第十三章「大地の憑座」②
二頭の馬に牽かせた荷車の最前に陣取ったラスクが御者の役割を果たすことになった。もう一頭の馬にはロディが跨り、荷車の上に寝かせたフローラにシルヴィーが寄り添った。頭巾の下から、昨日まではウィンのものだった黒髪が見えて肩にかかっている。黄緑の瞳は隠しようがないが、髪が違うだけで、彼女の異質さはずいぶん緩和されて見えた。
すでに日は山から顔を出し、穏やかな陽射しが優しい温もりを注いでいた。
少し落ち着いたというものの、フローラは依然として熱が高いようで、荷車の上でぐったりと眠っている。その姿をみるとみんな気が急いて、慌ただしい別れとなった。
「じゃあな。また五日後に」
ラスクが、セディアに言った。
「気をつけろよ」
ロディが、ウィンに言った。
「フローラをよろしく頼む」
セディアが、ラスクに言った。
「いってらっしゃい」
最後にウィンがそう言うと、ロディとラスクと、シルヴィーまでが頷いた。
そうして、彼らは森を去った。
見つめていても何もならないと分かっていても、ウィンは彼らの姿が見えなくなるまで、森と草原の間のようなその場所から見送っていた。
様々な思いが胸を去来する。
体調を崩したフローラ。虐げられることに慣れているかのような巫女。残酷な優しさを持つ忍びの少年。再びの兄との別れ。
それに、秋の美しさがあるとは言え、鬱蒼とした森の中での敵の影に怯える毎日は、心身ともに疲弊する。まだ森を抜けきっていないこの場所ですら、ひどく解放的に感じるほどだ。人目を避ける生活から、あるいは森の湿度から、離れて街に向かう彼らを、ウィンは少しだけ羨ましいと思った。
「行こう。この辺りは人が結構通るみたいだ。合流地点を確認しとこうぜ」
しばらく黙って付き合ってくれていたセディアが、そう言って彼女の肩に手を載せた。
「うん」
いつまでも見ていても仕方がない。分かってはいるのだ。みんなには、五日後にまた会える。そのためにも、適切な行動を取らなければ。ウィンは頭を振ってまとわりつく嫌な予感を振り払った。
「行こう」
「セディア」
「ん?」
「あれ、何だろう」
そう言って、ウィンは歩を止めた。ラスクの指定した合流地点を確認して森に戻る途中。まだ木がまばらな森と草地の間のような場所で、烏が集まって騒いでいるのが見えた。
「罠かもしれない」
と、セディア。
「シルヴィーがいたら、植物たちに聞いてくれるんだけどね」
彼女の呟きに対する返事はない。返事があると期待していなかったウィンは、大地に手を当てて辺りを探る。
この能力については、洞窟から天領への旅の道中にセディアに説明してある。彼はちゃんと覚えているようで、その目が、どうだ?と尋ねていた。
「近くに人はいないみたいだけど」
ウィンは立ち上がって答える。
「行ってみよう?」
*
農耕用の馬と思われる死骸。獣の食べ残しと思われるそれに、烏が群がっている。
しばらく、二人は黙ってその光景を見守った。
「熊……か?」
「ううん、これは……」
ウィンが彼を振り返った。いつも怒ったり笑ったり賑やかなその表情が、今は妙にのっぺりとしていて、セディアはどきりとした。
「私たちはとんでもない思い違いをしていたのかもしれない」
無表情のままウィンが言った。
「思い違い?」
「シルヴィーがいたとき、森は私たちの味方だった。森は、つまり、樹々や生き物たちは、彼女の指示に従って私たちを守ってくれた。
だけど、今は違う。私たちは、ただの人間。森の生き物にとっては、侵入者。狼たちにとっては」
そう言って亡骸に視線を向けた彼女に、セディアは、哀れな農耕馬を襲ったものの正体を知る。
「か弱い獲物」
そう言ったウィンの横顔は相変わらず何を考えているのか分からなくて、言葉の内容と相まってセディアは落ち着かなくなる。
「だけど、君は……憑座だろう?大地の女神に祝福された」
「そう。だけど、説明したでしょう?大地の女神に『だけ』祝福された憑座。大地に関する力を与えられているだけ。フローラだって、海に関する力はあるけど、海のない森の中では、普通の人間と変わりないでしょう?」
「でも……でも、おかしくないか。巫女の命令なら君たちを守る生き物たちが、巫女がいなくなったってだけで、急に敵に回るのか?」
話し方までいつもと違ってしまったかのような彼女に、セディアの焦燥は募る。ウィンは、物分かりの悪い子どもを見るように、少し眉を曇らせて彼を見た。
「生き物たちは、巫女に忠実なだけ。憑座は、彼らにとって特別な存在ではないの」
「分からない」
「私たちはほんの少し女神に気に入られただけの、ただの人間だもの。だけど、巫女はもっと特別な存在。巫女は人として生まれるけど、半分では人ではない何かだって、私もそう思う」
ウィンはフローラの言葉を引用したのだが、その時にそばにいなかったセディアには、そんなことは分からない。
「人ではない何か?」
セディアの声が、動揺に裏返った。
「そう。巫女は、人と、神と呼ばれるものをつなぐ存在。いえ、もっと……この世界と、神が住む世界をつなぐ存在」
「神が住む世界?」
「私は、三女神だけが神ではない気がするの」