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ダッカスの住まいは、落ち着いたマンション街にあった。
「ここだ」
暗い階段をのぼりつめた、ワンルーム。
部屋の中は、ベッドがひとつとテーブルがひとつあるきりで、がらんとしてる。
「なにか食うか?」
部屋と呼べる部屋を初めて見たかのように、辺りを物色するシーラにダッカスは言った。
視界を支えるのは、たよりない蝋燭あかりである。太陽が消えてから一年。人々は、わずかの明かりで視界を持つことができるようになっていた。
「あたい、肉が欲しい」
「ああ、そうだな。お前はもっと太ったほうがいい。ちょっと待ってろ」
「料理、できんの?」
シーラが聞いたのは、ダッカスの腕前ではない。
家で料理ができるというのは、金持ちの証だった。電気もガスもなにも、一般の家には通っていないのである。
「おう、カセットコンロっつう便利なものがあるのさ。あ、風呂と便所は使えねえぞ。水が出んからな」
ポットの水を鍋に入れながら、ダッカスが答えた。
「女房に子供ができててね、しばらく奮発してたのさ」
「死んじゃったの? 二人とも?」
「だからお前がここにいるわけだ」
「ふうん…」
おとなしくベッドの上に丸くなりながら、シーラは眠たそうに頭をたれた。
多感な時期の少女は、まだ慣れていなかった。人が死ぬことが当たり前だということに。人が生きているほうが奇跡だという現実に。
「なんだ、なんだ。えらく元気がないなあ。家ができて、ほっとしたか?」
ふいにダッカスの声が間近に響いた。
彼は身をかがめ、シーラの顔をのぞきこんでいた。
同じ目の位置でよく見ると、彼は意外にも愛敬のある顔立をしていた。
「…ダッカスは何の仕事をしてるの?」
シーラは聞いてみた。
「"ダッカスさん"と呼びな。警備員だ。B地区のお偉いさんの」
「すっごーい。じゃ、警備員のライセンス持ってんの?」
A地区ともなれば、機械が防犯を完璧にやってくれるので、この場合、B地区の警備員は最高級ということになる。
「あったぼうよ。一級だぜ」
「どうりで、気前がいいわけだあ」
「わかったら、そんなにしずむんじゃねーぞ。おれだって親切でお前を拾ったわけじゃないんだから」
どうやらダッカスは、シーラが気兼ねしていると思っていたらしい。
シーラは笑ってしまった。
「なんだ、なんだ。こんどは」
「だって、ダッカスって、信じられないお人好しなんだもん」
「ダッカスさんだってば」
「うん、なんだかね、子供のころを思い出す。まだ太陽があったころ、まわりの人みんな、いまみたいじゃなかったよ」
「ああ、そうだな。可哀相なのは、お前ぐらいのガキどもだよな。……シーラ」
ぽろぽろと少女の頬をぬらすしずく。
ダッカスは、不器用にシーラを抱きよせると、ぽんぽんと頭をなでてやった。
まだ十五歳になるかならないかの少女。一年前の太陽が消えた日。ようやく世のなかを知り始めたばかりの、好奇心あふれる時期に、彼女は大人と同じ状況の変化を受け入れなければならなかったのだ。
弱者の最たる子供は、一年で激減していた。子供に託す未来もなければ、いま自分たちが生きる瞬間さえあやしいのだ。
「お前のかあちゃんは、偉大な女性だったんだな」
一週間前まで、母性を忘れず、シーラを守った。
「お前は、幸運な子供なんだぜ? そして、その幸運はお前が自分でつかんだものなんだ。分かるかい、シーラ」
シーラは、ダッカスの腕の中で、小さく首をふった。
「おれが女房を失ってから、はじめに会った人間はお前じゃない。男も女も、老人も、子供だって会ったさ。だが、そいつらはみんな、女房みたいにおれが守ろうと思う人間じゃなかった。シーラ。あの冷たい路地で、おれにぬくもりをくれた、お前だからなんだ」
「あたいが、ぬくもりを? それって、マッチのこと?」
「まさか。お前の心だよ」
ダッカスがそう言ったとき、火にかけていた鍋がぐつぐつと音を立てた。
「おっと、煮立ってる。ご馳走のできあがりだぜ、シーラ」
それは水でゆでただけの肉だったが、シーラには最高のごちそうだった。
その日、ふたりは身をよせあって眠った。
母親とはちがう、たくましい腕のぬくもりに、シーラはこの一年忘れていたやすらぎを覚えた。細い腕でマッチを作って売っていた母親は、たしかにシーラを守ったが、シーラもまた母を助け、守って、ようやく生きてきたのだから。
──でも、もういいんだ。これからは、この人に守られていたらいいんだね。
シーラが目覚めたとき、大きなぬくもりは、かたわらから消えていた。
「だ、ダッカス……!?」
あわてて飛び起きたシーラは、すぐにドアの開く音を聞いた。
「ダッカス。どこ、行ってたの」
自分は、置いてきぼりにされるところだったんだろうか。そう考えたら、自然とたずねる声はふるえた。
『他人を信用するんじゃないよ』
母から、くりかえし諭されてきた言葉。
ダッカスは、シーラがぬくもりをあげたから引き取ってくれてたと言ったが、それが一晩の暖房だったら、もう用済みだ。
不安にゆれるシーラに、外から帰ってきたダッカスはため息を落とした。
「お前は、どうしてもおれを呼び捨てにしたいわけだな?」
「え…」
「いいよ、いいよ。もう呼び捨てにしな。…って、もうしてるんだよな」
「な、なに。なんなんだよ、それは」
予想外に優しいダッカスの声は、シーラを混乱させた。
彼を信じろという声と、信じるなというふたつの声が、頭の中でぶつかりあった。
ふいにダッカスがにっと笑った。
「便所いくなら、一階だぜ。仮設トイレがある。ここはお上品な町だからな、ちゃんと女性用と男性用と別れてる。間違うなよ、恥かくぞ」
「あ、そう…トイレに行ってただけ、ね」
シーラは、素直にほっとしたらいいのか、一瞬でも彼を疑った自分を恥じればいいのか。どちらにせよ、うれしいことに変わりはなかった。
「ちなみに、おれはいまから仕事だ。すっぽかす予定だったが、扶養者ができちまったからな。三日交代なんだ。それまでひとりで大丈夫だな? 三日分くらいの食料はあるから、外には出歩くな。だれが来ても鍵は開けるな。いいな? ここは盗られるもののまったくない家じゃない。子供ひとりで留守番なんてねらわれるぜ」
「だ、ダッカスが帰ってきたら?」
「おれは鍵を持ってるから大丈夫。絶対になくさない。だからお前に開けてもらう必要はない。ついでに、仕事の時間はきっちりしてるから。そうだな、太陽が出たってくらいのハプニングがなかったら、狂うことはない」
そこまで一気にしゃべって、ダッカスはひとつの鍵をシーラの手のひらに押しこんだ。
「かぎ?」
「合鍵だ。言ったろ、便所は一階。気をつけろ。とくに部屋を出るとき、静かに、部屋を出たと気付かれねえようにな。分かったか?」
「うん、大丈夫」
「強い子だ」
かつて母がそうしてくれたように、ダッカスはくしゃっとシーラの髪をかきあげた。
「いってらっしゃい」
「おう、行ってくらあ」
ダッカスの姿がドアの向こうに消えて、シーラは急に薄暗いワンルームを広く感じた。
「やだな…ひとりは慣れてるはずなのに」
マッチを売り歩く母を待って、ぼろぼろの毛布にくるまっていた日々。そのときも、こんなに心細くなったことはなかった。
「ダッカス…早く、帰ってきて……」
まだあったばかりの男を、シーラは思い浮かべた。