第十八章「選択」③
「ほら」
「いらない」
「食えって」
「いらないってば」
ロディが器に入れて持ってきた夕食を、ウィンは固辞していた。食欲なんてない。
「そのままずっとそうしてるつもりなのか。飯も食わず動きもせず、ぼんやりあいつを見てるだけの生活をするつもりか」
ロディとイーゼンは狭い小屋の薄暗い灯りの中、交代で見張りと武器の手入れをしていた。ウィンは見張りとして認められていないようで、彼らのどちらかが必ず壁際に張り付いていた。そして、見張りをしていない方は、細々とした雑用をしつつ、狭い室内でも時折身体を動かして、いざという時に動けるようにしていた。
「あいつと共倒れする気か」
苦々しげにロディが顔を歪める。昼間からずっと彼は苦々しい顔をしている。
なおもウィンが答えずにいると、彼はウィンの隣から離れた。背後から、食え、と、その食事をイーゼンに与える声がした。
美しい夜空だった。月は、星は、美しかったが、同時に冷ややかでもあった。秋の終わりの風は夜になると冷たく、小屋の中にいるウィンの肌さえも寒さで粟立った。
池のほとりで、一人で座る人の寒さはどれほどだろうと思った。全てを捨てる覚悟で、私のために全身で愛を叫んで待つ人は、今何を想っているのだろう。
セディアは横にすらならなかった。座ったまま、彼女のいる方を見つめていた。
何もかも放棄して、このまま彼に駆け寄って抱きしめたかった。冷え切っているであろう身体を温めたかった。だけど、その結果どんな未来が待っているのだろう。
彼は皇位を諦めるべきではないと、ロディは言った。兄の言葉は、自分たちの身の安全を第一に考えつつも、セディアの未来を慮ったものでもあるのだろう。恋心を諦めるのがお互いの将来のため。敵国の王家に生まれたもの同士、叶うはずのない恋。
一度は断ち切ったはずなのに。あのまま顔を見ず、もう二度と会わなければ、諦められたかもしれないのに。
ふと、最初の疑問に戻った。彼はどうして、ここが分かったのだろう。
(ねえ、ディージェ)
大地の女神に呼びかける。気配はあるが、返事はない。
(ねえ、ディージェ。あなた、彼らに私の居場所を教えた?)
またも沈黙。この沈黙は肯定だと思った。
(どうして?教えないでって頼んだのに。どうして彼がここを知っているの?)
(あなたに怒られる筋合いなんか、ないと思うけど)
女神の声は珍しく機嫌が悪そうだった。
(どういうこと?)
(本当に分からないの?分からないふりをしているだけでしょう?)
ウィンは黙った。
(あなたが言いたくないなら私が言ってあげましょうか)
(やめて)
(鳴子が鳴った時、内心期待したのは誰?)
(やめてよ)
(彼の姿を見て、震えるほど嬉しかったのは誰?)
(やめて、聞きたくない!)
(今となっては、あの人の方がよっぽど自分の気持ちを分かってるわね)
(やめてって言ってるの)
(あなた、ずるい女になったものね。自分だって好きなくせに、小難しい理由をつけて、ここまで追いかけてきてくれた男を放っておくの?応えてあげる気がないのなら帰れって言えばいいのに、それも言わずに、まるで可哀想なのは自分だって顔で泣いているだけなのね)
本当にその通りだ。あなたなんか嫌いだと、帰ってくれと言うことができれば、彼はこんな目に合わずに済むのに。
(それで私を責めるなんてお門違いよ)
そう言い残して、ディージェの気配は消えた。
認めてしまうことが怖くて、言葉にすることを避けていた想いを、ディージェにすべて言われてしまった。認めたところで、どうしていいのか分からない想い。誰のためにもならない想い。
私はセディアが好きなのだ。
彼が姿を現した時、たった一人で自分のためにここまで来てくれたと知った時、流れた涙は喜びの涙だった。
でも、好きだと認めたところでどうなるというのか。苦しくなるだけではないか。私は……リウ・ファンは、彼と共に生きることなんてできない。
だから、あの夕暮れに彼の元を去ったのだ。真名を答えられなかったあの時、共に生きることはできないと思い知ったあの時、もう答えは出ているのだ。
*
セディアが姿を現してから三日目の朝、異変が起きた。前日もその前の日も、朝夕の炊煙を合図にウィンに語りかけていたセディアの声が、その日の朝は響かなかった。
暗い雲が空を覆った、気が滅入るような朝だった。
淡いまどろみから目覚めたウィンは、ロディが朝食の支度を進めている様子を見、その異変に気付いた。震える手を壁に寄せ、外の様子を伺う。すると、昨日までは姿勢正しく座っていたセディアの身体が、幾分傾いでいることに気づいた。それだけではない。こちらを真っ直ぐに見据えていた顔は、俯くように下がっている。ウィンの知る限り、丸二日以上、何も口にしていないのだ。恐らく睡眠も取っていないのだろう。その事実に、ウィンはぞっとした。このままだと彼は身体を壊してしまうかもしれない。嘘でも、そう、嘘でも、帰ってくれと伝えるべきだろうか。
でも、そう思うだけで、喉元に嗚咽が込み上がってくる。声が漏れないように、ぐっと歯を噛み締めて兄たちに背を向ける。
帰ってほしいなんて、言えない。彼に歩み寄り、目の前に向き合ってしまえば、感情のままその思いを受け入れてしまうだろう。誰も幸せにならない未来を、手招いてしまうだろう。
どうすればいいの。
そう思って天を仰いだときだった。
どさっと、鈍い音が周囲に響いた。