第十八章「選択」①
その日、ウィンは朝から葦を刈っていた。山の奥の奥、誰も近づきもしない深い森深くにあるこの場所は、天気が変わりやすく、冬が早い。平地では晩秋、この場所では初冬かというこの時期は、どんよりと曇っていたり、冷たい雨が降っている時間が長かった。
だから、天気が許すときは、彼女たちはなるべく外仕事にかかることにしていた。
今すべきことは、池の周りを取り巻く葦を刈ってなるべく視界をよくすること。この葦は、束ねて円錐状に立て掛ければ、簡易な小屋になるし、そうして乾燥させたものは松明になる。
まだ青みの残るこの時期に刈るのは少し可哀想な気もするけれど、姿を隠しながら彼女たちの小屋に近付くのにこの葦原は最適だから、放置するわけにはいかない。
今日三人で頑張れば、八割ほど刈れるだろうか。ウィンは、空を仰いで息をついた。
森の奥深くにぽつんとあるこの小屋に、数日前からウィンたちは逗留していた。知らぬ場所ではない。二年前、ビヒロ高原から命からがら逃げ出した時に、初対面の(実際に対面したわけではないが)大地の女神に指示されて身を隠した場所だ。二年前にも、冬を越した場所だ。
何世代か前の大地の憑座に縁があった場所らしく、樹海と言うべき森の奥深くにあるこの小屋は、まさに隠れ家というべきものだった。
こんな所に無事に辿り着けるのは、大地の憑座と巫女しかいないわ。火を焚いても大丈夫よ、煙が見える場所にすら、誰も来られないから。
そう、女神は受け合ったのだ。
しかし、冬を越すことを意図して作られていないこの山小屋に身を潜めた一冬は、過酷な時間だった。少しずつ過ごしやすい住まいに変えながら、雪に閉ざされた長い長い冬を兄と二人でじっと耐えたのだ。
この時に手を加えたおかげで、そして前回の経験があるおかげで、二年前よりは絶望感も少ない。けれど、今回は三人だ。ウィンとロディ……もとい、リウ・ファンとリウ・モン、そしてリウ・モンの元側近のジウ・イーゼン。一体どうすれば、雪に埋まった山奥で、一冬の間、三人の口を満たすことができるのか。そろそろ答えを出さねばならない頃だ。
誰かが買い出しに行くしかないんだろうな、とウィンは思う。
誰かと言いつつ、当然それはウィンや兄ではない。
素性が知れてしまった今、彼らがその情報を餌にどこかの陣営に駆け込み、敵国の王子たちを見つけるべく山狩が行われていてもおかしくはないのだ。
イーゼンを山外れまで送って行くしかないなあ。でも、それも怖いな。
彼女は思う。
捕まるのも、凌辱されるのも、殺されるのも、怖い。
でも何よりも、彼らにもう一度会うのが、怖かった。
全てを知った彼らが、彼女にどんな目を向けるのか、想像もつかなかった。
と、ウィンは葦を刈る手が止まっていることに気付いた。
いけない。
頭を振って雑念を追い払う。考えても仕方ないことだ。大丈夫、ちゃんとやれば捕まることはない。だからもう、彼らに会うことはない。
まずは、目の前の冬を越さないと。
そして、彼女は手元の作業に意識を戻した。
*
この場所は、タバリ山脈の終着地、三国を分ける『人』の形の山脈の分岐点の近くである。山脈が緩やかな弧を描いてできるそのへこみには、深い深い山と、いくつかの山や丘陵地が集まっていた。
その山々の合間に、楕円形の池がある。長い方の端から端まで三十間(五十四メートル)ほどの池だ。そのほとりに、一軒の山小屋が立っていた。
百年以上前に建てられた小屋である。
この辺りの樹々を切って作られたために、小屋の周辺は比較的若い木が多い。少し山に入れば、近くにきれいな湧水もあった。
二年前に、女神に導かれた憑座とその兄がここに辿り着いた。追われていた彼らは、敵の侵入にすぐに気付けるよう、池の葦を借り、家の周りの木を払った。
寒さに耐えるために小屋の木材の隙間を埋める一方で見張り窓を設け、そこに弓矢を備えた。小屋を囲む最も内側の木の間に、簡易な鳴子を張り巡らせ、いくつかの罠を仕掛けた。
山の動物がごく稀にかかることを除けば、それらは作動することなく冬が終わった。
春になって二人は小屋を去った。
二年後の秋の終わりに、憑座は、またその小屋に帰ってきた。
あの頃よりも大人びて、あの頃よりも強く美しく、でもあの頃と同じくらい、心から血を流しながら。
*
その日の昼下がりに突然、カランカラン、と鳴子の音が響いた。小屋の中で軽食を取っていた三人は、その意味を理解した瞬間、武器を取り所定の位置に飛び込んだ。
粗末な山小屋の、板の隙間からぎりぎりと弓を引き絞りながら、ウィンは考える。
罠の音具を鳴らしたのは、野生の獣か。それとも追手か。二年前にも何度か経験したのと同じ種類の緊張が走る。
大地の女神の言葉を信じるなららこの樹海の奥まで迷わずに来れる人は、ほぼいない。
でも。
でも、もしかしたら。
ウィンは、淡い期待を持つ自分に苦笑する。自分で大地の女神に……地姐に、頼んだではないか。海の女神や巫女には、私たちがここにいることを決して伝えてくれるなと。大地の女神が禁じれば、巫女すらもここには来られない。
彼らが、彼が、ここに来るはずはない。今更、何を期待するというのか。
と、池の東端の茂みが、がさりと揺れた。小型の獣の揺れ方ではない。人か、大型獣か。ここから四十間(約七十二メートル)ほどの距離だ。鼓動が早まる。ロディの守備範囲だ。この角度なら、ウィンの矢も届くかもしれない。弓を引き絞る。
その茂みから慎重に、旅装束の人間が姿を現した。
後ろで束ねた柔らかくうねる茶色い髪。
背に翻るマント。
編み上げのブーツ。
品のいいシャツは過酷な旅で汚れて破れている。
別れた時そのままの姿だ。
見間違えるはずもない、セディアその人だった。
意図せず、弓を持つ手が震えた。危ない。弓矢は、下手をすると扱う者に危害を及ぼす。ぐっと歯を食いしばって弓を構え直した。
彼がどういうつもりで現れたのか、まだ分からない。私たちを餌に、皇太子として返り咲こうとしている可能性もある。それに、どうやってここを知ったのだろうか。
セディアの後ろには、誰も続かなかった。一人で静かに現れた彼は、彼女らの潜む山小屋に向かって歩みを進めた。遠くて表情はよく見えないが、足取りや雰囲気から迷いのなさが伝わってきた。
ビュッと風切音がして、ロディの放った矢がセディアの足元に刺さった。射程圏内だという脅しだ。
セディアは立ち止まって、静かに足元の矢を見つめた。そして、意を決したようにその場に腰を下ろし、口を開いた。
地図つけてみました。手書きですみません。