第十三章「大地の憑座」③
セディアは訳がわからない。ウィンが、突然彼の知らない人間になったみたいだ。
「大地や海や風だけでなく、もっと、いろんなものに神はいるのかもしれない。あるいは、女神たちを生み出した、さらなる神がいるのかもしれない。巫女は、それら全てと、この世をつなぐ存在」
「それは……大地の女神がそう言っているのか?巫女とはそういうものだと」
どうにか理解しようと試みるが、ウィンはあっさりと首を振る。
「今のは、ただの私の考え。でも、女神たちよりも大きな存在については、大地の女神が仄めかしていたことがある」
「分からないな」
分からない。本当に分からない。
「シルヴィーは、巫女は自然に仕えるものだと言っていた。海に、大地に、風に、そして全ての生き物に。仕えるものであり、使役するものでもある。ある意味においては、巫女は人間に仕え、人間を使役する存在でもあるのかもしれない」
「じゃあ……じゃあなんで、巫女は人間に命令できない?」
吐き捨てるような、責めるような口調になってしまった。平静が保てない。その顔を、その口調をやめてほしい。自分自身を制御できないまま、セディアは続ける。
「あいつが、やめろと言えば、追手は、俺たちを殺すのをやめるんじゃないのか。人間は、争いをやめるんじゃないのか」
ウィンは、ついには憐れむような視線を彼に向けた。
「だって人間は、北ノ国は、巫女への信仰を捨てたじゃない?」
「え?」
「北ノ国は巫女への信仰を捨てた。もともと人間は他の生き物に比べて自我が強いから、完全に従うことはなかったみたいだけれど、三女神や巫女を身近なものとして捉え、崇拝していた時は、巫女の宣託を重く捉えていたのではない?」
セディアは、次期ソリス教主は、返事ができない。
「巫女は、神とこの世をつなぐ者として、圧倒的な権限を与えられている。だけど、その分、ひとりの人としての自由が制限されている」
ウィンはそう言って、樹々の間に僅かに見える青空を仰いだ。
「例えば、私はもし本当に死にたいと思ったら、城門から身を投げることができる。大地の女神は止めるだろうけど、彼女は私の行動を支配することはできない。だけど巫女は、死にたくても死ねない」
今度は街の方向に目を向けて、
「病になることも、怪我をすることもないけれど、髪を切ることすらできない。そして」
言葉を切って、またセディアを見る。
「子を成すこともない」
彼女は、熱のこもらない瞳で彼を見つめながら、自分の言葉が彼に染み込むのを待つ。
「巫女は半分は人ではない何かなの」
しばらく、二人は朝の木漏れ日の中で見つめ合っていた。
セディアが諦めて、分からないと言うふうに首を振ると、ウィンはふうっと大きく息をついて、首をくるくると回した。その目が、少し生気を帯びた。
「ねえ、ラージ家の皇子の名前は何ていうの?」
「え?」
「ラージ家の皇子。もし、ラージ家が権力を得たら即位するかもしれない人」
「ああ、現皇后の長子は女だ。皇女だ。リコという。それがどうした?」
理解できる話題に変わった安心感と、急に話題が変わったことへの困惑が彼の中で入り混じる。
「キノ家のあなたと、ラージ家のリコ皇女と、バンナ家のシュリ皇子。それぞれ、有力な皇族の若者なのよね?でも、他にも皇子皇女はいる」
「巫女の話は終わったのか?」
「焦らないでよ」
そう言った彼女は少し考えるような仕草をしてから、
「王宮には猫がたくさんいるんだっけ?」
「おい、ほんとに何の話をしているんだ」
「だからさ」
重ねて問うと、ウィンは少し苛立って、でもはっきりと、
「あなたが大地の女神で、リコさんが海の女神で、シュリさんが風の女神で、猫たちが人間で、人の言葉が話せる猫が巫女なの」
と一気に言い切った。
「え?」
思いもよらない話題の回帰に、セディアは戸惑う。
「猫は好き?」
ウィンが尋ねた。また訳の分からない質問が飛んできたが、さっきみたいに巫女の話に回帰するのかもしれない。だから、
「特に好きじゃない」
そう答えた。答えてから、ふと思い出すことがあった。
「ああ、でも一匹気になるやつがいたな」
気まぐれで、身が軽くて、物に釣られないからなかなか人に懐かない黒猫。
「それ!それが憑座だよ」
ウィンが突然、勢い込んで言うのでセディアは少し驚く。
「どういうことだ」
「だからね、他の猫に比べて、気に入っている子がいるんでしょう?それが、女神にとっての憑座。あなたを大地の女神とするなら、大地の憑座ね。リコさんを海の女神とするなら、リコさんのお気に入りの猫は海の憑座になる」
「分かるような、分からないような」
それに、気になると言っただけで、気に入っているとは言っていない。でも話の歯車が噛み合い始めたから、それはまあ言わずにおこう。
「その王宮の猫たちの中に一匹だけ、人の言葉を解する子がいたら、その子を使役したくならない?他の猫は自分勝手に動いていても、その子には『ちょっとこっちに来い、お気に入りのあいつの様子を見て来い』とか言いたくならない?」
「なる、かもしれない」
「その子が他と違う力を持ってたら、『その力で、俺のお気に入りのあの子を守れ!』って言いたくならない?」
「なるほど」
彼は、ようやく彼女の言わんとすることが分かった。
「つまり、巫女の力は元々それはそれとしてあって、その力が故に女神たちに使役されている。巫女猫は、王宮の飼い猫であり、皇族は主人だから、使役されても文句は言えない。
そして、主人は俺やシュリやリコだけではなく、皇帝や皇后でもあり得る、ってことか。それが、君の言う『女神より大きな存在』」
「そう」
「で、憑座はただの猫。俺やシュリやリコがそれぞれ可愛がっているから、いい餌をもらったり手厚く面倒見てはもらってるけど、皇帝や皇后にはそれは関係ないし、ましてや他の猫や他の生き物にとっては、可愛がられていても知ったことではない」
ウィンは、満足そうに微笑んだ。
「私はそう考えてる」
「なるほど。よく分かった」
分かった。理解した。憑座は、本当にただの人間なのだ。目の前の彼女は、ただの一人の少女なのだ。