第十四章「肩」④
喚声、金属音。血と糞尿の匂い。砂埃、地響き。
いつもなら必死に遠くに押しやるその記憶を、ウィンは一心に手繰り寄せる。
怪我をした人はどうしていた?
まず傷口の上で縛って、血を止めて。水で洗って。指揮官級の人は薬を塗って、包帯を巻いて圧迫する。
それがきちんとできれば、膿むことは少ない。でも、水や薬を十分に与えられない下級兵たちは、傷を悪化させてしまうことも多かった。
傷が膿んで、熱を出して、その後回復する人も多かったが、そのまま戻ってこない人も一定数いたのではなかったか。
ウィンの耳に、片腕を失った兵士の話が蘇る。
『傷が膿んでどうしようもなくなって、そのままでは命も危なかったから腕ごと切ったんだ』
『自分は運が良かった。そっちの傷も膿んでそのまま死ぬ奴も多い。腕一本で済んでよかった』
ぞくぞくと肌が泡立つ。
セディアの傷は肩だ。切り落とす訳にもいかない。
応急処置ならともかく、ウィンには専門的な医療の知識はない。
金創と咬み傷がどう違うのかも分からない。
「どうしよう」
無意識に口から言葉がこぼれる。
「誰か、誰か助けて」
そして、その誰かに思い当たる。
「ディージェ、助けて!」
思わず、声に出して叫んでいた。
「ねえ、ディージェったら」
何回も空に向けて呼びかけて疲れてきた頃、ようやく女神の気配を感じた。
「ディージェ!」
(何よ、うるさいわね)
「ねえ、お願い。助けて」
(なんで?)
「え?」
(なんで、私がその人を助けなきゃいけないの?)
ディージェは、半分不機嫌なような、半分ふざけたような口調で言った。
(あの子。赤髪の子。ずいぶんな言いようだったわね。人を伝書鳩みたいに)
「ラスクは必死だっただけだよ、そんなつもりじゃなくて」
(どうかしら?結局それが本性でしょう。私たちを都合よく使うつもりだったんじゃない?人間の分際で)
「ねえ、ディージェ。悪かった、悪かったから。今は助けて」
(嫌よ。なんで、私がその人を助けなきゃいけないの)
「なんでって」
(私の可愛い憑座を殺そうとしてた人じゃない。このまま死んでもらいたいくらいよ)
「そんなこと言わないで。海の女神に、フローラに、状況を伝えてくれるだけでいいから」
(そもそも、あなたはなんでその人を助けたいの?あなたを殺そうとしてた人でしょ?)
「だって、私は護衛だから」
(護衛?そんな話だった?あなたは海の憑座の護衛でしょ。その人は関係ないじゃない)
「でも、仲間だよ」
(仲間?ふうん、仲間、ね)
ディージェが口の端で笑ったのが分かる。
(嘘で固めて都合の悪いことは隠して、一緒にいるのを、仲間って言うなんて知らなかったわ)
「ねえ、ディージェ」
(あら、私はそんな名前だったのね。名無しの権兵衛かと思ってたわ)
フローラに、女神の呼び名をつけていないと言った件を指しているのか。
「ねえ、あれは仕方なく」
(ねえ、なんであなたはその人を助けたいのよ?)
懇願するようなウィンに、ディージェはきっぱりと問う。
(納得いく説明を聞くまで、伝書鳩はごめんよ)
そう言って、彼女は去った。
ウィンは呆然と、あるはずのないその姿を追うように虚空を見つめた。
*
空を見上げると、先ほどよりも雲が分厚くなっていた。遠からず雨が落ちてきそうだ。地面の湿り具合や樹々の露のつき方から、おそらく今は朝、夜が明けてからまもなくだろうと推測する。
夜中の狼の襲撃から朝まで、見張りなしで無事だったのは運が良かったと思ったが、周囲を調べると必然だったと考えるようになった。
ウィンが、狼のために施した砂上化と地割れは明らかに不自然で、野生動物たちの警戒の対象だったろう。それに、狼の排泄物の匂いは、他の獣を遠ざけると聞いたことがある。昨晩は、これらに守られたということだ。
しかし、今はそれらが分厚い壁となってウィンの前に立ちはだかっている。
雨が降れば、屍を伝って流れ出た血と汚物がこの辺り一体を覆うだろう。そんな中に、寝転んでいられない。
雨が降るまでに、最初の日に見つけておいた他の隠れ家に移動したい。一番近くて雨が凌げるのは、高さ一間半(約一・八メートル)ほどの崖の壁面が窪んで、浅い洞窟のようになっている場所だ。
だけど、ここから離れるためには、砂上化を戻して地割れを塞いで、あるいはそれらを飛び越えて、あちら側に渡る必要がある。
割るのも負担だが、きちんと塞ぐのはもっと負担だ。
だからといってセディアを担いで割れ目を飛び越えるなんて芸当は、いくら彼女でもできない。憑座の力で地面を蹴る力は強化されても、腕力や筋力が強くなるわけではないのだ。
荷物もある。
どうすればいいだろう。
(簡単なことじゃない?)
いつの間にか、ディージェがまた近くにきている。
(あなた一人なら、助かるでしょう?)
女神の言葉に、ウィンは覚悟を決めた。