第十四章「肩」②
「ウィン」
「私は大丈夫だから」
そう言って、なおも彼の傷を検めようとする彼女を、彼は肩を押して無理矢理座らせた。
「分かった。分かったから、まず落ち着こう」
隣に座ってそう言って、顔についた獣の返り血をぬぐってやると、やっと彼女の肩から力が抜けた。すとんと腕が落ちる。憑物が落ちたかのように、目のぎらつきが収まる。
と、彼女は急に立ち上がり、走って木の影に駆け込んだ。
「何を……」
全てまで言わずとも、彼は音で状況を察した。咳き込む音、びちゃびちゃという水音、荒い息。
セディアは、ウィンが彼の手当てのために用意していた竹筒を手に彼女のもとに急ぐ。
「ウィン」
「来ないで」
喉が焼けて声が掠れている。
「血か?」
「ううん、吐いただけ。来ないで」
「どうして」
「汚いから」
その返事が、彼の胸を締め付ける。
彼女の言い分を無視してずんずんと近付くと、無事な右腕で彼女の腕を取った。
彼を見上げたその顔は真っ青で、汚れた唇が震えている。水を差し出すと、彼女は首を振った。
「どうして」
「だって、いまは汲みにいけない、それはあなたの、傷口を洗うのに」
「馬鹿」
彼が彼女の口に竹筒を押し付けて傾けると、ウィンは流れ込んだ水で仕方なしに口を濯ぎ、少し飲んだ。彼女が水の消費を最小限にしようとしているのが分かって、彼は苦しくなる。
なんでだよ。
「ほら」
腕を取って立たせようとするが、彼女は身体に力が入らないのか、重みが伝わるだけだ。
「私のことはいいから、あなたは早く傷の手当てを……」
しゃがんだまま搾り出された彼女の言葉に、彼の我慢が限界を超えた。
「俺のことはいいんだよ!」
夜の闇に、怒鳴り声が響く。今度は彼の剣幕に、彼女が驚いて黙る。
「大丈夫大丈夫って、全然大丈夫じゃないだろ!頼れよ、俺を!」
彼女の、すみれ色の瞳が見開かれる。
「憑座の力を使い過ぎて、限界なんだろ?じゃあそう言えよ!俺の怪我なんて放っとけ、自分の身体を心配しろよ!」
何を言っているんだ、俺は。相手はただの旅の道連れだ。護衛だ。
自分自身に違和感を感じつつも、わけの分からない苛立ちの方がずっと勝っていた。
彼は、立ち上がれずにいる彼女を無事な右肩に抱え上げ、襲撃の前まで彼女が眠っていた火のそばの寝床に座らせた。想像していたよりずっと、彼女の身体は軽かった。その軽さが切ない。
血に濡れたマントとベストを脱がせる。そのベストはずっしりと重く、脱がされる時に彼女が不安そうな顔をした。大方、細ごまとした武器が入っているのだろう。今はそんなもの、使わなくていい。
そして、彼女の左の二の腕が裂けていることに気付いた。
「これ、いつの間に」
自分だって怪我をしているんじゃないか。彼は腰に挿していた竹筒を取り出し、傷口を洗う。彼女が用意していた薬を手に取る。
「それは、あなたに」
こぼれ落ちた彼女の言葉を無視して、薬を塗り込む。傷に触れた瞬間、びくんとその身体が跳ねる。さらしを割いた包帯で傷口を縛って、冷えないように彼女を毛布で包んで寝かせる。
「休め」
「でも……」
「怒るぞ、休め。俺の手当ては自分でできる。こんなの、怪我のうちにも入らない」
さすがにそれは強がりだったが、感情の昂りが痛みを遠ざけて本当に大した怪我ではない気がしていたのも事実だ。
「俺が朝まで見張っててやる。大地に横になった方が回復するんだろ。さっさと寝ろ」
後から考えると、君が早く回復した方がこっちも助かる、とか何とか言ってやれれば良かったと思う。その方が、彼女は心置きなく休めたのだろう。だけど、口をついて出た言葉は、
「なんで好き好んで無理しようとすんだよ、馬鹿」
優しさや心遣いなんてできなくて、なんでこんなに苛立つのか自分でも分からなくて、吐き捨てるようにそう言って、彼は横たわる彼女に背を向けた。
苛立つ気持ちを沈めようと、焚き火に薪を足した。昼間に時間があるから、枯れ葉も薪も、いつもよりは余裕がある。
一通り作業を終えると、彼は見張りの時に椅子にしていた倒木にどっかりと腰を下ろした。物音が響く。追手を意識して、普段は夜は静かに動くように気をつけているが、今夜は自制が効いていない。それに気付いて、しっかりしなければ、と天を仰いだ時だった。
背後から、すう、と微かな寝息が聞こえた。
振り向くと、毛布を掻き抱くように横になったウィンがこちらを向いて眠っていた。いつもは、背に暖をとるためと眩しさを避けるために、焚き火に背を向けて眠る。今日はなぜこちらを向いているのだろう。痛くない腕を下にするためか。それとも、怒鳴って顔を背けた俺の背を、見ていたのだろうか。
彼が物音を立てていたし、炎は眩しいし顔が熱いし、眠るのに良い条件ではないはずだけれど、彼女は今まで見たことがないくらいぐっすりと眠っているようだった。
彼は、熱と灯りを遮るように、そっと、彼女のそばにしゃがみ込む。彼の影の中にいる彼女を、じっと見つめる。
彼女の顔色は、さっきよりは回復しているように見えた。その寝顔を見ていると、苛立ちも怒りも、全て溶けていくような気がした。
「やっぱりきつかったんじゃないか」
そう言って、彼女の前髪をさらりと掻き上げる。
今、無性に彼女の瞳が見たいと思った。そのすみれ色の瞳に、俺の姿を映してほしい。
でも、彼は諦めた。せっかく寝付いた彼女を起こすわけにはいかない。
「ごめんな」
自分でも何に対してか分からない謝罪の言葉が、彼の口からこぼれた。