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酒場は、酒とたばこの臭気で満ちていた。ただでさえ暗い店内は、煙のおかげで、ほとんど視界が利かない。
カウンターで、体つきの大きい、四十前の男がマスターを相手に酒を飲んでいた。
「女房が流産で死んじまってね。いい女だったんだが、なにせ年が三十五だ。腹のなかの赤ん坊も助からなかった」
「医者には連れていかなかったのかい?」
「医者あ? そんなもの、どこにいるんだよ。あいつらはもう、大金持ちの侍医でしかねえ。少しばかり金をもってたって、忙しい、の一点張りさ」
マスターは、中クラスである自分の店と、この店で酒を飲む男を照らし合わせた。男には、人よりわずかばかりたくさんのお金と、自分をどん底まで堕とせないというプライドがあった。
しかし、下手なプライドは、ないほうが幸せな場合もある。
「S-0地区にいい酒場がある。そこに行ってみたらどうだい? ラクになるよ」
マスターの進言を、彼は「へっ」と笑い飛ばした。
『S-0地区の酒場に行け』が意味するところは、ひとつ。通称"R"と呼ばれる麻薬をやれということだ。
「おれは、そこまで堕ちるつもりはねえ」
「そうかい? わたしなら、堕ちるね。こんな未来のない世の中……守るものがあったって、放り出したくなる」
「たしかにな。だが、おれは人間だ。それを放棄するなんてできねえ」
「いうね。Rに手を出すやつは人間じゃないのかい」
「あれが………人間だと思うか?」
「人間だよ。人間のなれの果てだ」
マスターの言葉に、男は苦笑したようだった。
ごちそうさま、と代金をカウンターに置くと、男は席を立った。
そのとき、店のドアがひらいた。同時に、すえた臭いが鼻をつく。たばこの煙のむこうで、小柄な黒い影がゆらめいた。
「さけ…たばこの、におい…」
影は、注文ともいえないつぶやきを発した。いや、実際、彼は酒とたばこの匂いにつられて入ってきただけなのだろう。
マスターが慌ててカウンターを飛び出した。
「こまりますよ、ここはR服用者はお断わりしてるんだから!」
酒場の主人として言う。
影は少しゆらいだが、返事をしなかった。極上の夢の中で、自分がしていることも分かっていないにちがいない。
「ほら早く出て!」
マスターがあと一歩でその影に届くというところで、影は床にくずおれた。
そうなったら最期だ。床の上に、人の形を失った肉塊の山ができた。
「ああっ! こんなところで!」
マスターが半狂乱になった。
肉塊からは耐えがたい腐敗臭がたちのぼり、店内の客の腰をあげさせた。どうしようかとおろおろするマスターの横を、カウンターで飲んでいた男がひややかに通った。
「Rは、ひとを生きたまま腐らせる…」
男の声に、マスターは我を取りもどした。
「旦那」
「ん?」
一瞬、男とマスターの目が合った。
「これからどうするつもりだい?」
「さあな」
男はそれきり、振り返りもせずに店を後にした。
たばこの煙の向こう、暗闇の中へ。
いつのころからか。
ヒトは、巨大なドーム状のシェルターの中にいた。
地上は放射能に汚染され、晴れることのない分厚い雲の下、冬の気候に支配されていたからだ。
しかし、そのことを覚えていたものは、いったいどれほどいただろう?
シェルターの中でも、太陽は毎日のぼっていた。
本物に優るとも劣らない、まぶしい光の球。それがシェルターの中心部から毎日打ち上げられ、十~十四時間輝いて、消えた。
人工太陽は、昼と夜の線をひいた。太陽のめぐみをうけて作物は育ち、太陽光エネルギーで文明が動いた。太陽の熱は風を生み、照射時間のちがいが四季とよべる気温変化をもたらした。
なにも変わらなかった。ヒトが地上にいたころと。
あの日、人工太陽が霧に奪われるまでは。
「うう、さぶ…」
中クラスの酒場を出た男は、コートの襟を立てて、弱々しい光の下を歩いた。視界をかろうじて支える程度の、街灯あかり。
人工太陽は、ある日突然発生した霧に奪われた。霧は太陽の製造工場から発生し、工場とそこから打ち上げられる太陽だけを、ほかから隔離した。また、霧は人々を拒絶し、いかなる道具でも消滅させることはかなわなかった。
人々は、太陽を失い、光と熱を失い、生産されるべき作物と、文明を失った。
冬の寒さと闇の中、水を得た魚のように活動を活発化させたのは、ひとつだけ。ケシの実を改良して作られた異種の麻薬Rだ。
麻薬R。服用しつづけるかぎり、最高の夢をもたらしてくれるという。ただし、その毒成分が肉体を腐敗させ、服用者を死に至らしめた。そうして、腐敗しきってくずれた肉塊を苗床に、新たなRが育つ…。
「今夜は何軒かハシゴすっかなあ」
男は、町にある酒場をいくつか数え上げてみた。"R"に手は出さないとはいえ、最後はやはり、いい気分でいきたかった。
超合金で囲まれているだけの、ぬくもりのかけらさえない家を忘れたい。
そう思い、自分の歩く通りを見まわして、男はちいさく苦笑した。
そこにも、人のぬくもりはなかった。真夜中でも真昼でもない、一日中薄暗い往来。人こそ絶えることはなかったが、ぬくもりを持って歩くものなどない。冷えた瞳が物もいわず行き交うだけだ。
「寒いねえ…寒いよ」
昨日までともに寒さをしのいできた女に先立たれたのである。女は豪気で、そして最後まで、弱い彼に、いたわりの気持ちを示しつづけてくれた。
「おじさん、マッチいらない? なあ、買っておくれよ」
十代の少女が声をかけてきた。それで小銭を稼いで暮らしているのだろう。
「ねえ、おじさん?」
少女は大きな瞳をまっすぐ男に向けてきた。
この冬の寒さの中、服は薄手のものを一枚着たきり。むきだしの腕は、マッチの籠の重みでも折れそうなほど細い。
男は、骨と皮ばかりの少女を哀れに思い、マッチを一箱買ってやった。いや、少女が哀れだったのではない。彼は、そこにぬくもりを見つけたのかもしれなかった。
「一人か?」
気が付いたら、男はそう言っていた。
「そうだよ。一週間前におっかあが死んじゃってさ。なに、おじさん、引き取ってくれるの」
「そうだな。おれも、昨日まで女房ひとりを養ってた。先着一名様なら、家へご招待できるぜ」
「行く! 行くよ。こんなにラッキーなことってあるんだね。おじさんは、あたいの神様だよ!」
「そう簡単に神様にされてもねえ」
男の苦笑をよそに、少女ははしゃいだ。
「あたい、シーラ。おじさんは?」
「ダッカス」
「ふうん。ダッカス。呼び捨てにしていい?」
「もう少し『いい女』になったらな」
「いまでも充分いい女だよー!」
「おれの基準じゃ、未成年を『いい女』とはいわない」
「ひっどーい! 年齢で区切られたら努力すらできないじゃん」
「だから、『いい女』になる努力はいらないんだよ」
「ええー」
シーラはぷうとふくれたが、すねてはいなかった。
彼女の生活がダッカスによって保障されたも同然なのである。
「ねえねえ、家はどこ?」
「H-14地区だ」
期待に満ちた声で聞いてきたシーラに、ダッカスは答えた。
シェルターはA~Uの区域に分けられている。そしてAから順番にランクが下がってFまでが上層階級、Q以下は貧民窟でSが最低、Tにいたってはゴミ捨て場。そして最後、Uが太陽の製造工場だった。
Hは、中階層の二番目だ。
「うわあお、いいとこ住んでんじゃん」
思いがけない幸運に、シーラはすっかり舞い上がった。それに少女らしい愛らしさを見つけ、ダッカスは、自分に娘ができていたらと考えるのだった。