旱天の雨(1)
エルラは、薄っすらと瞼を開いた。
天窓から差す陽光が頬をくすぐる。
「――? ここは……」
ベッドの中、剣を抱きしめ眠っていたようだった。自分の体温か、あるいは剣自体に熱があるのか、仄かに温かい。
ベッド横のチェスト上で、黒猫が尻尾を揺らしながらエルラを見つめている。猫は、エルラと目が合うと、チェストから飛び降りどこかへ行ってしまった。
エルラは身体を起こし、部屋を軽く見回した。
扉付きの棚、ワードローブ。大量の本が横積みになった書棚。雑然とした机。壁には工具やピストルが掛けられている。部屋の端から端に渡されたロープには薬草や衣類が提げられ、ドア横の壁には何挺もの銃が立てかけられている。
物が多く、一見すると乱雑に思えるが、一定の法則を以って整理されているようにも見える。
猟師にでも助けられたのか、とエルラは考えた。ロープに掛けられた下着は女性もので、女性の猟師というのはエルラの常識では珍しい存在だった。
安堵とともに不安が浮かぶ。
だが、それよりも、
「リリ……」
抱いた剣の腹を撫で、噛みしめるように呟いた。
『お姉ちゃん、おはよう』
胸の方から声がした。聞き覚えのある声、リリのものだ。
「おはよう……。えっ? リリ?」
『リリだよ』
溌溂とした声が耳に届く。
『お姉ちゃん、八日も寝てたんだよ。心配させないでよぉ』
平然と話すリリに、却って不安になるエルラ。同時に、妹が剣になってしまったのは、紛れもない現実だと思い知らされ、胸が苦しくなる。
「そう、なんだ……。いや、それよりもリリは大丈夫なの? その、身体が――」
エルラが言いかけたとき、
部屋のドアが開き、一人の少女が入ってきた。
あどけなくも、温和で怜悧そうな顔立ち。
毛先に向かって色の深みが増していく艶のある灰色の長い髪、青灰色の目、白磁のように色素の薄い肌。
そして角。
右側頭部の二本の角は結んだように捻じれ絡まり、左側頭から生えた角は上へと伸びている。
「――魔族!」
エルラは少女を見るなり、胸に抱いていた剣〈リリ〉を掴み、少女へ振った。
『ダメ! お姉ちゃんやめて!』
リリの制止も間に合わず、その刃は少女の首へと。
「起き抜けにずいぶんとはしゃぎますね。いい夢でも見たんですか?」
氷のように冷たい目で、少女は言った。
刃は少女の肌に触れる直前で、記号や文字を纏った黒い靄に阻まれ止まっていた。
「その剣を振り回すのは勝手ですけど、この家はわたしの家ではないので。損壊した場合、どうなるかはわたしにはわからないっていうのは言っておきます。それでもわたしを斬りたいのなら、本気でかかってきてください。まさか、いまのが本気だとは言いませんよね」
エルラは寒気を感じた。吐く息が白い。目の前の少女へ恐怖が湧いてくる。
剣を下ろし、ベッドの上へぺたんと座り込む。
「よろしい」
うんうん、と頷く角有り少女。
一瞬で冷気が去り、温度差に汗が滲む。エルラは伏目がちに少女の様子を窺っている。
「何か聞きたそうな顔をしてますね。一つだけいいですよ」
棚の引き出しから、白い布を取り出しながら言った。
「ここはどこ。なんでわたしはここに。どうして魔族なんかに」
「一つと言ったのだけど――、まあ、そんな細かいことは気にする必要もありませんか。そうですね、簡単に説明すると、あなたの村が襲われたと聞いて助けに向かったところ、あなたたちが倒れていたので保護した、という感じです。見つけたのはわたしと、ここの家主の方ですね。あなたも会ったことのある方たちです。わたしは弟子という形でお世話になっているだけですよ」
棚から瓶や布を取り出し、籠に入れている。
「ああ、そうそう、わたしの種族は〝魔族〟ではなく〝イラカシュ〟です。いまはもう〝魔族〟とは呼ばないんですよ、時代遅れの田舎者さん」
魔族――イラカシュの少女は、言った。わざとらしい、嘲笑の混じった口調。
「もうちょっと教えてあげましょうか。魔族という呼び方は蔑称で――そうですね、たとえるなら、意味合いとしては〝人でなし〟よりもさらに悪いニュアンスです。いまでも使うには使いますが、度し難い悪行を為した大罪人に対してがほとんどですね」
打って変わって真面目な説明するような声音で言った。
続けて、独り言のように小さく呟く。
「ま、そういう意味では、わたしは魔族と呼ばれるに値する悪い魔族ですが」
エルラには少女の言葉の意味がよくわからなかった。そもそもエルラの人生で角の生えた者に遭遇したのは、この少女と先日の魔族だけだった。イラカシュと呼ばれる種族に対する知識が、昔話や伝承で止まっている。そして、その中で魔族は大抵、悪の属性だった。悪者の中に善も悪もないのでは、そうエルラは思っていた。
「さ、早くベッドから出て。控えめに言って汚いので、身体を洗ってきてください。場所はこの子が案内します」
魔族の少女は黒猫を指し示した。
エルラは自分の身体を見、腕に鼻を近づける。泥だらけ血だらけの薄汚れた身体。寝ている間に寝具で拭き落されてはいたものの、さすがにそれだけですべての汚れが落ちるわけでもないし、匂いはどうしようもない。自分が裸だということにも、この段階になってようやく気付いた。羞恥で身体が熱くなる。
「はい、履物はこれを。あとこれも使って」
サンダルと籠を差し出す。籠には瓶や浴布などが入っている。
「えっと」
親切さと、手に握った〈リリ〉の扱いに戸惑うエルラ。魔族の少女を見つめる。
「妹さんも一緒でいいですよ」
「あの、裸……」
「ああ、そうでした。わたしは気にしませんが、そういう問題でもありませんよね」
そう言い少女は、ベッドからシーツを剥ぎ、エルラに被せた。
「すみませんが、これで我慢してください。あ、お湯が必要でしたら、この子に言ってください。用意しますから」
そう言い、少女はエルラたちを部屋から出るように促した。
――
「すごい」
黒猫の案内で浴室に辿り着いたエルラ。彼女の口から感嘆が零れた。
明るく開放的な室内。大きな窓には透明度の高いガラスが使われ、床は青と白のタイル張り、陶器製の大きなバスタブ。タブの下は白い砂利が敷き詰められている。
この家の主は、裕福なのだろうか。エルラはそう思った。彼女にしてみれば、浴室に辿り着くまでの、ほんの短い廊下でさえ、未知で新鮮な様式だった。
「すごいよ、リリ、見える?」
『外国に来たみたい』
「だよね。本当にわたしが使ってもいいのかな」
口を半開きにしたまま、部屋中を見て回る。
最後に、最も関心を抱いたバスタブを覗き込む。
バスタブに湯は張られておらず、代わりにたらいと水の入った桶が用意されていた。
期待していたエルラだが、よくよく考えてみれば、バスタブでの入浴の仕方を彼女は知らなかった。
エルラは、〈リリ〉を横たえ、シーツを脱ぎ、たらいに入った。濡らした布で身体を拭いていく。
洗いながら、改めて身体を確かめる。
肘上から肌色の濃くなった右腕。左足も付け根あたりから右腕と同じように変色している。籠に入っていた手鏡で顔を見ると、髪も白くなっていた。髪だけでなく、眉やまつ毛などの体毛も同じく白化していた。
(やっぱり、わたしはもう人間じゃないのかな……)
たらいの中で汚れた水に浸かりながら、物思いに耽るエルラ。ふと、黒猫と目が合う。彼女をずっと見つめていたようだった。
手を伸ばして撫でようとするエルラだが、すんでで手を止め、
「――そうだ、お湯をください」
黒猫に言った。
黒猫は言われるなり、部屋を出ていった。
それを見届け、エルラは桶に残った水を頭から被り、籠から新しい浴布を取り出し身体を拭き始めた。
『え? お姉ちゃん?』
黙っていたリリが、思わず言った。お湯を頼んだばかりなのに、もう入浴は終わりなのかと言いたげ。
「あとで使うから心配しなくても大丈夫だよ」
『?』
身体を拭き終えると、籠から瓶を取り出し、蓋を開ける。中身は香油で、エルラは匂いを嗅いでみた。
「さっきの人と同じ匂い……。でもちょっと違うかも」
そう呟くと、ドアが開き、さきほどの少女が入ってきた。
少女は、すでに入浴を終えた様子のエルラを見て、怪訝そうな顔をしながら、湯の入った桶をエルラの横に置いた。
ふわっと、仄かな香油の香りに混じって、煙のような匂いがした。
「あ……ありがとう、ございます」
「へえ、ちゃんとお礼が言えるんですね」口角を上げながら言った。「なんて、ね。意地悪言ってごめんなさいね。着替えを持ってきます。水や浴布はそのままにしておいて構わないですよ」
「あ、はい」
「そうだ、今夜か明日の朝には、そっちの浴槽を使えると思いますよ」
少女は、扉の前で振り返って言ったあと、口元に指を当て、考える素振り。
「うーん。嫌味ったらしい言い方に聞こえるかもですが、あなたはお風呂に浸かった経験はないでしょう?」
エルラは、少女の言葉に頷いた。少女はエルラが頷くのを見て、小さく笑みを浮かべると、音を立てないように静かにドアを閉じた。
残されたエルラとリリ。
エルラは開けた瓶を閉じると、〈リリ〉をたらいの縁に載せた。
『そんな、わたしなんていいよ~。お湯はお姉ちゃんが使って。あの人もお姉ちゃんのために持ってきてくれたんだよ』
リリは姉が自分にしようとしていることを察した。わざわざ自分のために温かい湯を用意してもらったのが、嬉しくもあり、気恥ずかしくもあった。
それに、いまの自分の姿が剣であることはリリにも理解できていた。人間の姿でない自分を丁寧に扱う必要はないと、言ってしまいたかった。しかし、それを言ってしまえば姉がひどく悲しむだろうことは、十二歳の彼女にも容易に想像できた。
そんなリリの内心を知ってか知らないでか、エルラは優しく言う。
「いいんだよ」
悟ったような、諭すような穏やかな声音。
リリは、姉のこの声色があまり好きではない。こちらの反撃を渋らせ、何もできなくさせてしまうからだ。姉の前では妹のリリでいなければならないのは、いくら姉のことが好きだろうと窮屈に思えるのだ。
『……』
湯を含ませた布で剣の腹を濡らす。
『ひゃっ』
リリが声をあげる。
構わず、泥や血といった汚れを拭き取っていく。青い艶の黒い剣身が、姿を現す。
『あっ。ちょっ、おね、ちゃん。くすぐったい』
磨くように、念入りに洗うエルラ。
汚れを落とすためでもあり、〈リリ〉を隅から隅まで観察するためでもあった。剣になった妹への興味を本人には気取られたくない部分もある。
分厚い刃の両手剣。切先は尖っておらず、鑿やヘラのような平たい形状で、突き刺すよりも抉じ開ける用途のためのものにエルラには思えた。根元から先までの剣腹には、鈴蘭の彫刻が施されている。内心でエルラは「リリ」なら百合ではないのかと疑問に思ったが、そもそも剣の意匠がリリの性質を反映したものとも限らない。
浮彫の隙間に詰まった白い砂を、ぐりぐりとかき出そうとする。
『んっ、んぁ、んん――あっ!』
「ちょっと、変な声出さないでよ」
『だって――、お姉ちゃん、が、悪いんだよ』
息を乱しながら、言うリリ。
エルラは、そんな妹の呼吸を見て、剣なのに人間と変わらない反応をするものだ、と思ったが、すぐにそんな考えを浮かべてしまった自分を恥じた。越えてはいけない線だと思ったからだった。
呟くように詫びる。
「ごめんね、リリ」
『いやいや、気持ちよかったんだよ。お姉ちゃんは悪くないよ』
リリは舌打ちしそうになるのを抑えて、姉を宥める。
(違う、そうじゃないんだ)
「そうじゃないんだよ、リリ……」
エルラの思考が独り言として零れた。
『お姉ちゃん……』
気まずい空気。それでもエルラは手を止めず、〈リリ〉を洗う。そうでもしないと、お互いに要らない探り合いをしそうに思えたからだった。
ひとしきり工程が終わり、水気を拭きとる。
いつの間にか、黒猫が浴室に戻ってきている。
「ごめんね、お姉ちゃんの身体拭いたやつで拭いちゃって」
『ううん、全然。ありがとう』
瓶を手に取り、蓋を開ける。香油を掌で延ばして、〈リリ〉に塗ろうとするエルラ。
『待って。それはいいかな、お姉ちゃん』
慌てたように止めるリリ。
「――だよね」
エルラは寂しげな顔で言った。ちょん、と剣身の根のあたりを指で撫で、あとは自分の身体へ香油を塗っていく。
「これ、すごい――」
香りがよいだけでなく、肌艶もよくなっている。
(いいものなんだろうな。でも、こんなもの自分が使ってもいいのだろうか)
なんの対価もなしに、これだけの施しを受けられるものだろうか。エルラはそう思い、だんだんと怖くなってきた。彼女にとって己の価値は、せいぜい家族三人の食事一、二日分ほどでしかなかった。
ここの家主が知り合いだというのも気になる点でもある。
「はー、リリ。お姉ちゃんこれからどうなっちゃうんだろう」
顔を覆い、溜息交じりに言った。
『? お姉ちゃん、何か勘違いしてるかも』
「え?」
『うん?』
「どういう勘違いかは知りませんが、もういいですか? 暖かい時期とはいえ、冷えるのはあまりよくないですよ」
角の生えた少女が、横から声をかけた。
ハッとエルラが振り向く。
「そんな驚いた顔をしなくてもいいじゃないですか。逆にこっちがびっくりしてしまいます」小さく左手を上げて言ったあと、もう片方の手でたたまれた服を差し出す。「はい、これ。好みに合うかはわかりませんが、いまのところはこれを着てください」
エルラは、少女をジッと見つめた。
「……ああ、この服はわたしのですが、一度も着ていないものなので」
「あ、いや、そんなつもりじゃなくて。いや、ありがと」
エルラは服を受け取ると、少女の目の前で、着始めた。
着替えは、白いブラウスと、灰紫色のピナフォアドレス。簡素なデザインだが上質な生地を使っていることはエルラにも一目でわかった。
「サイズはたぶん問題ないと思いますが、よっぽど合わないなら言ってください」
エルラの着替えを見ないよう、横を向いて、角の少女は言った。
「ちょうどいい、です」
着替え終わったエルラ。それを見て、少女は頷いた。
「髪はまとめますか?」
エルラは、長い髪を手で軽く梳かし、答えた。
「このままで」
『似合ってるよ、お姉ちゃん』
「もうリリったら」
はにかみながら、〈リリ〉を抱える。
「さて、と。では、ついてきてください。会ってもらいたい方がいるので」
エルラは深刻そうに頷く。
「そんなに身構えなくても平気ですよ」
少女が、歩きながら言う。
「さきほども言いましたが、あなたたちも知っている方です。まあ、その方が言うには、最後に会ったのは五年以上前のことらしいので、覚えていないかもしれませんが」
熱のない球状の吊りランプで照らされた白い壁紙の廊下が、エルラにはやけに眩しく思えた。