第十八章「選択」②
「ウィン、ロディ。聞いてほしいことがあってきた。ここから話をさせてくれないか。
君たちが望むなら、これ以上近付くことはしない。俺はひとりだ。武器も持ってきていない。警戒する必要はない」
彼は、武器がないと示すために軽く手を上げて見せた。そんな何気ない仕草が、ウィンの心に刺さる。ああ、セディアだ。
手の震えが止まらない。数日ぶりに聞くその声に、仕草に、目が釘付けになった。ゆるゆると、弓の絞りが甘くなる。
「おい」
ロディの鋭い声が飛んでくる。気持ちを奮い立たせて弓を絞る。たったひとりで来てくれた慕わしい人に、狙いを定める。
「ウィン、ロディ。まずは君たちに謝りたい。
ウィンの言う通りだ。あの時、最初に剣を抜いたのは俺だった。君たちの素性を知って、反射的に敵対してしまった。今まで命をかけて守ってくれたのに、その事実を忘れて、名前だけで敵だと認識してしまった。言い訳のしようもない。
君たちをとっさに信じ切れなかった自分を、あの後どれだけ恥じたか知れない。まず、それを謝らせてくれ。すまない」
強い声音とは対照的に、彼は静かな動作で頭を下げた。弓矢の射程圏内であることも、ロディの弓の腕も知っているはずのセディアは、ここで首筋を晒すことがどれだけ危険な行動か承知のはずだ。
皇太子の行動に、さすがのロディも少し意外そうな顔をした。
どれくらいそうしていただろう。
弓を引く腕が疲れてきた頃、セディアがつと顔をあげた。
「簡単に許してもらえるとは思っていない。だけど、それでも俺は、君たちに許してほしいと願っている」
そして穏やかな声で、
「ウィン」
と呼びかけた。
顔には微笑みさえ浮かんだように見えた。
「君が好きだ」
弓を持つウィンの手がずるりと緩んだ。
「君が好きだ、ウィン。俺が君に近付いた時、君があんなに困っていたわけが今なら分かる。困らせてごめん。君の気持ちも、自分の気持ちさえ分からなかった、情けない俺でごめん。
君がいなくなって、いや、その前からずっと、君のことを考えてた。経験したことのない気持ちで、どう表現したらいいのか分からなかった。
だけど答えを見つけた。だから、会いにきたんだ。俺の見つけた答えを、俺の気持ちを聞いてほしい」
セディアの声に重なり、ロディが弓を持てと呼びかける声が聞こえる。
でも、もう彼に武器を向けることは出来なかった。ウィンは矢を放し、震える手を壁に添えて、本来は攻撃のための隙間からセディアを見つめていた。
「ウィン。俺は、君と生きていきたい。
君が望むなら皇位も諦める。身分を捨て、名を捨て、ただの一人の人間としてでもいい。君と生きたい。俺は追われる者だが、君も追われているのなら、二人で協力して逃げよう。二人で一緒に戦おう。もし君が望むなら、俺の身分を利用して、君が王女としての名誉を回復できるよう全力を尽くそう。
話をさせてくれ。
難しいかもしれないけれど、一緒に生きる道は、閉ざされてはいないはずだ。
ウィン。共に生きよう」
ウィンの頬を、涙が静かに一筋流れた。
一度零れてしまうと止めようがなくて、なぜ泣いているのかも、自分が彼の言葉をどう捉えているのかも分からないまま、次々と生ぬるい雫が頬を濡らした。
「ロディ」
セディアの口調が改まる。
「今言った通り、俺はウィンと一緒に生きていきたいと思っている。最後は彼女が決めることだと思ってはいるが、やはりあんたには筋を通したい。今までずっと彼女を支えて守ってきたあんたに、叶うことなら許してほしい。
これまでの俺のしてきたことや、情けない態度を知っているあんたが、俺を認めることが難しいのは分かってる。
だけど、俺はもうあんたに敵対することはない。これまでウィンを守ってきてくれたあんたに、刃を向けることはもうできない。
もし、もしウィンが俺を想っていてくれるなら、あんたにもそれを認めてほしい。その気持ちだけ、伝えさせてくれ」
ロディは苦々しげに目を細めた。ウィンは涙に濡れた顔で唇を噛む。イーゼンは困惑したようにロディを振り返った。
「俺が言いたいのはそれだけだ。許してやると言ってもらえるまで、あるいは、お前なんか顔も見たくないから消え失せろと言われるまで、いつまでもここで返事を待つ」
ギッ、とロディの弓が軋んだ。彼の手に力が入り、矢が放たれるまで間もないことが分かる。
「だめ!」
小屋の中に、ウィンの押し殺した声が響いた。ロディは、苦々しい表情のままウィンに向き合った。
「じゃあお前が、消え失せろと言って来い」
色を失って、ウィンはふるふると首を振る。
「お前のその判断が、俺やこいつを危険に晒していることを分かってるか?」
ウィンは答えない。涙に濡れた顔で、兄を見上げるだけだ。
ロディは、ため息をついて妹から視線を逸らした。
「まあいい、それができないならこのまま放っておけ。いつまでも待つと言いながら、お坊ちゃんのあいつにそこまでの根性はない。一時の感情に流されてるだけだ。苦しくなってきたらいつまでも続かない。時間の問題だ」
そう言ってから、自分の弓を置いて、
「ウィン。絶対にあいつに姿を見せるな。声も聞かせるな。あいつに、希望を持たせるな」
と厳しい口調で命令した。
そしてイーゼンに見張りを続けるように命じ、
「俺は食糧と武器の残りをみてくる。数日は篭れるようになってるはずだが」
と、小屋の入り口近くにある行李に向き合った。
*
その日の午後、空は綺麗に澄んでいた。セディアは、時折空を見上げたり池の水面に目を落としたりする他は、何も語らず、ただ静かに座っていた。ウィンの位置からは細かい表情は分からなかったが、とても穏やかな雰囲気に見えた。
ウィンは、何をすることもできず、涙でガサガサになった頬を拭うこともせず、惚けたように壁の隙間に寄り添っていた。何をする気も起こらなかった。ただ、彼を見つめていた。
もうすぐ空が朱に染まるという頃に、白湯を入れた器を二つ持ったロディが、彼女の前に立った。ウィンは、ロディに少し目を向けただけで、視線をセディアに戻す。
「もう、諦めたはずだろう?」
ウィンの隣にしゃがみ込んで白湯を差し出し、ロディが言う。
「お前たち二人が好き合ってもどうにもならない。あいつはああ言うが、添い遂げる道はない。それに、あいつが本当に皇位を諦められるはずがない。諦めていいとも、俺は思わない」
一度言葉を切った彼は、白湯で口を潤してから、
「放っておけ。お前のことを諦めさせろ。
諦めて、いずれあいつは、王位を取り戻す。あいつならできるだろう。そして身分の釣り合った娘を娶る。この旅の間のことは、美しい過去の思い出だ。それがあいつの運命だ。逆らったって苦しいだけだ」
ウィンは器を受け取って、白湯をひとくち飲んだ。泣くための水分を補給したような気がした。
夕暮れが迫っていた。ロディが竈門に火を入れた。粗末な夕食を作るのだ。炊煙が上がった。それがきっかけだったかのように、セディアが口を開いた。
「ウィン、聞こえているか?」
夕暮れに影を長く伸ばした、セディアの姿が、彼女に語りかける。
「ここから灯りが見える。君のいる家の灯りだ。そこに君がいると思うだけで、今俺がどれだけ幸せか分かるかな。
この数日間……君と離れていた数日間、どこにいるのか分からない君のことをずっと思っていた。ずっと、苦しかった。
君が今、そこにいる。それだけで、こんなに穏やかな気持ちになれるんだな。
君は今、何をしているんだろう。俺の話を聞いてくれてるんだろうか。少しでも、俺のことを考えてくれているんだろうか」
いったん言葉を切ったセディアは、頭上を見上げる。
「ウィン。満月だ」
冴え冴えとした月が、森を覆う夜空に輝く。
「明日は、君と一緒に月を見たい。いや、明日と言わず、一生隣で空を見上げたい。君に、穏やかな夜がきますように」
そしてまた静かに空を見つめた。言いたいことは言ったという態度だった。
また一筋、ウィンの頬に涙が落ちた。