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夢幻の書  作者: こばこ
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第十一章「疑惑」③

「ウィン、乗れよ」

 翌日の出発時、セディアが馬上から再度そう言った時、別の馬にラスクと二人乗りをしていたフローラは、後ろの彼が小さく、は?と呟いたのを聞いた。その気配が尖る。声をかけられたウィン自身もまさかという表情でぽかんとしているし、自分たちの後ろにいるロディを振り向くのはもはや怖い。

 兄は、残る面々の反応には目もくれず、穏やかな笑みをたたえて眼下のウィンに向かって諭すように続ける。

「これから先は深い川を渡る場所もある。今までは濡れても走っているうちにすぐに乾いていたけど、これだけ冷えてきたらそうも言ってられないだろ。それに、誰かが怪我をしても進み続けるためには、俺たちが二人で乗れるようになっておかないと困る」

 たぶん、用意していた口上なのだろう。セディアはすらすらと理由を説明していく。ウィンは、聞き進むにつれ何とも言えない表情を浮かべていた。

 フローラは、自分もたぶんウィンと同じ表情をしているのだろうと思う。海の女神オセアがぷっと吹き出すのが聞こえた。

 お兄様……ご自分が何を言っているのか、分かっているのかしら。



 自分から声をかけたものの、やはり昨夜のまま何とも言えない空気が馬上の二人の間に溜まっている。ウィンは何も話しかけてこない。背を向けているので、セディアは彼女の表情も分からない。

 これは、気まずい。

 と、乗り手の緊張を察した馬が、不機嫌そうに身体を震わせた。ぐらりと、身体がかしぐ。

「おっと」

「わあっ」

 二人の声が重なる。後方でラスクが、あいつら大丈夫かよ、とこぼすのが微かに聞こえた。

「大丈夫か?」

 セディアは、手綱を握ったまま脇を締めて、両腕で包むようにウィンの身体を支えながら尋ねる。

「うん、びっくりしただけ」

 前を向いたまま、ウィンが答えた。本当に大丈夫なのだろう、すぐに背筋がすっと伸びた。

 それにしても……。

 思わず、くすりと笑いが漏れてしまった。

「なに?」

 ちらりと後ろを振り返って、ウィンが訝しげな視線を寄越した。

「いや……」声に笑いが滲んでいるのが、自分でも分かる。この流れだと、説明しないと怒るかな。

「『わあっ』って言うんだなって」

 ウィンは彼が言わんとすることが分からないのか、先ほどよりも眉間に皺を寄せて再度セディアを振り返った。

「何でもないよ」

 まだ笑いの残る声でそう言ったが、ウィンは何かに思い当たったらしく、急に声の調子を落として、

「あなたの知ってる都の女の人たちとは、生き方が違うから」

 と、前を向いたままそっけなく言った。

 そんなつもりで言ったんじゃない。そういう風に受け取られてしまうのかと、セディアは少し焦る。

「悪いなんて言ってないだろ、珍しいなと思っただけだよ」

「こんな生き方をしてる女、そりゃ珍しいよね」

 まだ声が不服そうだ。どうしたものかと思ったが、気まずい雰囲気がなくなって会話が始まった。これはこれで、よしとすべきなのかもしれない。

「怒るなって」

 そして、セディアは彼女に次にかける言葉を考えた。


 *


 兄はウィンに、好意を持っているのだろうか。

急な坂道を、ジグザグに折れながらゆっくりと下りていく。兄とウィンの二人乗りは、いつの間にかまるで別人のように安定していて、難度の高い坂道を軽やかに進んでいく。

 こうやって進む時、フローラたちは少し下を走っている先頭の兄たちの馬を見下ろす形になる。いつもは彼の後ろ姿ばかり見ているのだが、折りによっては斜め上から彼らの表情も見えるのだ。

 そして見えてしまったのだ。

 ウィンとの会話に楽しそうにほどけた、その顔を。

 王都でたくさんの女の人たちに囲まれる兄を幾度となく見てきたけど、あんな風に笑うのは初めて見る。

 恐らく同じものを目にしたであろう背後の人に、

「お兄様、変わったよね?」

とこっそりと聞いてみた。できるだけこちらの判断が入らないような、中立的な声音になるように気をつけながら。

「いいのか悪いのか分からんけどな」

 そう返したラスクの声音は、言葉とは裏腹に明らかに怒っていた。



 兄が『女と酒に溺れたダメ皇太子』を演じ始めたのは、いつの頃からだっただろうか。

 立太子の儀を終え、ミトチカで功名を立て、公卿会議でも舌鋒鋭く意見を戦わせ……ああそうか、刺客に斬られて大怪我を負った頃だ。後ろ盾が弱い状態で『切れ者の皇太子』でいることはあまりにも危険なのだと、身をもって知った時からだ。

 信頼していた手下を失い、自らも命が危ぶまれるほどの傷を負ったあの時から、兄の目が一段と鋭くなったことに、フローラは気付いていた。そして、妹をより政治やはかりごとから遠ざけるようになったことにも。

 フローラの前でも口数が減り、笑う時は口の端を少し持ち上げるだけになった兄は、軍に関係ない公務には手を抜くようになった。そして、夜な夜な王都の繁華街へ出向くようになった。

 年若いわずかな護衛だけを連れ、盛り場に入り浸った。金品を惜しみなくばら撒き、酒をあおって女に囲まれていたと聞く。ほどなくして、王城内の生活にも変化がみられた。

 皇太子が女に狂ったとの噂が広がると、キノ家の再興に望みを託す下級貴族や、ラージ家に反発する勢力の娘たちが兄の周りに侍り始めた。もともと侍女や行儀見習いとして王城内にいた女たちが、彼の元に集結したのである。

 兄は、彼女たちを歓迎した。そして、武将としての評判と、女狂いの悪評を天秤に載せ、その時の政局に応じて微妙に重みを変えてきた。

 そうして危うい均衡は保たれてきたのだ。父皇帝が急な病で倒れるまでは。

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