ふん、と鼻を鳴らし、エルラは手を離した。そして、ひどく真面目な表情と声音で問う。
「ねえ、なんでわたし生きてるの?」
「それは、心臓を潰され、頭を吹き飛ばされてもって意味ですか」
エルラは頷く。
「それがあなたの『原理』だからだと思いますよ」
「げん、り?」
エルラにとっては聞き慣れない言葉。たどたどしい口調で聞き返した。
「原理、根源――その人の性質を形作るものとされています」
より正確な表現をすると、心象や渇望を含めた精神的な起源のようなもの。術師にとっても厳密な定義の難しい領域らしく、初学未満のエルラには細かいことはわからない。
それを汲み取ってか、サリクスは言い添える。
「簡単に言うと、あなたのココロがあなたを死なないようにしているってこと」
ポケッとした顔で、小さく頷くエルラ。なんとなくは理解できそうではあるが、実感に乏しいといった様子。
「みんなにもあるの?」
「ええ。でも大抵の人は、目覚めることなく一生を終えてしまいます」
それゆえ術師にとっては大きな到達点や目標となるものの一つと、小さく言い足す。
「あなたにもあるの?」
恐る恐る尋ねた。
「あるわ。でも、わたしにはまだわからない」
エルラの中で、ある種の合点がいった。術師であるサリクスにとって大事な〝原理〟に自分は目覚めている。なんの勉強もしていない自分がそこへ至っているのは本業の術師にしてみれば面白いものではないだろう。だから、自分への当たりがきつかったのか。
そう思うと胸が苦しくなってくる。
「じゃあ、どうしてわたしは」
当然の疑問。自分の中でも察しはついているが、確かめずにはいられない。
「ユーレア。彼があなたの原理を目覚めさせたんです。強い力を持つ魔族は、そういうことが可能といわれていますから」
「あなたにもできるの?」
「できませんよ。そこまでわたしは強くありません」
「ごめん」
「なんで謝るんですか?」
「だってわたし、ズルして力を貰ったのと同じ……」
「ええ、本当に、そう」
サリクスは寂しげな顔で小さく言った。
エルラの境遇とこれから出会うだろう苦難を考えてみれば、この程度のことはズルとはいえない。そして、そもそも「原理」はその人の心象や本質と同義で、初めからその人の奥に根付いているものだ。そういう意味では、厳密には〝他人から与えられた力〟ではないだろう。
サリクスの難しい顔につられ、エルラも神妙な表情で壁を眺める。
ふと、新しい疑問が染み出てきた。
「あれ? でも、その『原理』って他の人のはどんなのとかわかるの?」
よくよく考えてみれば、昼の戦いの時点でサリクスはエルラの「原理」を知っていたことになる。でなければ、死ぬようなダメージは与えないし、処刑じみた行動もしない。
「一目見てわかるようなものではないですが、方法自体は存在します。あなたの『原理』を鑑定したのは師匠ですよ。あなたが眠っている間にね」
マルレーナは超が付くほど実力の高い術師で原理術にも精通していると、サリクスはエルラに教えた。本来なら、この「原理診断」の術式施術を受けるには、中流階級を基準にした場合、およそ十年分の収入に相当する額が必要だとも。
「そう……」
「詳しいことは、あとで師匠たちに聞いてください。積もる話もあるでしょうし」
「そっか、わたし、狩人になるんだ――」
「そうですよ。妹弟子さん」
◆ ◆ ◆
温かい料理に、何人かでテーブルを囲む食事風景。ほんの何日か前までは当たり前だったものが、エルラにはとても遠い昔のことに思えた。親しかった村の人の顔も写りの悪い写真のようにぼやけてきている。それどころか、父や妹の顔さえも明瞭さを失いつつあった。
エルラは、自分は家族や故郷にそこまで思い入れがないタイプの人間だったのか、と悲しくなった。
故郷の人たちや家族とは違い自分はまだ生きていることと、自分の薄情さに、涙と嗚咽が零れるの堪える。
アルフレートの「恋人はいるのか?」といった故郷が滅んだばかりの人間に投げるにはあまりにも気遣いの空回りした質問が、むしろ心地よくも思えた。
当たり障りのない歓談もそこそこに夕食を終える。
エルラは、食欲はあまりなかったが、それとは裏腹に思った以上の量を食べてしまった。普段は妹や父に多めに食べさせ自分は少し、という生活をしていたため、満腹という感覚はずいぶん久しいものだった。
食後、サリクスが片付けを終えるのを待って、エルラの今後の生活についての話し合いが始まった。
部屋から持ってきた〈リリ〉を傍らにソファへ座るエルラ。
エルラは、アルフレートとマルレーナの弟子になることが両者間の同意で決まった。
しばらくの間、狩人になるための修行を受けることになる。期間は最低でも二年。身体の動かし方、武器の扱い、魔力操作、マモノの知識だけでなく、要不要関係なく学べるものは学べるだけ学ぶ。
アルフレートからは主に戦闘や生存術について、マルレーナからは術関連や読み書きを教わる。
サリクスは姉弟子として、同年代の先輩狩人として、エルラの修行に協力することになった。半ば世捨て人と化しているアルフレートらに代わり、現代社会についても教える役目を負う。
リリも座学や術の勉強をすることを希望し、認められた。
家事のいくつかは、エルラとサリクスで分担して行うことにもなった。
こうして、エルラの新しい生活が始まった。