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夢幻の書  作者: こばこ
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第十四章「肩」③

 ズキンと肩が痛んで、彼は現実に引き戻された。穏やかに眠る彼女の寝顔に見入っているうちに、ずいぶん時間が経っていたらしい。

 傷を放置していた。治療しなければ。

 上衣を脱ぎ、その下につけていた簡素な防具を外す。叔父の館から慌ただしく逃げてきたうえに、移動に次ぐ移動の日々だから、邪魔にならないように鎧のように身体をしっかり守ってくれるものは着けていない。しかし、最低限はと思って胸から腹にかけては上衣の下に防具をつけて保護しているのだ。

 いっそ腹に噛みついてくれた方が、傷は浅かったかもしれないな。

 そんなことを思いながら、肌着を割いて傷口を確認した。

 鎖骨の少し上に二つと、肩甲骨辺り上に二つ。上下の牙が食い込んだところが陥没している。そこに赤黒く固まった血。

 左肩か、とため息をつく。これで両肩が傷物だ。剣を振るのに影響が残らなければ良いのだが。

 手ぬぐいを水に濡らして傷口を拭う。固まった血を擦るが、なかなかきれいにならない。痛い。苛立つ。

 先ほどから、妙に苛々している自覚があった。怪我をしたのだから、仕方ないのかもしれない。でも、一度は自分を取り戻した気がしたのに、また気持ちが落ち着かないのはどうしたことだろう。獣の死体が発する血の匂いのせいだろうか。

 苛々を振り払いたくて前髪を掻き上げる。と、自らの額の熱さに気が付いた。心臓がどきりと音を立てる。

 これは、

「熱、か……?」

 思わず言葉がこぼれる。

 まずい。

 傷を負って熱が出ることはままある。彼自身、そんな経験もある。だいたい一晩か二晩熱を出してうんうん唸れば、それで治ることが多いのも知っている。しかも、今回は咬み傷だ。熱が出てもおかしくない。

 しかし、問題はそこではない。


「今、倒れるわけにはいかない」

 口に出して言ってみる。ほんの少しだけ彼を鼓舞したその言葉は、しかし、夜の闇に虚しく散って行った。火照った身体に、秋の夜の空気が冷たい。凛とした空気と対照的に、彼の思考はだんだんぼんやりとしてくる。

「だめだ」

 口に出すが、それは自分の声ではないように聞こえた。

 一度ひとたび自覚してしまうと、熱による気怠さが全身を飲み込んでゆくようだった。操作が難しくなってきた指をどうにか動かし、血の塊が拭い切れていない傷口に乱暴に薬を塗りつける。

「いってえ」

 意識を通らない反射的な文句が口をつく。どうにか防具を引き寄せ、雑に身体に結えつけた。大きな力が、彼の意識を水面下に引き摺り下ろそうとしている。


 まだ、まだだめだ。せめて、朝になるまで。

 意識の力で、身体に抵抗を試みる。


 俺が、彼女に休めと言ったんだ。

 俺が、朝まで見張っててやると言ったんだ。


 彼女は、ほんの少し女神に気に入られただけの、ただのひとりの少女なのだ。

 必死に強がって生きる彼女を、誰かが守ってやらねばならないのだ。


 今意識を失ってしまったら、彼女を守れない。


 がくん、と彼の身体が崩れ落ちる。口から、荒い息が漏れる。這うように、眠っている彼女に近付く。

 疲れきって、安心しきって眠る、普段より幼いその顔。

 血色が戻りつつある彼女の顔を認めたのを最後に、彼は意識を手放した。



 目が覚めた時、ウィンは自分がどこにいるのか分からなかった。頭上に広がる雲のかかったどんよりとした空。朝なのか昼なのか、夕方なのかも分からなかった。

 最初に戻ってきたのは嗅覚で、血の匂いと人ではない生き物の糞尿の臭い、そしてかすかな腐臭が鼻をついた。

 腐臭?

 次の瞬間、彼女は全てを思い出した。

 がばっと跳ね起きて辺りを見回す。燃え尽きた焚き火。中途半端に解かれた荷物。放り出された武器の棒。六頭の狼の死骸。そして。

「セディア!」

 彼女に寄り添うように、セディアが隣りで倒れていた。かろうじて引っ掛かっている上衣の隙間から、傷口が見える。この寒さに、きちんと服を着ず、何も掛けずに気を失っていたというのか。

 いや、それよりも。

その肩の傷口は、包帯どころかきちんと洗えてもおらず、肩には血の塊と薬がまだらに見えていた。

 その傷口が、腫れて熱を持っている。

 ウィンはぞっとした。

 恐る恐る、その額に手を伸ばす。熱い。

「どうして?」

 その問いかけに、彼は答えない。

「どうしよう」

 その問いに、答えてくれる人はいない。

 そして、その光景は、ウィンの脳裏にこびりついて離れない記憶を呼び覚ます。

「恋愛はこの物語の重要なファクターですが、恋愛小説ではありません」(第一部分「プロローグ」まえがきより)

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