第二章「巫女」④
「よろしいですか?」
ささやくような声が聞こえた。シルヴィーの声だ。
「どうぞ」
と、ウィンが答える。
そっと引き戸が開き、シルヴィーが入ってきた。先ほどまでの街娘風の衣装とは違い、品の良いゆったりとした西方風の衣装を着ている。まさに皇女付きの侍女といった出で立ちだ。
彼女は、兄妹に向かって一礼してから言った。
「湯殿の準備ができました。まずはゆるりとおくつろぎくださいませ」
湯殿?
てっきりフローラのもとに連れて行かれるものと思っていた二人は、顔を見合わせる。今日は一体何回顔を見合わせることになるのだろう。
「待ってくれ、湯殿?ってその、風呂の湯殿か?」
「はい。よろしければ、そのあとお食事をお持ちいたします」
ますます分からない。
「ちょっと待って。私たちは、フローラと話をするのを待ってたんじゃなかった?」
ウィンが立ち上がってそういうと、シルヴィーはとてもきまりが悪そうな顔をした。
「姫さまは」
少し言い淀んで、
「姫さまは、おやすみになりました」
「おやすみにって、寝たってことか?」
ロディの声にまた苛立ちが混じる。シルヴィーは、はい、と小さな声で応じる。
「大変失礼なお話ではあるのですが……」
「まったく、大した度胸だな。助けてもらって連れ回して、自分はさっさとおやすみになりました、か」
シルヴィーは黙って俯く。ロディは怒っているが、ウィンには思い当たるところもあった。
「疲れてるみたいだったもんね。命を狙われて、目の前でたくさんの人が死んで」
「はい。姫さまにおかれましては、一日中緊張のしどおしでございました。詳しくは申せませんが、昨夜もあまり眠っておられません。安全な場所に着いて、張り詰めていたものが緩んだのかと」
ロディが気まずそうに視線を逸らす。助け舟のつもりなのか、シルヴィーが続けて口を開いた。
「私は『姫さま』と申しました。姫さまがどなたか、ここがどこなのか、お二方はもうお察しでしょうか?」
「あのお嬢さんは、皇女だな?元皇后の……キノ家の奥方の子。そしてここは、キノ家の別邸。さっきのは、宰相のラズリー氏」
「ご明察でございます」
ロディの答えに、シルヴィーは頭を下げた。彼女は言葉遣いや立ち居振る舞いまで、皇室に仕える者のそれになっていて、森にいた時とは別人のようだ。
「姫さまは、トリス・フローラ様。皇帝でありソリス教の教主であられるトリス・マルトス様のご息女であられます。この度は、姫さまをお守りいただき、誠にありがとうございました」
「私たちだけじゃない。あなたの力もでしょ?」
ウィンの言葉に、シルヴィーは薄く笑った。そして、
「こちらを、お渡しするようにと」
と言って、上品な袋が二つ載った盆を差し出した。
「それは?」
「ロディ様には護衛のお代を。ウィン様には感謝のお気持ちを、ということです」
では有り難く、と言ってロディは袋を取る。ウィンは躊躇った。
「お受けくださいませ。姫さまは借りを作るのが嫌なのです」
シルヴィーの声に、ほんの少し面白がるような調子が混じった。そんな風に彼女の気持ちの変化が察せられたのは初めてで、それが嬉しくてウィンは袋に手を伸ばした。
想像していたよりも、ずっしりと重い。
「いいのかな」
「ええ」
シルヴィーと目が合う。
「ねえ、シルヴィー。さっきの続きを聞いてもいい?巫女は何者なのか。どんな風に生きるのか」
ウィンの問いに、彼女は首を振った。
「姫さまがおいでの時にお話させてください」
「でも、せっかく今話せるのに」
「お二方とお話するのを、姫さまはそれはそれは楽しみにしていらっしゃるんです。おやすみになるのも、本当は随分渋られたのを、私とラズリー様で無理に床に着かせたのですよ。姫さまはこちらに向かおうとされたのですけれど、もう足元もふらついておられたので」
そして、また少し面白がるような口調で、
「私が先に巫女について話してしまっては、明日どれほど拗ねられるか分かりません」
短い付き合いだが、拗ねるフローラは容易に想像できた。ウィンも少し面白くなって、ふふっと笑った。
そして、シルヴィーはフローラのことが好きなのだと思った。彼女は、立場で仕えているのではなく、フローラのことが好きだから、そばにいるのかもしれない。
一方、面白くなさそうなのはロディだ。
「今日おやすみになったのは仕方ないとして、いつになったら俺たちは解放されるんだ?安全な場所について、語り合ったら終わりって話だったろ」
「姫さまは、明日の朝一番でお二方と会われるおつもりです。それまで、くれぐれもよろしくと、私に仰せでした」
「さっさと逃げられないようによろしく捕まえとけってことだな?」
ロディの問いに、シルヴィーは返事をしない。
「お兄様に会わせると言っていた。あれはどういう意味だ?お兄様ってのは、皇太子だろう?」
「姫さまの兄君は、皇太子セディア殿下でございます」
「俺は、姫さまはともかく皇太子殿下に会う気はない。そもそも、皇太子殿下にどうやって会うんだ?都まで連れて行かれるのか、まさか皇太子がこっちまで来るのか?」
「私には、なんとも」
「明日の朝、姫さまに会ったら俺たちはここを発つ。皇太子には会わない。ウィン、それでいいな?」
ウィンはうなずいた。噂の皇太子に会ってみたい気もしたが、ここまで強固に嫌がるロディを説得するほどの思いはない。兄が嫌がる気持ちは分かるから、尚更だ。
「姫さまがお目覚めになったら、その意向をお持ちであることはお伝えいたします」
シルヴィーは律儀にそう言って、優しい笑みを浮かべた。
「そろそろ、湯殿に参りませんか?見張りは私がいたします。ここのお風呂は、とても素敵なのですよ」
次回更新は、5/8(土)11時頃の予定です。