第十七章「道化」⑥
自分の頭で考えていなかったのは俺の方だ。
これまで、立場で、肩書きで、行動を決めてきた。そこに意志はなかった。
それを思い知らされるから、あの巫女は嫌いだ。
……ウィン。
彼は、宿から出てその外壁にもたれ、失った人を想う。
どんな気持ちで、俺の言葉を聞いていたんだ。
俺はどれほど、無遠慮に彼女を傷つけてきたんだ。
傷だらけで生きてきた彼女を、俺はさらに傷つけた。その傷を踏み躙った。
彼はずるずると、力なくその場にしゃがみ込んだ。
苦しく、悲しかった。
だが、それがなんだ?
彼は、自身に嘲笑を向ける。
彼女の苦しみに比べたら、大したものではない。そんなもので、お前は苦しいと言うつもりなのか。
「ウィン」
確かめるように、その名を口に出してみる。その短い名前は、これまでと同じ響きで空気を震わせた。ウィン。同じ響きなのに、全く意味が違ってしまったその名を、今度は心の中で呼ぶ。ウィン。
彼らの呼び名は、恐らく自分たちでつけた名前なのだろう。『ロディ』は、よくある平凡な名前だ。それを選ぶのが、ロディ……リウ・モンらしい。
そして、『ウィン』という名を選んだ少女。不吉な子として、男として、育てられた少女。周りから忌み嫌われる中で、生きてきた少女。
一体何に打ち勝つと言うのだ、との彼の問いに、あの日、彼女ははっきりと答えた。『自分自身に。そして自分の運命に』
彼女はそう言っていたではないか。
彼女が打ち勝とうとしていたその運命に、俺が力を与えてしまったのか。
ウィンとして、前を向いて生きようとしていた彼女を、リウ・ファンとして排除してしまったのは俺だ。
三角に畳んだ自分の膝に顔を埋める。この腕に彼女を感じたあの日を、ウィンが彼を突き飛ばして逃げた、あの夕べを、思い出す。
真名を、答えられるわけがなかったんだ。
あの質問は、彼女に、俺たちとの違いを思い知らせるものだったんだ。
ふと、隣に人の気配を感じた。
ラスクが、静かに近づいてきて、先ほどまでの彼のように壁にもたれて立っていた。
しゃがみ込んだ情けない自分の姿を、隠す気力も起きない。
そのまましばらく二人とも無言で過ごした後、ラスクは徐ろに口を開いた。
「あいつ、ウィンのやつ、たぶん気付いてたと思うんだよ。俺が勘付いたことに」
前置きもなく、ラスクはそう言った。セディアは、ゆっくりとラスクを仰ぐ。ラスクは、まっすぐ正面の空を見ている。朝と変わらない、薄曇りの空。
「あの時。雨に足止めされて、洞窟でビヒロ高原の話をしてて、その可能性に気付いた時、俺一瞬固まっちまったんだよな」
セディアは驚いた。ラスクは薄く笑ってセディアを見た。目が合った。
「覚えてないか?あんたと嬢さんは全然気にしてなかったもんな。だけど、ウィンは気付いてたと思う。なんせ、本人だからな」
そう言ってまた視線を空に戻して、
「さっき、確信はなかったって言ったろ?俺な、本当にあいつらがリウ・モンとリウ・ファンなら、あの時にすぐ逃げると思ったんだよ。だから、あの後から今日まで、俺はずっとウィンを見張ってた。だけど、あいつは逃げるどころか、ロディに相談さえしなかった。それがどれだけ危険なことか分かるだろ?
リウ・モンとリウ・ファンの身柄なんざ、今この国であんたらの次に価値があると言っても言い過ぎじゃない。陽国との交渉にも使えるし、憂さ晴らししたい軍の奴らも山ほどいるだろうさ。あんたがあいつらの身柄を拘束して、それを手土産に王都に戻れば、一発逆転で権力を取り戻せるかもしれない。
俺にばれたことをロディが知ってたら、すぐに俺たちの元を去ったはずだ。
それでも、ウィンはロディに言わなかった。逃げなかった。兄貴に秘密を作ってまで、あんたらと、俺と、一緒に行動していた。なんでなんだろうな」
特に返事を求めていない疑問系で、ラスクの一人語りは終わった。セディアは、その言葉の意味を考える。
「なぜその時すぐに俺に言わなかった?」
詰問ではない、穏やかな問いがセディアの口から零れた。
「リウ・モンが俺たちと行動を共にしていることの危険性を、お前は分かっていたはずだ」
そう問われて、ラスクは情けなさそうに眉を下げた。
「確信が持てなかった、てのは理由にならないか?」
「お前らしくはない」
「だよな。俺も、自分で思ってるよりガキなのかもしれない」
「お前、いくつだっけ」
「十六」
「実際ガキだな」
「あんたに言われたくない」
「ああ。その通りだ」
「どこにいるんだろな、あいつら」
二人で、一緒に空を仰いだ。ほんの少し雲が切れて、綺麗な光の梯子が隙間から降りていた。
*
(知られたらしいよ、魂憑祭の意味)
「へえ」
薄暗い書庫の中で本を探しているときに、風の女神がそう語りかけてきた。
「それで、巫女は何て答えた?」
女神と話すのに声に出す必要はないのだが、一人きりだし、聞かれて困る人もいない。
(聞かれなかったから、って。指示通りに)
「彼ら、怪しんでなかったかな」
(そんな話は聞いてないけどね)
実際、怪しまれたらこっちの身が危ない。だからこそ、巫女もこちらの指示に逆らえないわけで。
「あの人たち、今どこにいる?」
(それは教えてくれない)
「だろうね。身の危険に直結するからね」
風の憑座は、くすくすと笑った。
「大地の憑座とやらについては?」
(それも、何も教えてくれない)
「ふうん。こっちに教えると危険があるような立場なのかな」
(もともと、巫女っていうのは積極的に情報を漏らさないよ)
うん、その通りだ。そうでないと困る。
「そうだね。今、どこにいるんだろうね。みんな」
風の憑座は、窓があればいいのにと思った。空は、風は、すべての場所と繋がっている。海や大地とは違う。自由だ。そんな風のように、窓から飛び出して空を駆け巡りたいと、思った。