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揺籃の中で雨を待つ

 半年ほどが経った。

 夕暮れ、エルラは仕事相手との外食を終え、土産の入った手提げ鞄を両手に通りを歩いていた。アーケード正門の仕掛け時計の針はもうじき九を指そうとしている。一月(ひとつき)ほど前の時期に比べれば日は短くなっているが、それでもこの季節は昼の時間が長い。

 夜が特別好きというわけではないが、遅めの夕食を終えたあとでも外が明るいのは少し苦手だ。田舎暮らしの頃は灯火の節約になる、と幾分お得な気持ちもあったが、都会暮らしの現在では街明かりが目立たなくなってしまうのが残念に思えた。

 都市での生活には慣れたが、それでも都会への憧れは簡単には消えずにいる。なんとも思わなくなるときが来るかもしれないが、そのときには新しい発明や文化が世に現れるだろう。日々新たな発見のあるいまの環境にはまだまだ飽きない。

 エルラのやっている仕事は暗い仕事だ。街を行き交う人々とは、根本的には交わることはない。都会的な明るさへの念には、そういう憧憬も含まれていた。

 その肝心の狩人の仕事はというと、害獣や害虫の駆除ばかりで、時によっては農作業の手伝いで業務を終えることさえあった。エルラが基本的に戦闘しかできないため、選べる仕事の幅が狭いのも多少は影響している。それを抜きにしても、狩人の仕事の多くは想像以上に地道なものだ。

 半年近い間でマモノを狩る機会があったのは、たったの二度だった。明け暮れマモノ狩りが必要とされることに比べれば世間が平穏なのはよいことだが、狩人としては本業で生計を立てたいものである。

 サリクスも魔道具製作の収入のほうが多いし、エルラも週によっては別の労働で得た金銭のほうが入りがよかった。

 雑用に類する依頼をこなすうちに、初仕事はサリクスが自分のためにどうにか用意した華々しい仕事だったのだろうと、エルラは思い知った。それだけに、大物と当たって無茶苦茶になってしまったことが、じわじわと悔しく思えてくる。初陣以降の二度のマモノ狩りも、マモノのあまりの弱さに拍子抜けしてしまった。狩りというよりは屠殺のようだった。あまりにも簡単だったため、却ってエルラは自信が削がれそうになりもした。

 このままで、自分の目的は果たせるのだろうか。弱音ともつかぬ疑念や迷いにも似た思いが頭をもたげる。緩やかな念が、靄のように纏わりつく。街の陽気がそうさせる。


 自分は染まりやすい人間だと、エルラは理解している。

 だから、エルラは己に言い聞かせる。

 もっと憎しみと怒りを研ぎ澄まし、それらが鋭く、強固であるように務めなければならない。自分は故郷を滅ばされた復讐のために戦い、それと同時に自分と同じ悲劇を生まないようにする――そうした想いで戦う、義憤の人であらねばならない。そのためにはなんでもするような、危うい女でいなければならないのだ、と。

 もっともどう振る舞おうと、自身が軽薄で卑しい人間であることは覆らない。

 エルラは、内心ではそういった後ろめたい考えを巡らせながら、しゃなりしゃなりと路地を行く。半年の間に着慣れたドレスのフリルがしゃんしゃんと囁き、これまた履き慣れたヒールがカツカツと石畳を叩き、手提げ鞄がぱたぱたと跳ね、帽子の造花が揺れる。

 ようやく帳が降りてきた街に、花が咲いたようだった。





「ただいま」


 帰宅したエルラが誰に言うともなく告げ、食事室兼居室へ入った。

 部屋におり談笑していたボリスとリリが、エルラを迎えた。


「おかえりなさいませ」『おかえり』


 二人へ改めて、ただいま、とエルラは挨拶した。



 エルラは、今日のように非武装で働きに出る際には、留守の間リリをソファーへ立てかけておくことにしていた。自室に放置してしまうのは虐めているようで気が引けたからだ。皆が集まる場所に置いておけば、妹を一人きりにせずに済む。同居するアザリエやボリス、サリクスが手隙のときはリリの相手をしてくれる。

 特に、ボリスがリリの話し相手になってくれるのはありがたかった。アザリエやサリクスは常識的な一般人という性質ではない。彼も使用人にしては自由な立場だが、常人の感性を持っていた。それだけでリリの教育にはよい。エルラは、自身がアザリエやサリクス以上に妹へよくない影響を与えかねない逸脱者だと理解していた。仕事中の留守を口実にリリを普通の人と触れ合わせるのは、彼女が人間に戻ったときのことを考えると有益なはずだ。


「リリ、いい子にしてた?」


『うん。お勉強をたくさんしたよ』


 サイドテーブルに積まれた本を見る。


「これ、共和国の言葉よね? そんな難しそうな本も読めるの? すごいね、お姉ちゃんにはさっぱりだよ」


『うん。記憶と――物っていうような意味』


「本当にすごいよ、リリは」


 エルラは、しみじみと告げ、〈リリ〉の柄を撫でた。

 本がどんな内容かは聞かなかった。尋ねたとしても自分に理解できるとは思えなかったのと、本の題から察するにいまのリリの在り方に関わりがあるように思えたからだ。内容を知ってしまうことに、恐れがあった。

 リリはエルラの秘めた不安感を知ってか知らないでか、「えー、そんなことないよ」と笑う。妹の屈託のない声音に、顔を歪めてしまいそうになる。

 薄っすらと憂いを帯びた表情で固まるエルラへボリスが声をかけた。彼なりの気遣いであり、仕事の催促でもある。


「何かお召し上がりになりますか?」


「いえ、外で食べてきたわ」


「左様で」


 ボリスは立ち上がり、後ろへ下がった。何も要望がないのであれば、姉妹の時間に使用人は邪魔だろうと考えてのこと。何もなければこのまま退室するつもりだった。

 それをエルラが呼び止める。


「これ、あなたへあげるわ」


 手提げ鞄から顔をのぞかせていた瓶を取り出し、テーブルへ置く。薄茶色のガラスに、風車の絵柄のラベルの蒸留酒。


「ほう、これは見たことがない銘柄ですな」


「北の方の蒸留所のものらしいわ。最近出来たのですって。ビールの代わりに作ってみたとかどうとか」


「原料は共通していますからな」


 エルラは、ふーんなるほど、とラベルを見つめる。


「どうもわたしのこと、お酒が好きな〝わかってる〟女だと思ってるみたいなのよね」


「エルラ様の飲みっぷりを見れば、献上したくなるお気持ちも納得できますが」


 エルラは「そう?」と首を傾げた。確かに、自分を酔い潰そうとする男たちとの飲み比べでは無敗であり、そうした経緯で彼らから畏敬の念を向けられているのは察していた。そして、そのある種の崇敬は彼らの人脈を通じて広がりつつあり、中には姉貴分や主人扱いする者まで出てきた。だとしても、自分は大して味の違いもわからない小娘でしかないのだ。ご機嫌取りをされるような格の人間でもない。そのあたりは、エルラには理解できない男心だった。


「しかし、本当に頂戴してしまってよろしいのですか」


「……ああ、そうね。一杯だけいただこうかしら。残りは全部あなたのものよ」


「では、グラスをお持ちします」


 仕事モードのボリスは、エルラへ頭を下げると、流れるような動きでキッチンへと消えた。


『いまの、なんかお姫様とか女王様みたいだった』


「やめてよ、リリまで」


 エルラは、たとえ冗談でも自分が尊敬を集めるような格の高い者のように扱われるのが嫌だった。妹の手前、冷たく突き放すわけもいかず、苦笑交じりにあしらった。

 ほどなくして、ボリスが戻った。


「お待たせいたしました」


 空のグラスだけでなく、水の入ったグラスとチーズも一緒に持ってきた。


「ありがと」


 エルラがお礼の言葉を言い終える前に、グラスに蒸留酒が注がれた。


「そのくらいは自分でするのに」


 グラスを満たす琥珀色の液体を流し見ながら、告げる。


「お構いなく」


「まあ、いいわ」


 わざとらしく肩をすくめ、エルラはボリスとリリの視線を浴びる中、グラスに口をつけた。


『どんな味?』


「どんなって……、ウイスキーよ。爽やかだけど、荒々しいような、なんというか雑然としたような、若いような感じ。うーん、柑橘に似た風味に混じって、チョコレート、いやトフィーみたいな感じもするかしら……。でも総じて、新しい蒸留所のお酒って知っているからかもしれないけど、慣れてないって空気感はあるわね」


『お姉ちゃんさ、お酒の味わからないって言うけど、そんなことなくない?』


「知り合いのバーキーパーさんの真似よ。たまにバーメイド役をすることがあるから、それらしいことは一応できたほうがいいと思って」


『あの大きな劇場のバーだよね。前から気になってたの、お仕事が暇なら観れたりするの?』


 興味ありげにリリが尋ねる。演劇や音楽会、見世物などの興行へ関心があるようだった。

 妹の問いにエルラは歯切れ悪く答えた。


「ああ、うん……そうだね」


 いいなぁ、と呟くリリを横目に、エルラはもう一口、酒を飲み込んだ。

 エルラの心中を察してかボリスは気まずそうな様子で姉妹を見守っている。ここの数年、件の劇場のショーには過激なものが増えているらしいと耳にしたことがあるからだった。リリの想像するような上品で文化的なものとは言い難いものだろう。

 ふと思い出したかのように、あるいは話題を転換するかのように、エルラがボリスへ尋ねた。


「ところで、サリュ――サリクスとアザリエちゃんは?」


「サリクス様はヒルデブラント様の工房におられます。今日はお戻りにならないかと」


「そうね、そう言ってたわね」


「アザリエお嬢様は――」


 コツコツと柱を叩く音が、ボリスの言葉を止めた。音の出処にはアザリエが立っていた。ボサボサの髪をかき上げ、言う。


「ボクがどうしたって?」


「ああ、お嬢様、ご用事ならお呼びくだされば」


「なに、ちょっと風に当たろうと下りてきたら、話し声がしたから覗いてみただけだよ」


「でしたら、お休みになられては? 一昨日から寝ておられないと。お食事も」


「わかってるさ。もう寝るよ。ひとまず描き終わったから、一日二日寝かせて仕上げ作業よ。心配かけて悪かったね」


「お身体があまり強くないのですから、若いからといって無理はなさらず。お嬢様に倒れられてしまうと、行く処がないのです」


「はいはい」やれやれというふうに両手を小さく上げてみせた。そのままの姿勢でエルラへ手を振る。「やあ、エルラお姉さま、お帰り」


「ただいま」


「よさそうなのを飲んでるじゃないか」


「お嬢様」


 ボリスが諫めるように静かに呼んだ。


「飲まないよ。さすがにいまはひどい酔い方をするってわかってるからね」


 アザリエが言った。飄々とした口調ではあったが、バツの悪さが滲んでいた。角をなぞるように、くるくると指を回す。


「じゃ、おやすみ」


 アザリエはエルラへ向けて、クマの目立つ顔で笑みを作った。


「待って」グラスに残った酒を飲み干す。「わたしも一緒に行くわ」




――

 夜の庭をエルラとアザリエはゆっくりと周っている。


「何かボクと二人きりで話したいことがあるんだろう?」


 お見通しだと主張するしたり顔でアザリエが告げた。


「大したことじゃないわ」声を落として言う。「サリュ……サリクスとフリードリヒさん、それとクララちゃんのこと」


「うん? 本人に聞けばいい話じゃないか。まあ、お姉さまは自分のことは尋ねようが尋ねまいが話さないからね。ボクから聞き出そうっていうのは悪くないよ」


 アザリエが得意げに頷いた。ベンチに腰を下ろし、軽く伸びをする。エルラに隣へ座らないかと手招きした。エルラが座ると、アザリエは足を組んで、肘を突きながら、弾む声音で尋ねた。


「で、どのくらい知っているんだい? 少しは店主とお手伝いの子から聞いているんじゃないか?」


「サリクスが前に組んでた人がフリードリヒさんの婚約者で、クララちゃんのお姉さんだったってくらいよ」


「そうだ。それ以上でも以下でもないよ、彼らの関係は」


「そんなことないわ。何かおかしい気がするもの」


「ほとんど家から出ず、交友もほとんどないボクが言うのも奇妙な話だけど、人間関係というものは釣り合いのとれたものばかりではないんだ」


 むしろ天秤が釣り合うことのほうが珍しい。店で買い物をするように価値の指標があるわけでもない。


「ま、ヘンテコだっていうのはボクも同意見かな」


 アザリエはエルラを一瞥した。エルラとサリクスの関係はそれよりずっと不可解に思うが、と心の内で呟く。

 思いがけず、エルラと目が合った。紫がかった灰色の瞳に意識が吸い寄せられる。見つめ続ければ、催眠や暗示の類にかかってしまいそうな不思議な目、そうアザリエは初対面のときから思っていた。うっかり見てしまえば、目を逸らしがたい謎の引力がある。

 アザリエは振り払うように首を振って、視線を外した。

 エルラが不思議そうにアザリエの顔を覗き込んだ。


「え、どうしたの、いきなり」


「ああ、なんでもない。こっちの話だよ」


 話を戻そう、と言い加えた。

 エルラは「ええ」と吐息交じりに小さく頷いた。それを見て、アザリエも頷く。


「お姉さまもフリードリヒも示し合わせたかのように口にしない部分について、少しだけ話してあげよう。でも、ボクが話すことは今日この場限りで忘れて、聞かなかったことにしてくれないかな。いつか、彼らの口から聞けることだろうからね。間違っても、当人に内容の正誤を尋ねたりなんかはしないでくれよ」言葉遣いこそ普段と同じだが、表情と声音はいつになく真面目な調子で言った。「約束してくれるかい?」


 問いにエルラは頷いた。姿勢を正し、座り直す。


「ボクもそれほど詳しく事情を知っているわけではないんだけどね。六年かな、そのくらい前のことだ、ボクなんて子供も子供さ」


 六年前というと、サリクスは十四歳、エルラは十二歳の頃になる。アザリエは九歳だ。その年頃でサリクスはすでに魔道具製作で小銭を稼いでいた。しかし、生活するには到底足りない稼ぎでしかなかったし、サリクスの目的は技師として大成することではなかった。


「お姉さま――サリクスは、その頃は狩人としては駆け出しで、一人ではまともに仕事も見つからないほど信用がなかったんだ。そんなサリクスを猟友に選んだ人物がフリードリヒの婚約者で、クララの姉だったってわけさ。彼女は銃鍛冶の婚約者だったから、サリクスは工房に見習いとして出入りする機会も得られた。工房の生の仕事を間近で見られるし、自分の品に工房の信用を付加できる。おまけに彼女は魔道具をたくさん使うスタイルの狩人だったから、作った品々の実地試験には事欠かない。まさにサリクスにとって渡りに船だったのさ」


 アザリエは、ふう、と一息吐いた。


「その人の名前は?」


「聞いていないのかい? ベアトリクスだよ」


「ベアトリクス……」


 エルラは、ぽつりと復唱した。存在こそ知ってはいたが、名前までは知らなかった。数少ない彼女の話題の際も、誰も彼女のことを名前で呼ぶことはなかったからだった。それゆえにエルラは、名を口にすることを憚られる事情があるのでは、不吉な名前なのでは、と勝手に思い込んでいた。


「二度か三度くらいしか会ったことがないのだけどね、そうだな、すごく綺麗な人だったよ。サリクスが月だとすると、彼女は太陽だ」


 茶目っ気のある性格で、容姿はそのままクララを大人っぽくした印象だった、とアザリエは言い添えた。

 続けて、小声で「サリクスの初恋」と耳打ちした。

 エルラはそれを聞いて、一瞬、胸が苦しくなった。なぜだか、どきりとしてしまった。心の中で「でも、いまサリクスが入れ込んでいるのは自分だから」と見知らぬ死者と虚しく張り合う。

 俄かに表情が固まったエルラを見て、アザリエは悪戯っぽく微笑んだ。


「一年ほど、正確には十ヶ月だけど、そのくらいの期間、サリクスとベアトリクスはコンビを組んでいた。解消の原因は知ってのとおり、ベアトリクスの死だ」


 よほど酷い死に様だったらしい、とアザリエは零した。ベアトリクスの墓には遺体や遺骨も納められていないのだと。彼女の唯一の遺品は切先諸刃の片刃剣一本だった。

 ベアトリクスの死の憶測として、サリクスが殺したのではないか、と言われることもあったようで、サリクスもその噂を否定することはなかったのだという。ベアトリクス以後、サリクスと組んだ者の大半が任務中に死亡か行方不明となっていることも、この流説を補強していた。

 エルラは先日のノーラマリーを思い出した。彼女も痕跡一つなく消えてしまった。戦いに身を置く以上は起こりうる最期と心得てはいるが、だとしても思い出すと苦味を感じてしまう。元相棒や親族ともなれば、忘れられぬ哀傷だろう。


「ベアトリクスの死をきっかけにサリクスは〈捩れ角の吸血姫〉とあだ名されるようになったんだ」


 実のところアザリエは知らなかったが、「吸血姫」という二つ名はベアトリクスの個人的なサリクスへの呼び名だった。図らずも異称が重なってしまったことになる。


「サリクスはベアトリクスが死んだのは自分のせいだと考えている……いや違うな、より正確には自分のせいでなければならない、と思い込んでいるんだ」


 アザリエが寂しそうに告げた。

 危険な仕事に就き、バディーを組んでいたのだから、お互いの生死にある程度の責任を負っていると見做せる。一般論ではそうなるだろう。

 サリクスは、ベアトリクスが命を落としたのは自分と関わったからだと信じている。そうでなければ、彼女ほどの実力者がこのような場所で終わりを迎えるはずがないのだ、と。そう思い続けていた。ベアトリクスに性能評価と称して武器や道具を提供していたのは、サリクスだ。悪い道具のせいで能力が発揮できなかった、とサリクスが自責の念を覚えるのは無理もないだろう。

 陳腐でありふれた話ではあるが、慚愧と贖罪の意識をサリクスは抱え続けていた。

 言われてみればそうだ、とエルラもサリクスのフリードリヒらへの態度の違和感の正体に納得がいった。

 アザリエは、小さく頷くエルラを流し見て言った。


「フリードリヒはサリクスのことを技師としても狩人としても評価しているし、クララにしても亡き姉と同じくらい憧れの人だ。むしろ、魔道具技師を目指す彼女にとっては姉以上かもしれないね」アザリエは一息吐き、夜空を仰いだ。「これは想像だけれどね、フリードリヒはベアトリクスから自分が死んでもサリクスの責任ではない、と事あるごとに言われていたんじゃないかな」


 エルラも、アザリエの言葉には概ね同感だった。エルラの感覚では、フリードリヒもクララもサリクスへ大きな負の感情は抱いていないように見受けられたからだ。それゆえに、サリクスの煮え切らない、曇り空のような情が気になっていた。アザリエの話で、その気がかりは解けた。とはいえ、エルラの個人的な疑問が解消しただけで、実際の問題は解決してはいない。こればかりはサリクスの問題だ。過去の枷は簡単に外せるものではない。本人に逃れる意志がない場合はなおのこと。


「ボクに言わせれば、お姉さまは一人で勝手に色々背負いがちなんだ」


 サリクスだけでなくエルラもそうだ、とアザリエは侘しげにぼそりと言い継げた。

 エルラは何も言わず、思案深げに前を見据えている。

 しばしの沈黙ののち、アザリエが明るい声で言った。


「さてと、これだけかな? 他にも……」


「サリクスの素性について。あなたたちは血の繋がりはないんでしょう?」


 アザリエが言い終わらぬうちに、エルラは問いを投げた。


「知って何かあるのかい? お姉さまが言っていないということは、伝える必要がないと考えているからだよ」


「わたしを侮りすぎよ、みんな」


 エルラが目を細め、笑った。

 自分はどうあっても身体しか取り柄のない田舎娘でしかない、エルラは自身をそう捉えている。サリクスやアザリエがどう見ているかは知らないが、少なくとも頭のよい人間だとは思われていないのは明白だった。頭が弱いのは、エルラも自覚している。


「サリュはさ、クルツェヴィルクのすごくいい家の出なんでしょう? 国が滅んでいなければ、こんなところでわたしみたいな汚い惨めったらしい小娘に構うなんてありえないほどの」


 遠くへ投げかけるように、宙へ言葉を吐いた。

 エルラはサリクスへ憧れと嫉妬を抱いていた。サリクスは家こそ没落してしまったものの教育も受けられ、ほとんど自立している。対する自分は、読み書きも怪しく男に媚びるしか能のない田舎娘だ。故郷と家を失っている部分は同じだが、その共通点ですら一国と一村と規模が大違いだった。

 近い立場、境遇にあるからこそ、エルラには二人の差が歪なほど大きく見えた。

 それらは、サリクスが自分へ依存しつつあることの優越感を以ってしても覆うことのできないものだった。


「ごめんなさい、ちょっと意地悪な言い方だったわ」


「いや、構わないよ。ボクもお姉さまには色々言いたくもなるからね」飄々と言ったあと、一転して噛みしめるように真面目な声音で告げた。「でも、エルラお姉さまは〝汚く〟も〝惨め〟でもないよ」


 続けて、「サリクスの次に美しい、理想の姿だよ」とアザリエはぼそぼそと零した。その一言は余計だ、とエルラは思わず返してしまった。その反応にアザリエも堪らず笑う。まったくだよ、と含みのある調子で呟いた。


「はぐらかそうとしても無駄よ。あなたの愛しのお姉さまの素性を教えて」


 言い聞かせるようにエルラが告げた。静かで落ち着いた声音だが、有無を言わせぬ威圧感が全身から滲み出ている。

 アザリエはエルラの圧力に耐え、彼女の問いへ否と念押しするようにゆっくり首を横に振った。


「それだけは話すことはできない、絶対にね」


「元の家名も?」


「それを言ったら、調べられてしまうだろう?」


「行方知れずのお父さんは? サリュがわたしに殺させたい魔族って――」


「少なくともボクは告げる立場にない。この件に関してはボクはほとんど部外者なのさ。宿屋の主人は客の名前と宿泊日を知っていても、その客が真に何者なのかを理解しているわけではないだろう? まあ、そのうち本人から聞けるときが来ると思うよ。お姉さまもタイミングとか知らせ方とかをさ、窺っているんだ」


「それって、半分くらい言ってしまっているのと同じじゃない?」


「エルラお姉さまが、どういう想像をしているかは知らないけど――」


 アザリエは、たぶん想像どおりだよ、と吐息のように音にならない声で呟いた。

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