第十五章「真名」③
休憩と同じく、いつもより早めに野営地を決め、いつもより早めに休むことになった。
いつもなら、到着してすぐにセディアはウィンと薪を集めにかかるのだが、フローラに言われて、まず傷口を検めて包帯を替えることになった。フローラがてきぱきと薬を塗り、包帯を巻く様子にセディアは舌を巻いた。いつの間にか、こんなことができるようになっていたのか。
いつまでも小さな妹ではないものだな、と感心していると、
「はい、出来上がり。行ってらっしゃい」
と、無事な方の肩をぽんと叩かれた。
「ああ」
短く答えて、セディアは薪を探して、森の比較的乾いていそうな場所に向かう。先に作業にかかったウィンは、薪がありそうなところにいるはずだ。
案の定、彼が今いるところより少し下がった辺りでウィンが薪を集めているのが見えた。
ここ数日ずっと一緒に過ごしていたから、少し離れていただけで、なんだか久しぶりに会うような気がしてしまう。
ウィン、と声をかけると、彼女は枯れ枝を拾う手を止め、顔を上げてにっこりと笑った。
その笑顔に、後押しされた。
ザザッと斜面を滑り降りるようにして彼女の元へと向かう。ウィンは微笑みを顔に残したまま、彼を待っていてくれた。
彼女に近付いても、もう距離を取られることはな い。臨戦態勢を取られることもない。
彼の足がさくさくと枯れ葉を踏む音が、秋の夕べの森に響く。
無言でどんどん近づいてくる彼に、彼女は小さく首を傾げた。なに?とでも言いたげだ。
彼は黙ったまま彼女の目の前まで歩き、薪を拾うために伸ばされていたの彼女の手を取った。
ウィンは驚いたように目を見張って、彼を見上げた。
セディアは、優しく笑って繋いだ手に力を込める。半分倒れ込むように、彼女の身体が彼に近付く。彼女の額が彼に触れて、かさりと微かな音が鳴った。
彼の胸元に顔を埋めて、彼女はそのままの姿勢から動かない。彼は、拒絶はされなかったけれど、受け入れてももらっていない。
彼は、彼女の耳元に口を寄せた。
「なあ、ウィン。真名を、教えてくれないか」
真名。
北ノ国で子が生まれた時に、二親が、もしくは彼らに近しい者が、子の幸せを願って付ける名前。家族やごく親しい者のみが知る、その子の魂の名前。
真名を尋ねるということの、意味。
彼の言葉に、彼女はぱっと顔を上げた。先ほどの驚きが張り付いたままの顔。
と、言われた言葉の意味を理解したのか、彼女の瞳がまた見開かれた。続いて、みるみる顔が赤くなる。一体彼女の目はどれだけ開くんだと、素朴な反応に愛おしさが募る。
しかし、次の瞬間、彼女はきゅっと目を瞑った。そして、ふるふると首を振った。
ふるふる。確認するように、また。
そして最後には今にも泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにして、彼を突き飛ばすように身体を離すと、後も見ず走り去ってしまった。
彼女の腕からこぼれ落ちた枝が、ばらばらと彼の足元に散らばった。
え?
彼は呆然として、さっきまで彼女の温もりを感じていた自らの腕を見つめた。
彼女の発する温かな空気は、もうそこには残されていなかった。
*
「お前、何したの」
「何って?」
惚けても無駄なことは分かっていたが、単なる時間稼ぎのためにセディアは聞き返してみせた。
しかし、ラスクは容赦なく、
「あんた、あからさまに避けられてるだろ」
「やっぱり避けられてるのか、俺」
昨日、夕暮れの森で逃げられて以来、ウィンは徹底してセディアを避けていた。夕食の時もフローラの陰に隠れるようにしていたし、二人乗りのときも必要なことしか話さないし、二人のぎこちなさに久しぶりに馬が苛立ったほどだ。
そして、昼の休憩時間の時に、待ち兼ねたとばかりにラスクに首根っこを掴まれて密談に連れ出され、こうして問い詰められていると言うわけだ。
「で、何したんだよ」
この質問に答えるまで、ラスクに解放してくれる気はなさそうだ。
「……真名を教えてほしいって言った」
抱きしめたら逃げられたとは、言えない。
セディアの返答を聞いたラスクは、盛大にため息をついた。
「お前、本気なの?」
おや、『あんた』から『お前』に格下げだ。
「本気って?」
「本気であいつを好きなのかって聞いてる。ちょっと興味があるだけなのか、王都に戻ったら側室に迎えていいと思ってんのか、どの程度なんだ」
ラスクの問いに、セディアはぽかんとする。
「……考えたことがなかった」
「はあ!?」
「女の子は、男から距離を詰められたら喜ぶだろう?」
彼の言葉に、ラスクは頭を抱えた。抱えたまま、
「俺は今、初めてロディに同情している」
と呟いた。そして顔を上げると、
「わかった。お前は何にも分かってないことが分かった。あとできちんと教えてやる」
と一息に言った。それから眉根を寄せてしばし考えてから、
「それまでに、お前はウィンにどれくらい興味があるのか考えとけ。道中の気まぐれなのか、王都まで連れて行きたいのか。今分からなくても考えろ」
と、胸元に指を突きつけて、まるで脅し文句であるかのようにドスの効いた声で告げた。ラスクはそのまま戻りかけたが、文句を言い足りないらしく、乱暴に振り向いて、言った。
「バカ!」