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メガロドン対竜宮城の乙姫3

 梨丸はそもそもカニがあまり好きではない。味や食感はともかく、からを剥くのがひたすらに面倒くさいから。とげが手に食い込む中、必死になって殻を割り、ようやく得られるのは指1本分程度のカニ肉。割に合わないのだ。


 そんなことを思いながら梨丸は来た道を引き返し、先ほどまでいた位置へ戻ってきた。


 リリがの島へと渡り、そして戻ってきた場所へと。ここが島の船着き場まで最も近いからだ。


 ベルトから下げるのは弓矢一式。首には調教用のホイッスルをかけ、手に握り締めるのはただの布。装備はそれだけ。カルキノスの重厚な甲殻には傷ひとつ付けられないだろう。

 だが行かねばならない。古代鮫あいぼうと共に生き延びるため。


 湖はすっかり血に染まっていた。敵モンスターの分も多いのだろうが、メガロドンが負傷した分も多分に含まれているはずだ。出血で消耗してしまう前に勝負を決めなくてはならない。


 竜宮城の乙姫は相変わらず島の船着き場に立ったまま、両のハサミを振り回していた。カニは水陸両用である。水中専門のサメと水中戦になることを警戒しているのか。


 メガロドンの姿は見えない。水中で攻撃の機会をうかがっているのか。それとも勝てぬと判断して逃げてしまったのか。相棒とはいっても所詮は人間と魚。完全に気持ちを通わせるのは不可能だ。


 なのでこれは賭け。

 ただ黙って殺されるよりは、あらがってでも生き抜くための。


 梨丸は大きく息を吸い、声を張り上げた。弓矢を手に持ち大きく振り回して、相手を威嚇いかくする。

「乙姫! こっちを見ろ! 戦えるのはサメだけじゃないぞ!」


「貴様の相手はあとでしてやろう」

 素っ気ないがよく通るカルキノスの声が返ってくる。敵はこちらをチラリとも見なかった。甲羅から飛び出た2本の目は、変わらず湖面を凝視しているようだ。


 ——これがゲームならスキル【挑発ちょうはつ】でも使えば、1発で敵の攻撃目標は自分に切り替わってくれるんだけどなあ……。

 梨丸は歯噛みした。現実はそううまくいかないものである。


 人間など弱小生物だというのは、魔界のモンスターの間でも常識になっているようだ。どのモンスターも人間を警戒しない。ただ、邪魔だからと殺しに来るのみ。それは人間が害虫駆除をするような感覚なのだろうか。


 戦闘中の相手から注意を引くには、相手にとっての強敵でなければならない。だが生身の人間にそれは不可能。たとえ魔界に銃を持ち込めたとしても、カルキノスの分厚い甲殻は貫けないだろう。それほど敵は強大で、人間はか弱い。


 ならば——一瞬でも視界に入れたくないような、吐き気をもよおすようなクズになりきるしかない。高い知能を持つ魔界最強種が、確実に殺意を抱くような。

「竜宮城の乙姫さんに質問があります! これは人間の女子用下着ですが、イロコちゃんってどんな下着が好きなんですかね!」


「なんだと!?」

 初めて乙姫がこちらを見た。両の目をぎょろりと輝かせ、底冷えのするような殺気と共に。


 だがひるんではいけない。少年は手にした布をかかげて大きく振り回した。それはもちろん、リリが脱いだばかりのパンツである。

「もうイロコちゃんは俺のものなんだから、どんな服を着せようと脱がせようと勝手なんですがね! でも下着の好みを聞いても恥ずかしがって教えてくれないんですよ! なので育ての親なら子供の趣味も知ってるんじゃないかと思いましてね!」


「この腐れ外道が! 娘の純潔じゅんけつけがそうとした者は、全員こうして始末してやったぞ!」

 カルキノスはハサミを振り回しながら、身体の向きをこちらに向けた。これが人間なら怒りの形相だったのだろうが、相変わらずカニの表情は読めない。ただ殺意がとどろいてくるのみ。


「——やはり汚らわしきは人間! 地上世界などこの世の地獄! 死んで魔界の大地に沈め!」

 竜宮城の乙姫は両手で攻撃を仕掛けてきた。


 片方は横薙ぎの一閃。

 片方は天空からの叩きつけ。

 その2撃が弧を描きつつ迫り来る。


「うおおマジかよ!」

 湖を渡ってこちらに来てくれると思っていた。200メートルものリーチがあるとは想定外だ。予定では、怒りに我を忘れたカルキノスが、こちらに来ようと湖に入ったところをメガロドンに攻撃させるはずだったのだが。


 実際の敵の行動は、超ロングレンジの、かすっただけで即死そくし不可避ふかひのヘヴィシザー。


 だが避けられないことはない。

 相手の攻撃は弓矢より遅い。おそらくは野球のピッチャーが投げるボールほどだろうか。目視はギリギリ可能だ。


 ——ミスったら即死! ミスったら即死!

 もはやそれ以外は考えられない。


 ただ、敵にとって最大の武器が、今は両方ともこちらに来ている。

 つまりメガロドンが接近するなら今だということだ。千載一遇のこのチャンスは、絶対モノにしなければならない。


 考えるより先に、梨丸の手がひとりでに動いていた。

 パンツを捨て、右手に弓を、左手にホイッスルを。


 矢はたない。こんな場合に悠長に狙いを定めている暇はないのだ。

 梨丸は笛を鳴らした。


 ポー! ピー!


 単純な2音の号令。


 魔界探索士は、声を出せなくなった場合に備えて調教用のホイッスルを常備している。

 そして魔界探索用の猛獣たちは、その合図に従うよう調教されている。


 サメは通常、音よりもにおいで敵を察知する。だがメガロドンのリムネもこの笛の音には従う。


 ある種のイルカは、群れ全体に号令を出すとき海面への着水音を利用する。

 着水するときの姿勢は鼻先からなのか、胴体からびたんといくのか。尾ビレが水面にスッと入っていくのか、それとも水面を叩くようにするのか。それらの微妙な違いによりイルカは群れへ合図を送るのだ。


 メガロドンの調教にも、その仕組みが応用されている。

 空気中よりも水中の方が、音の伝達効率が良い。このように海の生き物とは音の合図と相性が良いのだ。


 魔界探索用の猛獣に仕込まれる号令の種類は少ない。単純化・効率化のためだ。攻めろ。逃げろ。噛みつけ。踏みつけろ。飛べ。潜れ。などなど。


 梨丸がこのとき送った命令は『飛べ』。

 動物に『逃げろ』と命令する場合、その方法までは指定しない。


 つまり、それ以外の全ては攻撃指示である。調教と訓練により、いくつかの攻撃パターンを身体に叩き込ませているのだ。


 梨丸の仕事はここまで。敵の攻撃を引きつけることができたのだから上出来だ。


 ——ゲームのタンク役は攻撃を受けても平然としていられるけど、実際二度とやりたくねえくらいヤバい役割だな……。


 少年は冷や汗が止まらない。


 サイドから襲い来るカニのハサミを伏せてやり過ごす。ただそれだけで吹き飛ばされてしまいそうなほどの風圧だった。


 だが本能的に地面へ踏ん張っていては次なる攻撃をもろに喰らってしまう。

 梨丸は地面の上を横に転がった。


 一瞬遅れて——先ほどまで少年がいた位置に、天空からの爆撃が突き刺さる。


 身長177センチの梨丸が、伏せたまま浮き上がってしまうほど大地が振動した。内臓が圧迫され、呼吸ができない。


 もはや音など聞こえない。

 地面がえぐれ飛び、砂がはじけ散る。


 だが咄嗟とっさの判断は正しかった。重ければ重いほど精密攻撃はできない。この世に魔法はない。魔界のモンスターも慣性の法則に従うしかないのだ。

 両手のハサミに強烈な遠心力を効かせている以上、軌道修正は難しい。ハンマー投げの選手が鉄球を振り回しているとき、その鉄球を直角にたたき落とす手段があるか——というとそれは無理だろう。


 ——いくら巨体を誇るカルキノスでも、そんな芸当はできない。できないでくれ。


 神も仏もない魔界で、少年の祈りは通じた。


 重くて勢いのある物を急に方向転換させるのは魔界最強種でも無理があったようだ。

 車は急に止まれない——日本人ならば誰でも知る標語である。


 生き延びた幸運を感謝している余裕はない。梨丸はすぐに立ち上がり、巻き上げられた砂がパラパラ舞い落ちる中を走って逃げた。

 逃げながら、振り返って戦いの行く末を確認する。その様子は非常なスローモーション映像として映った。


 カルキノスの両鉗脚(ハサミ)はまだ本体に戻っていく最中だった。200メートルもの遠距離に腕を伸ばしたのだ。確実に攻撃のリズムは崩せた。


 水面を勢いよく突進していくのはサメの背ビレ。の島の桟橋付近に陣取っている、竜宮城の乙姫へ一直線に。


 イルカやクジラが魅せる華麗なジャンプは有名だが、サメも似たような行動をとることはあまり知られていない。

 メガロドンのリムネは、その最高時速100キロともいわれる高速遊泳の果て——勢いよく水面から飛び出した。


 島に生える木々よりも高い、巨大なサメのドルフィンジャンプ。

 雄大な富士山を背景に、流線型のボディと水しぶきが綺麗な弧を描く。


 その終着点は巨大なるカニのモンスター・カルキノス——竜宮城の乙姫。


 リムネの体重は、厩舎きゅうしゃによるとおよそ13トン。

 高層ビルの建設に使うような極太のH型鉄骨ですら、1本数トンである。落下してきた鉄骨を受け止めようとしたら、人間など即死だ。ゾウやヒグマなどの大型動物ですら、即死は免れても、骨や内臓をやられてまもなく死んでしまうだろう。


 メガロドンはそれを数本束ねた重さ。

 あらゆる物を叩き潰す生きた鉄槌。


 魚が空から降ってくるというのは、水の生き物にとって完全に想定外だったのだろう。そのおかげでカルキノスは回避行動が遅れたようである。自慢のハサミはいまだ手元に戻っている最中なのだから、迎撃も不可能だ。


 そもそも、超重量のハサミを振り回している最中に急な退避などできようはずがない。これが砲丸投げの選手なら、振り回している鉄球を投げ捨てれば逃げられるのだろうが。


 だがカルキノスのハサミは、内部のスライム組織を通じて繋がっている。肉体の一部など捨てようがない。もし敵が腕すら自在に分離できる存在なら、敗北していたのはこちらだったのだろう。


 魔界は不思議な空間だが、まぎれもない現実世界。

 この世には浮遊魔法も反射魔法も無い。


 それはまるで、作業用クレーン車がビルの屋上から転落してきたときのような——常識外れの大激震と大音量。

 ドラゴンですら耐えられないであろう超重量ボディプレスは、圧倒的防御力の装甲を上回った。


 富士山を望む晴れやかな河口湖一帯に——。

 カニの殻をへし折る音が木魂こだました。


 メガロドンは竜宮城の乙姫をし潰し、粉砕した。

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