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夢幻の書  作者: こばこ
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第十八章「選択」⑤

 どうして。どうして。

 ウィンはずっと同じ問いを繰り返していた。どうして帰ってくれないの。どうして解放してくれないの。

 答えは分かっていた。彼は、本当に全てをかけて私に許しを乞うているのだ。一緒に生きたいと言った、その願いを命をかけて叶えようとしているのだ。

 もう涙も出なかった。

 陽が傾き、急に気温が下がってきた。一度は起こされたセディアの身体は、今はまた静かに大地に横たわっていた。ぶるっと、ウィンの身体に震えが走った。そして、すうっと、その瞳に光が戻った。

 彼女は立ち上がった。ずっと座りっぱなしだったから、少し足元がふらつく。さっきぶつけた背中が痛い。でも構わずに歩き続けた。自分のマントを取る。と、ロディがウィンの前に立ちはだかった。

「何をするつもりだ」

「そこをどいて」

「どこに行く」

「彼のところへ」

「だめだ。姿を見せるなと言ったはずだ。期待を持たせるなと……」

「期待じゃない。私は、彼と生きると決めた」

 意外なことに、兄は表情を変えなかった。

「あいつを選んで、それからどうする?」

「分からない。でももう、放ってはおけない」

「それがあいつの狙い通りだ」

「それでも」

「俺は、あいつを許す気はない」

「……」

「俺は、あいつと並んで生きることはできない。それでもお前は、あいつを選ぶんだな?」

「……そこをどいて」

 ロディは静かに道を開けた。ウィンは、雨の中へ歩き出した。



 セディアは、頬を打つ雨の冷たさに目を開けた。どうやらしばらく意識を失っていたらしい。雨雲のせいだけではない暗さが、夕暮れが近いことを物語っていた。全身がこわばっている。雨が耳に流れ込んで気持ちが悪い。しかし、体の向きを変えることさえもうできなかった。そしてひたすらに寒かった。このまま夜になるのだろうかと、鈍い頭でぼんやりと考えた。


 さっきフローラが来てくれた時、帰るべきだったのかな。

 俺がやっていることは、またウィンを困らせるだけなのかな。でも、もう身体が利かないな。


 多少なりとも論理的な思考は長くは続かなかった。その代わり、この三日間幾度となく繰り返した映像が意識を埋めた。

 出会ってからこれまでの、彼女の記憶。

 彼を守って大怪我を負い、寝かされていた姿。ロディと離れた夜の不安げな横顔。心を許してくれてからの屈託のない笑顔。馬に一緒に乗った時の体温。切られた黒髪。抱き上げた時の軽さ。抱きしめた時の強張った身体。手を握った時の、困った顔。

 そして、昼に聞いた彼女が彼を呼ぶ声。

 ああ、見ていてくれたのだ。こうして耐えていることが無駄ではないのかもしれない。そう思った。

 彼女に、何度でも名を呼んでほしい。彼女の笑った顔が見たい。

 でももうだめかもしれない。寒い。苦しい。いや、苦しいのかも分からなくなってきた。

 そんな時だった。

 ぴしゃん、ぴしゃん、と雨水を踏む足音が聞こえた気がした。

 ウィンが来てくれたのだろうか。そう思いたいけれど、きっとフローラかラスクが、俺が動けなくなったのを見計らって連れ戻しにきたのだろう。いやだ。薄く目を開けるが、黄昏時に、音の主は見分けられない。

 ぴしゃん、ぴしゃん。

 負けてしまう。過去の過ちを、償うことすらできず終わってしまう。

 ぴしゃん。

 いや、もしかしたらこれはあの世からの迎えなんだろうか。

 ぴしゃん。

 本当に全てが、終わってしまうのだろうか。


 ふと、雨が顔にかからなくなったことに気がついた。そして、誰かが彼の顔を覗き込んだ。

「……ウィ、ン……?」

 彼の呼びかけは、上手く声にはならなかった。恋焦がれた彼女は、記憶にあるよりもずっと面やつれしていて、苦しげに顔を歪めていた。

 ちぇ、神様も存外いじわるだな。

 どの神様に対してかは分からないけど、彼はそんな風に思った。どうせ死ぬなら、笑っている彼女の顔を思いながら死にたかったのに。

「セディア」

 懐かしい優しい声が、語りかけてきた。彼女の唇が動き、彼の名を呼んだ。

 これは現実なのか?全身の感覚が急激に戻ってきた。寒い。苦しい。でも、目の前に彼女がいる。その指が伸びてきて、彼の頬に触れた。

 ああ、あたたかい。

「ごめんね、ごめんね、セディア」

 彼女の頬に、涙が流れ落ちる。泣かないでほしい。そう伝えたいけれど、彼に言葉を紡ぐ力はもうない。

「あたし、あなたと生きる」

 今度こそ夢かと思った。彼が軽く目を見開くと、彼女は涙に濡れた瞳で優しく笑った。

 全てが、報われた気がした。

 彼は薄く笑って、そのまま意識を失った。

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