第十二章「黒髪」①
その夜、空は満天の星空だった。虫の音が響き、そこに時折、枯葉が地面に落ちる音が重なった。秋も半ばを過ぎて紅や黄に色づき始めた森は、夜が深まるにつれてどんどんと冷え込んでいった。できるだけ長く火を焚きたいところだが、拠点を決めるのが遅れたせいで、集めることができた薪の数は少ない。
偵察隊の帰りに『いざという時のために』とラスクが買ってきた炭の袋に、シルヴィーは手を伸ばす。
この冷え込みは、厳しい。
寒さに澄んだ空に、星は残酷な美しさで瞬いていた。
*
「ウィン、ウィン。起きてください」
そう囁く声に、ウィンは毛布を跳ね除けた。
「追手?」
ウィンはシルヴィーに囁く。見張りに起こされるということの意味。ウィンは、坑道を出た日の夜を思い出していた。
「いえ」
シルヴィーは首を振る。いつもは伏せられている長い睫毛が、今は開かれてふるふると震えていた。
「姫さまが」
シルヴィーに連れられてフローラの枕元に跪くと、一目で状況が理解できた。
彼女の頬は赤く、小さく開かれた口からは落ち着かない浅い息が漏れている。手は毛布にしがみつきながら、かたかたと小さく震えている。二人がこれだけ近付いても反応がないのは、深く眠っているのか意識がないのか。
まずい。
ウィンの心臓がどきりと音を立てた。恐れていた事態だ。フローラが体調を崩してしまったのだ。
とにかく、みんなに知らせないと。
そう思って振り返ると、すでにラスクとセディアがウィンの背後にいた。その後ろでは、ロディも起き上がってこちらを窺っている。
フローラの様子に気を取られたとはいえ、気付かぬうちに二人に背後を取られていたことに、ウィンの鼓動はさらに早まる。
気付かなかった。気付けなかった。
だめだ。いろんな意味で、しっかりしないと。
セディアが歩み寄ってくる。彼は、兄妹の間にしゃがみ込んでいる形になったウィンの手を取ると、そっと立たせて道を開けさせた。そして、妹の隣に膝をつく。
「フローラ?」
たった一言。その呼びかけは、チクシーカを出てから初めて、彼がただの兄として妹に放った言葉だったのかもしれない。
そこには、ウィンの知らないセディアがいた。その横顔には、思いやりと愛情が満ちていた。そのたった一言の呼びかけは、傍にいたウィンの心をを射抜いた。
*
「フローラ?」
名を呼び、その額に手を当てる。触れた瞬間に、びくりとその身体が震えて、妹は重そうに瞼を持ち上げた。
「お兄様……?わたし……」
妹の震える声に、彼の中で申し訳なさが募る。気付いてやれなかった。自分のことに気を取られて、何より優先すべき妹をこんな風にしてしまった。
「眠っていろ。何も心配するな」
心から、そう伝える。
「ごめんなさい、お兄様。ごめんなさい」
妹の頬を涙が伝う。二人の時にだけ見せる、幼くて甘えん坊で、でも責任感と自尊心が強い、その素顔。
「謝らなくていい。よく頑張った。今お前がすべきことは、少しでも休むことだ」
そう言って頭を撫でると、妹は小さく頷いて素直に目を閉じた。閉じると同時に、彼女の意識が沈んでいくのが分かった。なかなか重症だ。
「おい」
セディアは、自分と入れ替わりに妹の傍から離れていた巫女に声をかける。
「あれ、できないのか。ウィンの時にやった技」
シルヴィーはぱちぱちと瞬きをして、彼を見返す。すぐに答えが返ってこないことが、セディアの気に障る。逡巡の間がしばらく。迷いながら、巫女は口を開いた。
「ウィンは、大地の憑座でしたので、大地の力が借りられました。姫さまは海の憑座なので……」
「そんなことは分かっている。流れを整えるとかいう方だ」
「流れは……」
シルヴィーが言い淀む。視線がゆらりと揺れてフローラの上で止まる。
「すでに整えられる部分は整えているのです」
*
ズン、と激しい衝撃を受けてウィンは飛び上がった。近くで爆発があったような、びりびりとした衝撃。その源と思われる方を振り向くと、ラスクが拳を地面に振り下ろした姿勢で固まっていた。彼が、小声で悪態を吐くのが聞こえた。
衝撃に驚いて振り向いたのはウィンだけで、セディアとロディは変わらずフローラとシルヴィーを見つめている。そこで初めて、ウィンはその衝撃を憑座の能力で感知したのだということに気付いた。
地面に拳を落とした少年は痛みに耐えるような顔で大地を見つめていたが、ウィンの視線に気付くと、彼女を睨みつけてから姿勢を正した。
「すでに、整えているとは」
巫女に向けられたセディアの静かな声が、怒気を帯びている。
「そういうことだな」
シルヴィーは俯く。銀髪が覆った彼女の頬のあたりに、セディアの鋭い視線が刺さる。
「やめろよ、セディア」
それを止めたのはラスクだった。
「そいつを責めたって無駄だ。嬢さんが命令したら逆らえないんだろ。そいつは」
ラスクが、シルヴィーに注ぐ視線は、今夜の星のように空気のようにただただ冷ややかだった。
「ただの人形だ」
吐き捨てるように、ラスクは言った。そして、セディアに向き直る。
「そいつを責めてる暇があれば、この後どうするか考えようぜ」
冷たい目。冷たい態度。
今まで見てきた彼は何だったのだろうと、ウィンは思う。皇太子や皇女に好き勝手な口をきいていた彼。年少者ながら、いつも危険な役回りを買って出ていた彼。それらとは全く違う、残酷な態度。
全身から立ち昇る冷ややかな雰囲気が、彼の静かな怒りを雄弁に語っていた。