第十六章「忍ぶ人」①
ウィンがセディアを避けるようになってから、休憩時間や食事時に、フローラが積極的に話をするようになった。そこにセディアが便乗し、ロディとラスクも、彼らにしては饒舌に参加し、どうにか空気感を和らげていた。
ウィンはいつも、ロディかフローラの陰に、セディアから隠れるように座った。快活な笑みは影を潜め、いつも泣くのを我慢しているような顔で口を引き結んでいた。
このところは馬を止める度に誰かが密談に出ていたから、その日、ロディがウィンを手招きして休憩の場から離れた時も、誰も何も言わなかった。
「しんどいな」
他の面々から一定の距離を取ったところで、優しい目をして、ロディがウィンの顔を覗き込んだ。ウィンは黙って俯いたままだ。
「やめるか?」
「えっ?」
「あいつらと旅をするのを。
これだけ信用されていれば、姿を消すくらい、いつでもできる。今だってこのまま走れば、あいつらと別れられる。たぶん、追っても来ないだろうさ」
ウィンは束の間、衝撃を受けたような顔をした後、真剣な面持ちでしばらく考えた。そして、きっぱりと顔を上げて、言った。
「やめない。まだ」
「そうか」
「国境を越えて、春日国に着いて、もうみんなが大丈夫だって、そう思えたら」
ウィンは強い瞳でロディを見上げる。ここ最近の、悲しげに揺れる瞳ではなく、意志を取り戻した光る瞳。
「ああ」
ロディは、優しく頷く。
「そしたら、離れる。もう、会わない」
そう言ったウィンは、無理に笑顔を作って、
「それだと、私たちも春日国で冬を越すことになっちゃうね?」
とおどけてみせた。
「どうとでもなるさ」
と、ロディはウィンの頭に手を置く。
「ただ、あいつらがどう動くか探りは入れておく方がいいな。あっちでまた鉢合わせはしたくない」
*
「国境を越えたら、どう動くつもりだ?伝手はあるのか?」
ロディがそう尋ねたのは、その日の夕食の時だった。ずいぶん寒くなってきたという話題から、雪が降るまでに国境を越えたいという話に持ち込み、ここに至るのだから、さすがの話術だ。
「伝手はある。天領の時と同じだろうな。森に潜みながら、知人の所領に入り、偵察隊を出して街の様子を探る」
そう答えたのはセディアだ。ウィンの沈黙からこっち、この二人の会話が成り立つようになっていた。
「ということは、また当てが外れるかもしれないのか?」
「いや、春日国は大丈夫だと思う。せっかくこれまで俺と繋がりを作ってきたんだ。ラージ家に皇位を持っていかれたくはないだろう」
若干の皮肉を含んだロディに対し、セディアはあくまで真剣に答えた。
「そうだといいが」
ロディはそう言って少し考える。
「文化的にも、春日国は北ノ国とはかなり異なると聞くが、そっちはどうなんだ?偵察に出てすぐ怪しまれたりはしないのか」
「それは大丈夫」
二人の会話に参戦したのはフローラだ。
「春日国の生活様式は、ちゃんと把握してるわ。だって、最初にあなたたちと会ったとき、わたしは春日国に渡ろうとしていたんだもの」
ラスクの雰囲気がわずかに苛立ったのに気付いたフローラが、
「もう、隠すことじゃないでしょ?」
と軽く首を傾げる。ラスクは肩をすくめただけで返事をしなかった。好きにしろということだろう。
「国内の情勢が怪しくなったからね。わたしとお兄様の拠点を離しておけば、どちらも殺されにくいでしょ?わたしたちが二人ともいなくならないと、他家の皇子皇女たちには意味がないもの」
そして、今度は巫女に視線を向けた。
「それに、シルヴィーがいるから。春日国のことは、何とかなるんじゃない?」
「姫さま、私があちらを離れたのは幼い時ですから、あまり頼りになりません」
「どういうことだ?」
少し眉を上げて尋ねたのはロディだ。
「あら?言ってなかった?シルヴィーは春日国の生まれなのよ」
ウィンは驚いて、ロディの陰からつい顔を出してしまった。目が合ったフローラがにっこり笑ってくれる。
「ねっ、シルヴィー?」
「ですが、先程から申し上げているように、私はあまり頼りになりません。あちらを離れて長いですし、そもそも、あちらで普通の生活をしていません」
「どういうこと?」
好奇心に押されて、久しぶりにウィンが口を開いた。
嬉しそうにフローラが笑う。その隣で、セディアの端正な顔が切なげに歪んだことには、誰も気付かなかった。
「春日国は、三女神を信仰しています。巫女が生まれるということは、神に祝福されたということだと考え、村をあげて祝うのです。そして、巫女の場合は神殿に移され、俗世から切り離された場所で生活します」
文字通り『巫女』として神に仕える日々を送るのだという。生まれてすぐ家族から離れて巫女として暮らしてきたシルヴィーは、いわゆる普通の暮らしを知らないのだという。
そこまで話しても、なおウィンが好奇心満々の様子で見つめるので、シルヴィーは続けて口を開いた。
「憑座は女神が地上を見るための『目』ですから、十五歳で憑座であることが分かった場合は、そのような隔離はしません。それまで通りの暮らしを続けますが、村をあげてその子を大切にするようになります。
そして、女神は退屈を嫌いますので、旅に出したり貢物をしたり、女神が喜ぶものを与えます。海の女神なら、華美な衣装や装飾品を」
フローラが、うんうんと頷いてみせる。
「大地の女神なら、雄大な自然やそれを讃える歌や踊りを」
ウィンは、こっくりと頷く。
「神事の際には、憑座としての役割を果たします。巫女も憑座も、国事の中で役割を与えられて、中央へ出向くることもあるのですよ」
へえ、とウィンとロディが感心する。
「ですので、お二人が春日国に入っても、歓迎されることこそあれ、危害を加えられることはないと思います」
たとえ、フローラのように、外見がヒヅル民らしからずとも。
「ただ、北ノ国の属国になってからの春日国の様子は、私も直接は知りません。姫さまが、東の方々からお聞きになった話を元に推測するに、大きく変わってはいないと思うのですが」
シルヴィーの発言に、ロディとウィンは顔を見合わせる。北ノ国が春日国を併呑したときに、あるいはその前に、シルヴィーは北ノ国に来たということか。
その質問を口に出す前に、今度はフローラが語り始めた。
「春日国が北ノ国の属国になったときにね、春日国の皇太子がこちらに預けられたの。視察という名目の人質としてね。それがミカサ。そして、その歓待役としてつけられたのが、年の近かったお兄様と私だったのよ。まだ子どもだったけどね」
春日国併呑が北暦二一三年だから、八年前である。フローラは九つ、セディアは十一だ。
「歓待役と言ったら堅苦しいけど、実際は遊び友達ね。お兄様とは特に気が合ったみたいで、勉学も一緒にしたし、街にも一緒に降りてたわ。
大人になってミカサが観空所に入ってからは、わたしはあまり会えなくなったけれど、お兄様とは、よく陰で会っていたの」
北ノ国と春日国、それぞれを将来背負って立つ者として。
「ミカサは、私たちにとって友人であり政治的な同志よ。お兄様が皇位に就き、繋がりの深いミカサが春日国を統べる。そして、国を安定させる。それが、わたしたちの目指すもの」
深い意志を湛えた紺碧の瞳で、フローラはそう言った。そして、にっこりと笑って、
「だから、春日国は大丈夫。わたしたちを受け入れてくれるわ。そして、春日国の援助を得て、わたしたちは、またこちらに帰ってくるの」