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「やっぱり、まだそのぼろを着てたか」
四日目に帰ってきたダッカスは、シーラを見るなり、そう言った。
「だ、だって、ダッカスのでっかい服しかないんだもん。奥さんの服はないの?」
「遺体と一緒に焼いた」
燃やす材料がないなか、火葬は生前使っていた衣類で行なわれた。
「あ……そう、か」
「まぶしかったぜ。ここ一年、お目にかかったことのない明るさだった」
「そう。あたいんとこは、火葬できるくらいの服もなかったからさ、売っちゃった。かあさんの遺言でもあったしね。それも一週間のごはんで消えちゃったけどね」
麻薬Rに汚染されてない死体は、それから油を取り出す業者が買い取ってくれた。
いうなら、人が最大の資源だったのだ。
「これ、羽織って。お前の服を調達に行こう」
ダッカスは、手持ちの服の中で一番厚みのある上着を、シーラの頭からかぶせた。
シェルターは、真ん中から円を描くように、五つの層に区切られていた。
中心の層は、いまや霧におおわれてしまった、太陽の製造工場、U地区。そのまわりを取りかこむように、ゴミ捨て場のT地区。その外がわを、S、R、Qの貧民窟。そして、少しはマシなPからL地区と、中クラスのKからG地区が大きな輪を形成していた。
一番外がわの薄い層が、FからA地区の上流階級の町である。
ダッカスが向かったのは、貧民窟の方向だった。
彼の住むH地区は、貧民窟のなかでも、Q地区と隣接していた。
「ね、ダッカス。あたいの服をどこで調達すんの?」
貧民窟に踏み込んだこともなかったシーラは、不安を訴えた。
「T地区」
わざと地区名でいうあたり、意地が悪いとしか思えない。
つまり、ゴミ捨て場に着られそうな服を拾いにいくと、そういうわけなのだ。
「結構いいものが転がってるんだぞ。金持ちなんか、飽きたってだけで物を捨てるからな」
「で、でも普通、わざわざ危険な貧民街を通ってまで取りにいかないよっ」
「大丈夫。最近は、Q地区でも"R"がはびこっててな。人を襲う元気のある奴はいない」
「それはダッカスが強いからだろ」
「そう。おれがいるんだから、どこ通っても大丈夫。分かった?」
「う……」
さすがは年の功というのだろうか。
納得させられてしまって、シーラはうなった。
「要するに、お前は行きたくないんだな?」
「だ、だれが行きたがるんだよ。貧民街なんて!」
「だが、知ることも大事さ。絶対ああはなるまいと思うぜ」
「"R"の怖さは知ってるよ。最近は普通に町を歩いてても、転がってるのを見かけるじゃないか」
「あんなもの、ほんの一部だ。本場のすさまじさに比べたら、可愛いものさ」
ダッカスは、強引にシーラの服の袖をつかんだ。
「ちょ、ちょっと、ダッカス!」
シーラは、長すぎる服の袖をのびるまで引っ張られて、仕方なく歩きだした。
「言っとくけど、これはあんたの服なんだからね」
「上等」
少し振り返ったダッカスは、シーラのなにを上等だと称えたのだろう?
「さむう…い」
貧民街に近付くにつれて、路地の温度ははっきりと下がってきていた。
「はぐれるな、もう目付きのおかしな奴が増えてきただろう」
シーラの耳元で、ささやくようにダッカスが言った。
たしかに、そうだった。路地の街灯を避けるように、暗がりの中で、いくつもの影がうごめいている。
鼻を突く異臭もそこからただよってきた。
貧民街に入ると、すぐに超合金で舗装された道は途切れ、砂利道に変わった。街灯も、格段に少なくなった。
シーラは、ぎゅっとダッカスにしがみ付いた。
視界が利きにくくなったせいもあったが、なによりも町に充満した腐敗臭が、シーラの危機感をあおった。
Rは、ひとを生きたまま腐らせる。じわりじわりと、夢見ごこちのうちに。そうして、腐りきって崩れた肉塊を苗床に、Rは育つという…。
「目をこらしてごらん。だんだん見えてくるから」
ダッカスはやさしい声音で、少女には厳しすぎる言葉をつむいだ。けれど、目をこらさなくても、暗さになれた目はすぐにおそろしい光景をとらえた。
路上につみあがった、腐敗した肉塊。もとは、人の形であったはずのもの。そして、その骸を苗床にして、苔にも似た植物が育っていた。耳をすませば、ぷちぷちと泡の弾けるような音が聞こえる。
「い…いやあ…! ダッカス、ダッカス、やだあっ!」
帰ろうと叫ぶシーラをよそに、ダッカスは貧民窟の奥へと足を進めた。
慌ててダッカスの背を追い、ふいに踏み付けた、ぬちゃっとした感触のものに、シーラはありったけの声をあげた。
「いやああああっっ」
「シーラ! 落ち着け、すまん、おれが悪かった!」
ようやく、少女に見せるものではなかったと気付いたダッカスは、シーラを抱き上げると、身をひるがえした。もときた道へ。
しかし。
「ダッカス、ダッカス……」
彼の名を呼びながら泣くシーラをかかえながら、ダッカスは足を止めた。
かすかに舌打ちする。
「えらくにぎやかなことだねえ…」
Rを服用してまだ日の浅い荒くれものが数人、ふたりの前に立ちはだかったのである。
シーラの悲鳴を聞き付けて、やってきたらしい。
Rは、初期の段階で、異常な怪力を引き出す作用があった。そして、夢見ごこちのまま、ありあまった力を発散させるのだ。
「シーラ、口を閉じてろ。舌をかまんようにな!」
ダッカスは、言うが早いか、きびすを返すと、貧民窟の奥へと走った。
シーラをかかえて、彼らを倒し、町へ逃れるような器用な芸当は、ダッカスでも無理だった。
ダッカスのあとを、ばらばらと複数の足音がつづく。
シーラは、ひたすら目を閉じて、ダッカスにしがみついた。
そうしてダッカスの息があがってきたころ、シーラは闇に投げだされた。
「きゃっ」
なにか固くておそろしく冷たいものが、シーラを受けとめた。ダッカスのぬくもりから離れて分かったのだが、あたりの空気はいつのまにか氷のように冷たくなっていた。
すぐそばに、ダッカスの息遣いがある。息だけが、かすかに白く、目でとらえることができた。
がちゃがちゃと固いものがぶつかりあう音がして、追っ手がせまってくるのがわかった。
「T地区だ」
ダッカスが、吐き捨てるように告げた。
T地区──ゴミ捨て場。つまり、シーラはゴミの上に投げだされたのだ。
「鬼ごっこは終わりかい、おっさん」
荒くれものたちの間から声があがった。
「ここで相手になってやる。いつでも来い。先に言っておくが、おれは一級の警備員のライセンスがあるんだぜ」
ダッカスの親切心からの忠告は、当然ながら聞き入れられなかった。
放っておいてたって、同士討を平気でする、力のあまった連中なのだ。
「いいさ。その夢が腐りおちる前に、断ちきってやる」
殴りあいが始まった。
ダッカスに対して複数。シーラには、相手の正確な人数はわからなかったが、五人以上いたことはたしかである。
Rの作用による荒くれものたちに対して、ダッカスはまったく強かった。一級のライセンスはだてではない。ダッカスにかかってきたものは、ことごとく地面に──ゴミの上にしずめられた。
「シーラ。すまなかった。怖い思いをさせた」
最後の一人が片付いたあと、ダッカスはシーラの前に立った。
「こ、殺しちゃったの」
「どうせRをやったんなら、長くはない」
「でも、でも…まだ浅かったんでしょう、あの人たち。更生できたかもしれないのに」
「無理だ。Rは、一滴でも打っちまったら、末路はだれも同じなんだ」
ダッカスは、その事実を、まるで経験者のように語った。殺すほうが、その人のためだと。
「シーラ。だいぶ目は慣れてきたか?」
ゴミ捨て場に明かりはない。
貧民窟のほうから、わずかに届く光があるだけだ。
「うん…ダッカスの、からだの輪郭が少し分かる」
「そうか。それはよかった。服を探そう」
「うん」
「そうだ、明かりをつけようか。お前がマッチをたくさん持ってきてくれたからな。えーっと………ちょうどいいのがあった」
使い古したランプを、ダッカスは拾い上げた。蝋がわずかに残っていた。
ランプに、小さな明かりがともる。あたたかみのあるオレンジの光が、ゴミの山をてらす。
シーラは、歩き出した。ダッカスが、ランプを手に、彼女の後ろにつきしたがった。
まるで従順な家来をひきつれて歩くお姫さまみたいだと、ふと思う。
「もう少し先に行ったら、森がみえてくるぜ」
見てきたことがあるかのように、ダッカスが言った。
T地区の向こうに、霧の森がある。だれでも知っている知識だ。それでも、シーラは気づいた。
「ダッカス…もしかして、警察官だった?」
「まあ…そうだな」
警官──それは、秩序の崩壊とともになくなった取り締まり職。シェルターの中で華を咲かせていた文明を守り、人々の生活を守り、悪を成敗していた栄光の職業。
一年前、霧の森を突破しようとしたことが、彼らの最後の仕事となった。森は彼らをこばみ、そして、世界は崩壊した。秩序も正義も、今日を生き延びるために捨てられたのだ。
「だから、ここに来たかったんだ」
シーラの問いに、ダッカスは無言の肯定を返した。
「なんでここはこんなに寒いんだろう。太陽の近くなら、暑くてもいいはずなのに」
明るい声で、シーラは言った。ダッカスがほっと息をついたのが分かった。
「霧のせいだ。氷よりもはるかに冷たいんだ。それが、まわりの空気を冷やして、闇の町を冬にしたんだ」
そうして、"R"をはびこらせたのだ──と、その事実を、ダッカスはのどの奥に飲み込んだ。シーラに言っても、どうしようもないことだから。
「あっ、ダッカス、あそこに布きれみたいなのがある!」
シーラのはしゃいだような声に、ダッカスはハッと我に返った。
ゴミのなかでねばること一時間弱──動きまわる分、寒さは少しやわらぐ──シーラは適当な子供服を三、四着みつくろった。
「そろそろいいかな。満足のいく品が選べましたか、お姫さま」
「うん、いいよ。あたい、こんなに服を持つのなんか初めてだよ──うん…太陽が消えてから、の話だけど」
「気にするな、シーラ。だれもが、あの繁栄を何百年の昔に感じてる。夜も昼もない、季節もない町で、時間の流れがどれほど遅いか。きっとどんなに偉い学者も知らなかっただろうぜ」
「そうだね。あたいは、まだこんなにも子供なんだよ」
もう五年も十年も生きてきたような感覚がシーラのなかにあった。ダッカスもまた、暗やみの一年を数年と感じていた。
「おれも、いったい、いつになったらお迎えがくるんだか」
「ダッカス…あれ、あれが、霧の森……?」
ふいにシーラが視線を前方、冷気の流れてくるほうに投げかけた。
白い壁のようなものが、浮かび上がっていた。服を探すうちに、いつのまにか霧の森のそばまで来てしまっていたらしい。
「そうだ…これだよ、シーラ!」
白い壁は、不思議な明るさを保っていた。ただ白さだけが浮かびあがっている、そんな感じ。そして、その白の向こうには、たしかに緑の木々が見えた。
わずかな蝋を拾い足しながら明かりにしていたランプを投げだすと、ダッカスは壁に走りよった。
しかし彼の指先が壁にふれるかふれないかのところで、電光が走った。大きな体が、白い壁にはじかれる。
「これがいつもおれを弾きだすんだ、ちくしょう!」
それが、シーラの聞いた唯一の、ダッカスの泣き言といえる泣き言だった。
「ちょっ…ダッカス、見て……」
霧の前でしりもちをついたダッカスの背中を、シーラはたたいた。
「ひとが」
「なん……!?」
シーラの指し示すほうに、たしかに人影を見付け、ダッカスは言葉をなくした。
線の細い二十代の男性が、霧のむこうから歩いてくる。
「そんな、ばかな」
ダッカスの驚きをよそに、青年は、霧の森から出てくると、ふらりとかしいだ。
「お、おい、あんた───」
「………ゆ………」
「え?」
「お、ゆ………」
青年は、それきり、動かなくなった。
「"お湯"……?」